明日の自分に宛てて
僕たちが実験に申し込んだ理由は、それほど立派ではない。
律は通信技術に興味があり、僕は謝礼が欲しかった。
大学の掲示板に貼られた募集には、「時間差情報伝達の受信記録に関する協力者募集」とあった。
未来からメールが来る、と律に説明されて、最初は冗談だと思った。
時間をまたいで短い情報を送れた、というニュース自体は知っていた。
動画サイトで解説を見たこともあった。ただ、実際に送れたのはどんな文なのか、その先で何が起きるのかとなると、急に分からなくなった。何でも予言できるという見出しと、何も役に立たないという見出しが、同じ画面に並んでいた。
律はどちらも信用せず、大学の研究案内から募集元を調べた。
「これ、うちの共同研究やって」
「律の知ってる先生?」
「直接は知らん。やから説明聞いてから考える」
今思えば、それが律らしい答えだった。
僕は面白そう、か、怪しそう、のどちらかを早く決めたかった。律は分からないところを、そのまま持って行ける人だった。
説明会には何組か来ていた。僕たちより年上の人もいた。
応募すればその場で送れるわけではなく、面談と確認を経て、今回の対象になる少人数が選ばれるのだと聞いた。
帰り際、律はまだ迷っていた。
「嫌なこと言われる可能性もあるやろ。明日の自分に」
「明日の自分なら、だいたい今日の自分じゃない?」
「今日の俺と昨日の俺、提出物のことでよく揉めるで」
僕は笑った。
そのときは、たった1日で、自分の声が知らない人の声になるとは考えなかった。
「来週の試験問題とか聞ける?」
「そういう実験ちゃうらしい」
「じゃ、来週の僕が受かってるかだけ」
「それもあかんやろ」
まだ選抜の結果が出る前のことだった。
面談で担当研究員が見せてくれた説明資料は、驚くほど地味だった。
数字の列と、通信に成功した時刻の記録。装置の写真は、未来を変える機械というより、大学のどこかの倉庫に置いてありそうな金属の箱だった。
「同じ過去を共有していた、別の経過へ文章を送ります」
研究員は紙の真ん中に線を引き、途中から2本に分けた。
上にA、下にBと書く。
「送信側をA、受信側をBと呼びます。Bが何をしても、Aで起きたことが消えるわけではありません」
「じゃあ、過去に戻るんじゃないんですか」
「人は戻りません。送信者にとっての昨日と同じところへ、情報だけを渡すんです」
僕には完全には理解できなかった。
理解できないまま署名しないようにと、研究員は休憩を挟んで、同じことを違う言葉でも説明した。
今回は僕と律が1組。
受信側では11月3日の午前9時に、翌4日の送信枠から、それぞれの登録端末へ最大100字が届く。
送信側に進んだ僕たちには、その受信はない。
使える枠は各自1通だけ。相手の枠を借りることも、送り直すこともできない。返信はできず、送った文章がその先でどう扱われたかも確認できない。
「受け取った文章が、あとで別の内容に変わることは?」
律が尋ねた。
「ありません。受信記録は、そのまま残ります」
研究員は、机に置いた説明用の端末を僕たちに向けた。
受信日時、本文、発信元を確認する番号が、別々の欄に並んでいた。
「メールと呼んでいますが、普段使うメールアドレスへ自由に送るものではありません。今回の2つの登録先と、指定した時刻だけを使います」
「僕が律宛ての文章を送ることは?」
「できません。あなたの枠からは、受信側のあなたにだけ届きます。誰かに伝えたいことがあれば、受け取ったあなた自身に伝えてもらうことになります」
僕は紙のBの横に、自分の名前を書いた。
もうひとつ、律の名前を書いた。
「じゃあ、そっちの僕が受け取って、翌日にまた送ったら、どんどん直せません?」
研究員は、AからBへ伸びた矢印を指した。
「この試験で用意できる接続は、ここだけです。Bの翌日から、さらに別の昨日へ送る枠はありません。B側で送信予約を作ろうとしても、この登録では受け付けません」
