100字の向こう側
律は受け取ったスマホを両手で持った。
読み終わるまで、ほんの数秒だった。
僕には、とても長かった。
律の目が、最初の行から下へ動いた。
画面を拡大することもなく、途中で僕の顔を見ることもなかった。
僕は何か言おうとして、やめた。
冗談かもしれない。僕はそんなふうに思っていない。未来の僕が勝手に書いた。
どれも、律が読む前に意味を決めてしまう言葉だった。
最後まで読んでから、律は小さく息を吸った。
その呼吸が聞こえたことを、しばらく忘れられなかった。
僕は文章を打っていない。けれどそれを持ったまま、今日、律を疑い、傷つけることを言った。
画面のせいだと切り離せるほど、今の僕は無関係ではなかった。
「これ、朝から持ってたんやな」
律が言った。
「うん」
「ずっと俺のこと見ながら?」
僕は頷いた。
律はしばらく目を閉じた。
「そら、しんどかったと思う。でも俺、何を疑われてるかも知らんかった」
僕は謝った。
律はすぐには返事をしなかった。
全文を見せれば秘密がなくなって、仲直りできると思っていたところがあった。
実際には、知らされなかった時間の分も、相手へ渡すことになった。
「……これ、湊が送ってきたんやな」
「明日の僕が」
律の指は、画面に触れなかった。
「朝、言おうと思った。でも、言えなかった」
「うん」
「律が何か、するのかと思った」
律が顔を上げた。
「僕を裏切るとか。見捨てるとか。だから、編入の話を聞いて……それなのかなって」
言葉にすると、理不尽さがはっきりした。
まだ起きてもいないことを理由に、目の前の律を疑った。
律はスマホを僕へ返した。
「俺からも、見せてないところある」
差し出された画面を読んだ。
〈今日17時すぎ、会館で火事になる。湊がお前を探しに戻って大けがをする。居場所を必ず伝えろ。編入のことも話せ。あいつは、お前が思う以上にお前を優先する。〉
僕は最後まで読んでから、最初へ戻った。
何度読んでも、律が僕に助けを求めるとは書いていなかった。
僕が、探しに戻ると書いてあった。
「編入の話、メールに書いてあったからしたの?」
「昨日から、するつもりやった。でも今日も、後回しにしたかもしれん。これは、逃げんように書いたんやと思う」
律はスマホを受け取り、画面を消した。
「律の文には、僕を嫌えとは書いてないね」
「書いてへんな」
「同じことが起きたんだよね」
「そうやと思う。時刻と場所と、湊のけがは合ってる。でも、俺が何を見て、何を考えたかまでは書いてへん」
100字の上限が、初めて実際の狭さを持った。
あの会館で何が燃えたのか。律はどうやって外へ出たのか。僕は誰に何を聞いて戻ったのか。
僕たちは知らなかった。
それなのに僕は、最後の一文だけで、律が僕を見捨てた物語を作りかけていた。
律は自分の受信文を、もう一度開いた。
「俺、ここの優先するってとこ、最初は責められてる気がした」
「律が?」
「俺が甘えたから、湊がけがしたんやって言われてるように読んだ」
僕は律を見た。
朝から、律が何度も居場所を知らせ、連絡を切らさないようにしていた理由が少し分かった。
ただ用心深かったのではない。自分が間違えると僕を傷つけると思っていたのかもしれない。
「でも、今もそうかって聞かれたら、分からん。知らせろって書いてあるだけで、俺ひとりで全部防げるとは書いてない」
律は画面の文字を指で追った。
「湊に来た方も、律は外にいるって書いてる。向こうの俺が生きてることは、それで分かるやろ」
僕は頷いた。
律の無事を伝える一文と、律を嫌えという一文が、同じ文章の中にあった。
送り主は、いったいどんな顔で両方を打ったのだろう。
憎んでいるなら、わざわざ無事を教えたのはなぜだろう。
僕を中へ戻らせないため。
それだけでも説明はついた。
でも僕は、あちらの僕も律が外にいてほしかったのではないかと思った。
そうであってほしいという、僕の願いだった。
「未来の俺は、湊に頼んだって書いてへん」
「分かってる」
「今の俺も、頼んでへんからな」
声が少し強くなった。
「もし連絡つかんくなっても、俺がおるか分からん場所に戻らんといて。中におるって思っても、消防の人に伝えて。勝手に自分の手を賭けんといて」
僕は俯いた。
「律なら、僕を探さない?」
「探すと思う。でも、入って助けられるかは別やろ。できんことをしてほしいわけちゃう」
その言葉を受け入れるのに、少し時間がかかった。
僕は、行動の大きさが気持ちの大きさを証明してくれると思っていた。
そうしないと、ただここにいるだけの僕には、何も渡せるものがない気がしていた。
「戻ってくれたら、嬉しいと思ってた?」
律に聞かれて、僕は答えに迷った。
「助かったら、そう思うんじゃないかって」
「助かるかどうかも分からん状況で、お前がけがしたって聞かされるの、嬉しくない」
言い方は強かった。
僕は反論しようとした。大事な人がいるかもしれない場所で、黙って待つのも怖い。あとで自分だけ助かったと思うのも嫌だ。
そこまで考えて、自分だけ、という言葉に引っかかった。
律がどうなるかだけではなく、そのあと僕が自分をどう見るかも怖かったのだ。
「待ってるの、何もしてないみたいで」
「人を呼ぶとか、名前と最後に見た場所を伝えるとか、あるやろ。待つしかないときもあると思う」
律は途中で口を閉じた。
少しして、小さな声で続けた。
「俺かって、実際にその場にいたら、ちゃんとできるか分からん。やから今、約束したいねん」
その言葉で、僕は少し顔を上げられた。
律が正しくて僕が弱い、という話ではなかった。
怖くなったときに忘れるかもしれないことを、怖さに飲まれる前に決めようとしていた。
「分かった。分からないまま戻らない。人に伝える」
「俺も。勝手に平気やと思わんと、場所を知らせる」
大げさな誓いではなかった。
今夜帰るときにも使う、短い約束だった。
「嫌いになれって、言われたら、どうしたらいいか分からなくなった」
初めて、そのまま言えた。
「嫌いたくないのに」
律は川を見た。
しばらくして、口を開いた。
「その人、明日の湊なんやろ」
「うん」
「今日、何があったか、俺らより知ってる。でも、そのあとどうしたらええかまで、全部分かってるとは限らんやん」
僕は画面を見た。
未来から届いた文章を、未来の答えだと思っていた。
そこにいるのも僕なら、痛くて、怖くて、間違ったことを言うかもしれない。
それでも警告は、本当かもしれない。
従わなくていい部分があるからといって、全部を捨てることもできなかった。
僕は受信文を閉じた。
消しはしなかった。
律がここにいる。
それは、メールを読まなくても確かめられた。




