明日を知らない僕たち
――受信側・B。翌年5月。
応募フォームには、録音した演奏のファイルを添付する欄があった。
僕は選択ボタンを押して、ひとつ前の画面へ戻った。
もう一度、募集要項を開く。
読むのは4回目だった。
若い演奏者を対象にした、小さな公募だった。
受かったところで、すべてが決まるわけではない。
落ちたら平気かと言われれば、たぶん平気ではない。
それでも締め切りは今夜だった。
ファイル名の末尾には、数字がついていた。
何度も録り直し、最後に残した演奏だった。
いちばん間違いが少ないものと、いちばん自分で聴き返したいものが違って、しばらく選べなかった。
以前の僕なら、律にどちらがいいか聞いたと思う。
今回は先生に演奏上の問題を確認し、録音を手伝ってくれた同級生にも意見をもらい、そのあと自分で選んだ。
選んだことに、不安がなくなったわけではなかった。
応募をやめる理由なら、いくらでも作れた。
もう少し練習してから。録る場所を変えてから。忙しい時期を過ぎてから。
どれも完全な嘘ではない。
でも次に同じ案内が来たとき、僕が少しも怖がらなくなっているとは思えなかった。
スマホのメモには、落ちたらすることを書いていた。
結果を確認する。講評があれば読む。しんどかったら、その日は休む。次のレッスンで相談する。
受かったらすることより、そちらが長かった。
それを臆病だとは思わないことにした。
どちらの結果でも、その先に予定を置いておきたかった。
律は、4月から別の街で暮らしている。
編入試験に受かったと聞いたとき、僕は、おめでとう、と言えた。
電話を切ったあと少し落ち込んだ。
言えたことと、寂しくないことは同じではなかった。
引っ越し前に食事をした。
律は新居の間取りを見せ、僕は近くに安い店があるか聞いた。
毎日連絡しようとは約束しなかった。
次に会う日も、授業の予定が分かってから決めることにした。
見送りの日、ホームは人が多かった。
律の鞄は重そうだったが、僕は勝手に持たなかった。持とうかと聞き、改札まで頼むと言われたので、そこまで持った。
渡し返すと、律は肩紐を短く直した。
「何か忘れてない?」
僕が聞くと、律はスマホと財布のある場所を順番に叩いた。
「たぶん大丈夫」
「たぶんか」
「忘れてたら連絡する」
僕は頷いた。
何か忘れていてくれれば、また話す理由ができると思いかけた。
でも忘れ物がなくても、連絡してよかった。
そのことを、律が乗るまで何度か考えた。
列車が近づく音がした。
あの日の会館の話はしなかった。
互いに助かってよかったと確認してからでなければ、別れられないわけではなかった。
「向こう着いたら、忙しいと思うけど」
僕が言いかけると、律が顔を上げた。
「何?」
「部屋、片づいたら写真見せて」
「片づく前じゃあかん?」
「別にいいよ」
律が笑った。
僕も笑った。
大事なことを言わなければと力を入れていた肩が、少し下がった。
扉が閉まり、律が手を上げた。
僕も上げた。
列車が見えなくなってから、予約していた練習室へ向かった。
途中で寂しくなって、一本だけ電車を見送った。
それから次に乗った。
今は、返信が翌日になることもある。
僕も練習中にはスマホを別の部屋へ置く。
律は新しい録音の話をして、僕は新しく直された弾き方の話をする。
知らない名前が会話に増えた。
増えるたびに、いちいち胸が痛むことはなくなった。
応募用の録音は、大学の同級生に手伝ってもらった。
律ではなかった。
初めて頼むときは、妙に緊張した。
断られるかもしれないと思ったし、頼める相手が増えたと律に伝えることにも、なぜか少しためらいがあった。
実際に伝えると、律は、どんなマイク使ったん、と聞いてきた。
僕が答えられないと、笑われた。
録音を頼んだ同級生は、終わったあと、僕が使った譜面を見せてほしいと言った。
同じ曲を練習するかもしれないらしい。
僕は貸せる時期を伝え、その日の礼を言った。
律が聞けば面白がりそうな話だったので、あとで送った。
〈その人、前に合奏の課題一緒やったかも〉
律から返ってきた。
僕の新しいつながりが、律の知らないところだけにあるわけでもなかった。
誰かと仲良くなることが、別の誰かを押し出す形でしか起きないと思っていたのは、僕の方だった。