「何回もやり直す機械じゃないんですね」
「少なくとも、今回あなた方にお願いする試験は違います」
分からないことには、分からないと答える人だった。
すべての世界がどこかに並んでいるのか、と僕が尋ねると、その広さを調べる試験ではないと言った。観測できた通信経路と、それ以外についての想像を分けてほしい、と。
僕は書きかけた3本目の線を消した。
「Bで事故を避けたら、Aの人の記憶も変わるんですか」
律が聞いた。
「変わりません。送信側には、受信後の経過を持ち帰る通信がないからです。無事だったかどうかも分かりません」
「届いたっていう返事も?」
「受信後の人間からの返事はありません。装置が送信処理を終えたという記録と、その後の相手の暮らしは、別です」
律は資料の端に、返信なし、と書いた。
僕にはその文字が妙に冷たく見えた。
傘を持っていけと送っても、濡れずに済んだという報告は来ない。
忠告して、終わりだった。
「じゃあ、未来の俺と喧嘩してもええんですね」
研究員は少し笑った。
「もちろん。指示に従う義務もありません」
情報の使い方については、別の説明があった。
利益を得るための利用は参加規約で禁止されていて、送信内容も記録される。ただ、悪い目的の文章だけを装置が見分けて止めるような仕組みではない。だから審査も、監査も、受信後の聞き取りもあるのだと言った。
少人数の試験で、誰でも好きな宛先に送れるわけではない。
「禁止されてても、株価とか書こうと思えば書けるんですか」
僕が尋ねると、研究員は頷いた。
「装置が善悪を判断して文字を消すわけではありません。規約違反の問題と、物理的に文字が送れるかは区別してください」
話は、そのまま危険の連絡へ移った。
受信文に事故や犯罪を示す具体的な情報が含まれていた場合、研究室の緊急窓口へ知らせる。目の前に差し迫った危険があれば、通常の通報や避難を優先する。研究のために行動を変えずにいてほしいとは頼まない。
説明書には、夜間を含めた連絡先が載っていた。
「もし止めてしまったら、実験の結果が取れないんじゃないですか」
「行動が変わることも含めての記録です。危険を放置して、元の経過と比べるような依頼はしません」
律はそこで、ようやく背もたれに身体を預けた。
僕は研究員が何度も使った「通常」という言葉に安心した。
未来の情報が来ても、今の僕が特別な救助者になったり、研究員の代わりをしたりする必要はない。
確認を終えてから、僕たちは別々に参加の意思を答えた。
律がやるから僕も、ではなく、自分の判断で答えてほしいと言われた。
少し離れた椅子で、律が資料を閉じるのが見えた。
僕は自分の欄に署名した。
その日の帰り、律に、もし辞退してたらどうした、と聞いた。
「俺は俺で考えたと思う」
「一緒じゃなくても?」
「湊がおらんかったら、怖くなってやめたかもしれん。でも、お前が俺の分まで決めるんは違うやろ」
僕はそのとき、そういうものかと思った。
別々に決めても、一緒に帰ることはできた。
「100字って、短いな」
帰りに僕が言うと、律はパンの袋を開けながら答えた。
「昨日の自分に、そんな長い用事ある?」
「傘持ってけ、とか」
「それくらいでええやろ」
律はパンを半分に割った。片方を僕へ差し出してから、大きさが違うと気づき、ほんの少し迷って、大きい方を僕に渡した。
昔から、そういうところがあった。
僕はたぶん、その迷う時間まで含めて律が好きだった。
11月2日の夜、僕は登録用のアプリを開いた。
受信確認用の識別番号と、明日の午前9時という時刻が表示された。その下に、小さな文字がある。
〈到着した情報は、あなたの行動を拘束しません〉
録音に行くのは午後だった。
明日の僕は、今日の僕に何を伝えるだろう。
録音がうまくいったと教えてくれたらいい。
律の話が、悪い話ではなかったと。
そう考えてから、僕はスマホを充電器につないだ。




