消えなかった録音
――送信側・A。翌年5月。
机の右端に、小さな紙が貼ってある。
今週できたことを、忘れないための紙だった。
僕は最初、その紙が嫌いだった。
書きたいことと、書けることの大きさが違いすぎた。
元の曲を弾けた、と書きたかった。
実際に書くのは、昨日より楽にシャツのボタンを留められた、というようなことだった。
右手は、けがの前と同じには動かない。
できることは増えたけれど、疲れると難しくなる動きもあった。
先のことを尋ねて、はっきりした答えがもらえない日には、帰り道の全部が嫌になる。
良くなったところを指摘されて、素直に頷ける日もある。
同じ言葉を聞いて、たったそれだけなのに、と思う日もある。
言ってくれた人の気持ちが分かるから、僕は一度ありがとうと答える。そのあとで、今日はまだ嬉しいと思えない、と言い足すことも覚えた。
紙には、できたことだけを大きく書こうとしていた。
けれど隣へ小さく、疲れた、と書いてみたら、少しだけ見やすくなった。
できたことを喜ぶために、つらかったことまで消さなくてよかった。
電車の中では、なるべく混まない車両を選ぶ。
選んでも混む日はある。
誰かにぶつかられないよう気を張っていると、大学へ着く前に疲れることもある。
以前の僕は、授業が終わってから何時間練習できるかを考えていた。
今は、帰宅までの分も含めて予定を決める。
その変化を、いつも納得して受け入れているわけではない。
友人が新しい曲の話をすると、聞きたい気持ちと逃げたい気持ちが同時に来た。
途中で席を外した日もあった。
翌日、昨日はしんどくなっただけだと伝えると、相手は、そうか、と言った。
それだけで済むこともあった。
僕は少しずつ、自分が説明しなければならないことと、全部説明しなくてもいいことを分けていた。
それでも僕は、大学へ戻っていた。
授業の受け方や課題の出し方を相談し、何度か変更した。
ピアノの前に座れない日は、座れないと言った。
そのたびに音楽から永久に出ていかなければならないわけではないと分かるまで、時間がかかった。
ある授業で、短い録音を聴いて感想を出す課題があった。
僕は音程やテンポのことだけを書いた。
先生に、ほかには、と聞かれて黙った。
律なら部屋の音のことを言うだろうと思い、もう一度聴いた。
演奏の直前に、誰かが息を吸っていた。
その音に気づいたら、次の一音が少し違って聞こえた。
僕はそれを書いた。
提出した紙が戻ってきたとき、特別な励ましの言葉はなかった。
どの部分でそう感じたのかを具体的に、と欄外に書かれていた。
僕は少し腹を立て、それから、確かに説明が足りなかったと思った。
けがをした学生としてだけ扱われない時間が、そこにはあった。
だからといって、配慮がいらなくなるわけではなかった。
書くための時間は相談し、必要なところは助けてもらいながら、出した内容には直すところがあった。
その両方が同じ日にあっていいのだと、何度も確かめた。
律は、4月に引っ越した。
応募には、会館の録音とは別に作った作品を出したと聞いた。僕があの録音をまだ聴けず、提出への同意も決められずにいることを、急がせなかった。
僕は、録音は消さずに持っていてほしいことと、応募に使うかは今決められないことを、分けて伝えた。律は自分の締め切りに向けて、別の準備を進めた。
編入の準備を再開してからも、行っていいのかと何度か聞かれた。
僕は、行ってほしい日と行ってほしくない日がある、と答えた。
それでも進路は律が決めてほしいと伝えた。
引っ越しの日、駅までは行かなかった。
朝から手が痛くて、見送りに行けば平気なふりをしそうだった。
〈今日は家におる。着いたら教えて〉
そう送った。
〈分かった。落ち着いたら電話する〉
律は、申し訳ないとは書かなかった。
それでよかった。
数日後、律から部屋の写真が届いた。
まだ段ボールが積まれていて、机の上に録音機だけが先に置かれていた。
僕は、椅子買った、と聞いた。
〈まだ。今、箱に座ってる〉
〈壊れるよ〉
〈一回へこんだ〉
笑ってから、少し寂しくなった。
