選ばれなかった僕
僕たちは、川沿いの売店で温かいお茶を買った。
律の財布がすぐに出てこなくて、僕は2本分を払おうとした。
「自分のは出す」
律はそう言って、鞄の底から財布を見つけた。
たったそれだけのことを、断られたように感じた。
自分でも驚いた。
律が小銭を出すのを、僕は黙って見ていた。
店の人がお釣りを数え、律が財布へしまう。何もおかしなことは起きていなかった。
それなのに、手の中のお金が行き場をなくしたように感じた。
「ごめん」
僕が言うと、律が眉を上げた。
「何が?」
「いや、何でもない」
何でもない、と言ってしまってから、さっきまでの話を思い出した。
僕は飲み物を受け取り、店の前を少し離れてから言い直した。
「僕が払おうとしたの、断られた気がした」
律は黙ってこちらを見た。
「でも、自分の分を払っただけだよね」
「うん。俺、今それ以上の意味なかった」
僕は小さく頷いた。
頭の中で勝手につけた意味と、相手がしたことを分けてみると、少しだけ足元が戻ってきた。
そんなことでいちいち確認しなければならない自分が情けなくもあった。
「何でも聞かれたら、面倒かな」
「全部に答えられるかは分からん。でも、勝手に俺の答えまで決まってるよりは、聞いてほしい」
律はボトルのラベルを指で押した。
「俺も、さっき言い方きつかったかな、とか思うから」
僕たちはお互いの顔を見た。
どちらかひとりだけが、考えすぎているわけではなかった。
ベンチに戻り、手の中でボトルを転がした。
「僕、何かしてないと、駄目だと思ってたのかもしれない」
律は蓋を開けかけた手を止めた。
「何かって?」
「弾くとか。録音手伝うとか。役に立つこと」
落選通知には、不適格だとも、才能がないとも書いていなかった。
今回は選出を見送る、としか。
それでも僕は、自分にはもう人に渡せるものがないように感じていた。
僕よりうまく弾く人がいる。僕より必要とされる人がいる。
律から録音を頼まれたとき、ようやく座れる場所を見つけた気がした。
小学生のころは、曲が弾けるようになるたび家族に聴いてもらった。
知らない曲でも、最初から最後まで聴いてくれた。途中でつかえても、最後には拍手をしてくれた。
いつからか、僕の方が、その拍手を信用しなくなった。
専門に学んでいない人には違いが分からない。家族だから褒めてくれる。それでは外で通用するか分からない。
そう思って、聴いてもらう回数が減った。
大学へ入ると、周りにはずっと難しい曲を弾く人がいた。
僕は選ばれることでしか、自分が進んでいるか確かめられなくなった。
選ばれない日は、誰かの用事を手伝った。伴奏の譜読み、譜面の印刷、練習室の予約の確認。
助かったと言われると、今日の自分は何もなかったわけではないと思えた。
その全部が嫌だったわけではない。
人と一緒に音楽を作るのは好きだった。律の録音を聴くのも面白かった。
だから、自分でも分からなくなっていた。
好きでしていることと、しなければ捨てられると思っていることが、同じ動作の中にあった。
「僕、自分で予定なくしたこともある」
律が顔を上げた。
「録音の日に合わせるために。練習室、先に取ってたけど変更した。でも律には、空いてるって言った」
「知らんかった」
「言ってないから」
律が謝りかけるのを、僕は首を振って止めた。
「律が、やめろって言ったんじゃない。僕が決めたのに、あとから、こんなにしてるのにって思うのは違うと思う」
口に出して初めて、今日の怒りの中に、伝えていない期待がいくつも混ざっているのが分かった。
僕は断らない代わりに、律にも断ってほしくなかった。
そんな取引をしていることを、律は知らなかった。
「だから、律が困ってると、ちょっと安心してた」
口にすると、胃の奥が縮んだ。
「機材運ぶ人が足りないとか、この曲弾ける人いないとか。僕がいればできるって言ってもらえると、嬉しかった」
「助かってたのは、ほんまやで」
「うん。でも、助けなくても律が平気なら、それを喜べないのは違うと思う」
ボトルが、指の間で小さく鳴った。
「遠くでやりたいことがあるって聞いて、よかったねより、僕の場所がなくなるって思った」
律は長い間、返事をしなかった。
僕が次の言葉を探すのを待っているのだと、ようやく分かった。
「録音を消せって言ったの、使い道を説明してもらってなかったからだけじゃない。困らせたかった。僕なしじゃ駄目だって、言ってほしかった」
言い終えて、顔を上げられなくなった。
「ごめん」
律は隣で、息を吐いた。
「……うん」
それだけだった。
大丈夫だと言ってほしかった。
言われないまま、僕は次の言葉を待った。
「録音は、消してもうたから戻らん」
「分かってる」
「また頼むかどうか、今は決められへん」
「うん」
「出願の締め切り、間に合う?」
僕は尋ねた。
律は少し考えた。
「作り方を変えることになると思う。場所を変えるか、別の音を録るか。まだ決めてへん」
「僕、代わりにできることある?」
言ってから、早すぎると思った。
律はしばらく僕を見て、それから答えた。
「今日はない。俺が何を作りたいか、考える時間がほしい」
僕は頷いた。
何かさせてもらえれば、謝るだけで待っているより楽だった。
頼まれたことを一生懸命やれば、埋め合わせが済んだ気になれるかもしれない。
でも律は、僕が楽になるための仕事を作る必要はなかった。
「僕のせいで困ってるのに、何もしないの、落ち着かない」
「せやろな」
律はそう言って、しばらく黙った。
「今すぐ許したことにするのも、俺、落ち着かん」
僕はボトルを握り直した。
温かさが、さっきより弱くなっていた。
「じゃあ、今はそのままでいて」
言うのに、少し力が要った。
律は頷いた。
僕たちは仲直りの形を急いで作らず、そのままお茶を飲んだ。
風が強くなり、律が空を見上げた。僕も同じ方を見た。
雲が動いていた。
こんな日の途中でも、天気の話ならできることが不思議だった。
律は僕を見た。
「でも俺、録ってへんときも、お前と飯食ってたやろ」
僕は小さく頷いた。
「それは別に、次に弾いてもらうためちゃうから」
そう言われて、駅前の安い定食屋の席が浮かんだ。
律の頼んだ唐揚げをひとつもらった日。逆に僕の食べきれないご飯を押しつけた日。
何も録らず、何も弾かず、くだらない話だけして帰った日。
あれらを、僕はいつの間にか数えなくなっていた。
「今日は、僕が弾かなくてもいい?」
聞いてから、もう録音は中止だと気づいた。
律は少しだけ笑った。
「今日は、そもそもピアノがない」
僕も笑った。
笑えたことに、少し驚いた。