もちろん、全部がうまくいくわけではない。
律の近況に僕の知らない話ばかりが続いて、返事を短くした夜もあった。
翌日、少し寂しくなっただけだと送ると、律は、分かるけど、何に怒ったんかと思った、と返した。
僕は謝った。
あの日一度話し合ったから、そのあと全部が上手になるわけではなかった。
それでも今回は、律の新しい友達が悪いことにしなかった。
僕が知らない話をするなとも言わなかった。
聞きたいところは聞き、分からない名前は誰なのか尋ねた。
ひとつ名前を覚えると、その人が話に出るたび、少しだけ聞きやすくなった。
録音を添付した。
名前を確認した。
送信ボタンの前で、また止まった。
スマホに手を伸ばした。
律に、出していいと思うか聞こうとした。
聞けば答えてくれるだろう。
でも、その前に自分で決めたかった。
代わりに、受信アプリを開いた。
実験はすでに終了していた。新しい受信枠はなく、当時の記録を読むことだけができた。
11月3日のメールは、1文字も変わっていなかった。
〈今日17時すぎ、音楽室のある会館で火事になる。律は外にいる。絶対に戻るな。あいつのために右手を失うな。もう律を嫌いになれ。〉
あちらの僕は、今どうしているだろう。
律とは話せているだろうか。
ピアノの前に座れているだろうか。
想像はいくらでもできた。
けれどそれを、知っていることにはしなかった。
うまくいっていてほしいと願いながら、画面を閉じた。
僕は無事だった。
右手は、今も動いた。
だからといって、あちらの僕に恥ずかしくない成功を必ず手に入れなければならない、とは思いたくなかった。
そんな約束をしたら、また別の誰かのためにしか弾けなくなる気がした。
今回の演奏を、僕は人に聴いてほしかった。
今は、それを理由にした。
受信文を保存した記録は、研究室の聞き取りが終わってからも、自分で見返せる形で残していた。
消してしまえば、あの朝を忘れられる気がしたこともある。
でも残っているからといって、毎朝読まなければならないわけではなかった。
最近は、開かない日が何日も続いた。
右手を見るたびに、未来を思い出すこともなくなった。
パンの袋を開け、鍵を回し、レシートを財布へしまう。何も考えずに使える時間が増えた。
そのことに後ろめたさを感じる日もあった。
あちらの僕が苦しんでいるなら、こちらも忘れずに苦しむべきなのか。
そう考え始めると、また誰かの知らない期待に、自分で縛られる気がした。
あちらの僕から届いたのは、危険を知らせる文章だった。僕の生活をずっと採点する権利ではなかった。
今日の応募に落ちても、助けてもらったことを無駄にしたことにはならない。
僕はそう考えて、もう一度添付したファイル名を確かめた。
名前も、応募先も、今の僕のものだった。
送信ボタンを押した。
〈応募を受け付けました〉
それだけだった。
拍手も、合格の通知もなかった。
僕は椅子の背にもたれた。
息を吐くと、思っていたより長くなった。
そのとき、スマホが震えた。
律からだった。
〈連休、ちょっと帰る。飯行ける?〉
僕は予定を開いた。
練習室を予約している日と、アルバイトの日を確認する。
〈土曜の夜なら。今、応募出した〉
少しして、返事が来た。
〈おつかれ。何食べたい?〉
受かりそうか、とも、大丈夫だ、とも書いていなかった。
僕は笑って、いつもの店の名前を送った。
そのあとに、もうひとつメッセージが来た。
〈連弾のやつ、まだ持ってる?〉
〈持ってる〉
〈昨日、聴いてた。やっぱりあそこ長いな〉
僕は音声ファイルを開いた。
律が迷ったところまで、再生位置を動かす。
和音が消え、短い沈黙があった。
部屋の音が、かすかに鳴っていた。
僕は飛ばさなかった。
やがて律の音が来た。
そのあとに、僕の音が続いた。
〈次、もう少し難しいのやる?〉
僕は送った。
〈練習する時間ちょうだい〉
〈分かった〉
返信して、スマホを置いた。
ピアノの前へ戻り、今日まだ弾いていないページを開く。
明日の僕が何を思うかは、分からなかった。
今日の応募を悔やむかもしれないし、次の曲を好きになるかもしれない。
律との約束だって、急な予定が入れば変わる。
僕は鉛筆で、楽譜に日付を書いた。
それから、最初の音を弾いた。
完
読んでいただきありがとうございました!




