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明日の僕から、君を嫌いになれと届いた  作者: きびだんご


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君のための音

自分が楽しみながら書いていきます!

 律(りつ)の録音には、いつも僕の知らない音が入っていた。


 鍵盤を押し込む音。椅子の脚が床を擦る音。曲が始まる前、僕が息を吸う音。

 演奏の邪魔になるものだと思っていたそれらを、律は簡単には消さなかった。


「ここ、もうちょっと残したい」


 ヘッドホンを片耳だけ外し、律が画面を指さす。

 波形のない、ほとんど真っすぐな部分だった。


「何も鳴ってないけど」

「まだ弾いてないだけやろ」

「同じじゃない?」

「違う」


 律はそこを再生した。

 小さな衣擦れのあと、僕の弾く最初の和音が鳴った。弾いたのは僕なのに、さっきより少し慎重な音に聞こえた。


 律と初めて会ったのは、小学生のころ、駅の反対側にあったピアノ教室だった。

 僕は先生が弾いた通りに弾きたくて、律は同じ鍵盤を違う強さで叩いては、音が変わるのを面白がっていた。僕が1曲を最後まで弾くあいだに、律は最初の4小節から先へ進まない。先生に促されても、今のところをもう一回、と言った。

 当時の僕には、なぜ同じ場所にいつまでもいられるのか分からなかった。


 初めて一緒に出た発表会で、僕は途中の音を忘れた。

 暗譜していたはずだった。家では何度も弾けた。けれど客席で誰かが咳をして、その人を見た瞬間、右手の位置が分からなくなった。

 先生は舞台袖にいた。戻れと言われている気がして、僕は最初から弾き直した。同じところで、もう一度止まった。


 終わったあと、控室でほかの子の演奏を聞きながら、靴のつま先を擦り合わせていた。

 律が隣へ来て、僕に水筒を差し出した。


「飲む?」

「いらない」

「ほな、俺飲むわ」


 本当に自分で飲んだ。

 慰められると思っていた僕は、腹を立てる機会をなくした。


「間違えたところ、みんな覚えてるかな」

「知らん。俺は、最後の低い音が好きやった」


 そこは難しいところではなかった。両手でひとつの和音を押すだけだった。

 律はそれを、こんな音、と口で真似した。似ていなくて、僕は少し笑った。

 その日の演奏を全部なかったことにしたかったのに、律には残しておきたい音があった。

 それが、当時の僕には意外だった。


 大学2年になった今も、律は時々、僕が数えなかったものを数える。

 僕は演奏を中心に学び、律は同じ大学でメディアや制作の授業を取っていた。共通の講義は減ったけれど、キャンパスの食堂やこの会館で顔を合わせた。

 高校の途中でピアノ教室をやめた律を、最初、僕は音楽から離れたのだと思った。

 しばらくしてマイクの話ばかりするようになったときも、僕が弾いている間の趣味くらいに考えていた。

 けれど律は、僕の知らない名前の録音を聴き、図書館から厚い本を借り、週末には学外の講座にも出かけていた。

 続けているのは僕だけだと、いつの間にか決めていたのかもしれない。


 律がヘッドホンを僕に渡した。


「次、右だけ聴いてみて」

「右?」

「窓からの返り方、違うねん」


 言われた通りにすると、いつもの演奏が少し遠くへ移った。

 律には、こういう違いを確かめるための言葉があった。

 僕はその言葉をほとんど知らなかった。


 11月2日。市民会館の第2音楽室には、西日が長く差し込んでいた。

 窓際のカレンダーは今月で終わっている。この会館は、年度末を待たずに閉館する。壁に残った画鋲の穴も、ペダルを踏むたびに鳴る床も、あとしばらくで使われなくなる。

 律は、その前にここで録音をしたがっていた。


「明日、最後まで通せそう?」

「湊(かなで)がよかったら」

「いいよ」


 言ってから、僕は譜面の端を揃えた。

 大学の学内選抜演奏会に落ちた、と知らせが来たのは先週だった。通知の件名を見ただけで、結果はだいたい分かった。落選の文章は、いつも丁寧で短い。

 スマホを伏せてからも、僕は通知を消さなかった。

 何度開き直したところで、名前が増えるはずはなかった。


 その夜に律から録音を頼まれた。

 必要な音があって、それを僕に弾いてほしいと言った。

 演奏会のステージに呼ばれなかった僕を、こいつだけは呼んだ。


 選抜の当日、練習室の前で順番を待っていた僕は、律に指の写真を送った。

 爪を切りすぎた、とだけ書いた。痛みはなかった。ただ何か返事が欲しかった。

 律は、切ったもんは戻らん、と返してきた。そのあとに、帰り何食う、と続いた。

 僕はそれを、お前なら大丈夫という意味に受け取った。

 本当は、律は結果に関係なく食事に誘っていただけだったかもしれない。


 落選の夜、僕はそのトークまで遡った。

 指の写真を消そうとしてやめ、通知画面へ戻った。ほかの学生の名前が並ぶ掲示を見に行く気にはなれなかった。

 そのうち律の頼みが届いた。


〈会館が閉まる前に録りたい。今度、弾いてもらえる?〉


 返信を書く手は、すぐに動いた。

 曲目と時間を聞く前に、いいよ、と送った。

 律は、日程見てからでええで、と返した。


 断るつもりなんて、少しもなかった。

 先生への返信はできないのに、律にはすぐ答えられることを、おかしいとも思わなかった。


 今、譜面の端には、律に渡された付箋が貼ってある。

 少し弱く、響きを長めに。言葉だけでは曖昧な注文だったけれど、聞かれていると思うと、何度でも弾き直せた。


「今の、どう?」

「好きやけど、もう一回比べたい」


 もう一回。

 次があることが嬉しかった。

 録音を終えたあとのことは、あまり考えなかった。


「ほんまに無理せんでな」

「してないって」


 早く答えすぎたのか、律が少しだけこちらを見た。

 僕は鍵盤に右手を戻した。


「どこから?」


 律は答えかけて、机に置いたスマホへ目を落とした。通知を一度読んでから、画面を伏せる。


「最後の8小節」


 僕は弾いた。

 和音を落とすたび、律の指が机の上で小さく動いた。昔、一緒にピアノを習っていたころの癖だった。律は演奏を続けなくなってからも、音楽を聴くときには指を動かす。


「たまには自分で弾けば」

「今のお前と並んだら、俺だけ遅れるわ」

「合わせるよ」

「湊、合わせる前に俺の分まで弾くやん」


 冗談だと思って笑った。

 律も笑ったから、それ以上は考えなかった。


 帰り際、管理人に録音機材の返却場所を確認した。

 正面受付は明日の夕方、搬出作業で混むらしい。


「裏の南口でも預かれるから。表で待たなくていいよ」


 律は頷き、僕は閉館のお知らせを眺めていた。

 この部屋がなくなったら、録音はどこでするのだろう。

 律の家か、大学か。場所を探すことになるなら、それも一緒にすればいい。

 そんなふうに、ごく自然に次を考えた。


 駅の改札で別れる前、律が言った。


「明日、録音終わったら、ちょっと話したいことあんねん」

「今じゃ駄目?」

「ちゃんと話したいから」


 ちゃんと、と言われると急に怖くなる。

 でも律はいつもの顔で、切符の代わりにスマホを改札へかざした。


「じゃ、明日」

「うん」


 明日も僕は、律のために弾く。

 その予定があるだけで、落選通知をもう一度開かずに帰れそうだった。

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