僕が一度も行ったことのない部屋で、律の日常が始まっていた。
そこに僕のための場所が用意されていないことは、僕を忘れたという意味ではなかった。
頭では分かっていた。
写真を何度も開く日は、まだあった。
律から電話が来たとき、僕は病院からの帰りで疲れていた。
今日は短くしてほしい、と伝えた。
律は新しい授業の話をひとつだけして、またな、と言った。
切ったあと、もっと話せばよかったと思った。
でもあのときは疲れていた。それも本当だった。
自分が決めたことに少し後悔が残っても、それだけで間違いになるわけではなかった。
今夜、僕は机の上に、あの日の録音機を置いていた。
律に借りたものだった。
イヤホンではなく、小さなスピーカーにつないだ。
通話をかけると、律は4回目の呼び出しで出た。
「ごめん、洗い物してた」
「今、大丈夫?」
「うん」
僕は録音機の再生ボタンへ左手を置いた。
「聴こうと思う」
律の返事が少し遅れた。
「会館の?」
「うん。途中で止めるかもしれない」
「ええよ」
僕はボタンを押した。
古い椅子が鳴った。
窓を閉める音がした。
いくよ、と僕の声が言った。
ピアノが始まった。
最初の和音だけで、胸が詰まった。
こんなふうに弾けたのか、と思った。
今の僕にはできない動きを、録音の中の僕は何でもないことのように続けた。
最初の頃に律が持ってきた録音を断ったのは、これが怖かったからだった。
今の自分を、けがをする前の自分に毎秒比べられる。
しかも比べているのは、律でも先生でもなく、僕だった。
律の通話の音が、スピーカーから鳴るピアノに重なった。
遠くで何かの扉が閉まったらしい。
「そっち、誰か来た?」
「隣の部屋やと思う」
律は今、会館にはいなかった。
僕も病院にはいなかった。
録音の中に残った時刻と、今の時刻は別だった。
分かっていても、音が鳴ると身体のどこかがあの日へ引かれた。
僕は左手を再生機へ伸ばした。
止めるためのボタンは、すぐに届くところにあった。
全部聴き終わらなければならないわけではないと、自分に言った。
今日は自分で止められる。
そう思ってから、ようやく次の小節を聴けた。
一度、再生を止めた。
律は電話の向こうで黙っていた。
気にしなくていいとも、いつか戻れるとも言わなかった。
「腹立つな」
僕は言った。
「自分なのに」
「うん」
しばらく待って、また再生した。
途中で、音がわずかに濁った。
当時は嫌だったはずの弾き損じだった。
その次の小節で持ち直して、曲は最後まで続いた。
録音の中の僕も、完璧ではなかった。
あの日から、僕はけがをする前の自分を、少しずつ実物より遠いところへ置いていたのかもしれない。
最後の和音が消えた。
しばらく、部屋の音だけが残った。
『もう弾いてないよ』
僕の声がした。
『分かってる』
律の声。
そのあと、僕が笑って、律も笑った。
録音が終わった。
僕は止まった画面を見ていた。
残っていたのは右手の音だけではなかった。
律もいた。
僕も、ただの演奏者としてだけではなく、そこにいた。
「残しといてくれて、ありがとう」
電話の向こうで、律が息を吐いた。
「うん」
僕は、送ったメールのことを初めて話した。
最後に何を書いたか。
今は、それを変えたいと思っていること。
律は最後まで聞いた。
「向こうの湊、怒ってるかもしれんな」
「誰に?」
「お前に。勝手に決めんなって」
僕は笑った。
少しだけ泣いた。
「そうだといいな」
どれだけ話しても、確かめることはできなかった。
あちらの2人が無事かどうかも、一緒にいるかどうかも、僕たちは知らない。
通話を終えたあと、僕はピアノの前へ座った。
譜面台には、先生と相談して選んだ左手用の短い練習曲を置いていた。
右手は楽な位置に休ませた。
最初の2小節を弾いた。
思ったより難しかった。
左手だけで旋律と伴奏を分けようとすると、すぐに音が硬くなった。
僕は止まり、譜面に印をつけた。
明日、もう一度ここから弾こうと思った。
机の紙には、まだ何も書かなかった。
今夜は、書く前にもう少し弾きたかった。




