君の音を待つ
――受信側・B。12月。
律から、新しい録音を頼まれたのは、1か月近く経ってからだった。
その間に、僕は先生との面談へ行った。
講評は、思っていたより具体的だった。崩れたところも、評価されたところもあった。
褒められた部分だけを拾って帰りたくなったけれど、直すべき箇所にも印をつけた。
次の選抜に受かるとは言われなかった。
僕も、言ってくれるまで待たなかった。
面談の日、僕は早く着きすぎて、教室の外を一度通り過ぎた。
廊下の掲示を読むふりをしていると、中から呼ばれた。
先生は譜面にいくつか印をつけていた。
「ここ、自分ではどうだったと思う?」
僕は、焦りました、と答えた。
先生は、焦った結果どの音が変わったのか、と続けた。
気持ちの名前だけでは、次に直す場所が決まらなかった。
僕たちは短い箇所を聴き直した。
右手を急いだ分、左手の動きまで詰まっていた。そこだけをゆっくり弾くと、僕にも違いが分かった。
落ちたという大きな結果を、直せる小さな動きへ分ける作業だった。
「今回、選ばれなかったことと、今ここを練習する意味があることは、両方あるよ」
先生はそう言った。
僕は、来年なら受かりますか、と聞きかけた。
代わりに、次の面談までどこを優先するか聞いた。
帰り道、律に面談が終わったとだけ送った。
しばらくして、おつかれ、と返ってきた。
何を言われたかは、今度会ったときに自分から話せばよかった。
その夜、10分だけと決めて練習を始めた。
10分でやめた。
もっとできたはずだと責める前に、翌日の予定へ同じ10分を書いた。
律とは週に何度か連絡した。
返事が遅い日もあった。
最初のころは、既読がつかない画面を何度も見た。新しい知り合いと録音をしているのかもしれない、と考えた。
そういう日には、次のメッセージを打つ前に、ピアノの前へ座ってみた。
うまくいく日ばかりではなかった。
一度、律から提出作品の相談が来たとき、僕はすぐ返信しなかった。
もう僕には頼まないのではないかと怖がっていたくせに、頼まれると今度は、何でも頷いたら同じことになると思った。
断る練習のためだけに、断ろうとした。
結局、今日は練習をしたいから明日でもいいか、と返した。
律は、明日で大丈夫、と答えた。
関係はそこで終わらなかった。
僕はその短いやり取りを、何度か読み返した。
数日後、駅前で食事をした。
録音機は持ってこない、と律が先に言ったわけではない。ただ鞄の中に入っていなかった。
僕はその夜、初めて進路の紙をもう一度見せてほしいと頼んだ。
前に見たときは、遠さと締め切りしか頭に入ってこなかった。
今度は、律が取りたい授業の名前を聞いた。
録音を消したことについては、謝り直した。
律は、もう謝るな、とは言わなかった。
「まだ、あの音よかったなって思うことはある」
僕は頷いた。
「新しく録るなら、別のものになるね」
「うん。戻すために頼むんちゃうから」
その言葉があってから、具体的な日程の相談が始まった。
会館は、閉鎖されたまま閉館の準備に入った。
結局あの日、火災は起きなかったと研究室から聞いた。
ただし、あの損傷を放置していれば必ず17時すぎに燃えた、とまでは言えない。
僕たちには、起きなかった出来事の全部を確かめる方法はなかった。
律が予約したのは、大学から歩ける小さなスタジオだった。
新しい録音の用途と、応募する学校、加工する範囲を先にメッセージで送ってきた。提出前には僕にも聴かせる。公開する場合は改めて相談する。
僕は読んで、自分の名前をどう記載するか聞いた。
使用する曲と練習に使える日も、先に確認した。
律が最初に挙げた土曜は、僕に別の予定があった。
変更できなくはなかった。僕が何も言わずに動けば、律は知らないまま済んだ。
でも僕は、その日は空いていないと伝えた。
律は別の候補を出した。
予約できる部屋が少なくて、やり取りは少し長くなった。
それでも、僕が断ったことへの不満は書かれていなかった。
面倒が増えることと、相手が嫌いになることは、いつも一緒ではないらしかった。
スタジオ代は、提出用の録音に使う時間を律が持ち、2人で弾くために延ばす分は分けることにした。
お金の話をするのは少し気まずかった。
でも終わってから、僕はこんなに負担したのにと思わずに済むなら、先に話す方がよかった。
確認したことは、短いメッセージとして残った。
友達同士なのに固いかな、と僕が送ると、律は、友達やから後で揉めたくない、と返した。
僕はその返事に頷いた。
それから、ひとつ条件を出した。
〈最後に、連弾も録りたい〉
律からは、しばらくして返事が来た。
〈提出用とは別でええ?〉
〈もちろん〉
〈俺、弾けんで〉
〈簡単なやつ選ぶ〉
当日、律は楽譜を持って現れた。
指番号が、鉛筆で細かく書き込まれていた。
「練習したんだ」
「そら、お前に全部弾かれたら嫌やし」
僕は笑った。
今度は、その言葉をただの冗談にはしなかった。
まず提出用の録音を終えた。
律はマイクの位置を変え、僕は同じ曲を数回弾いた。録り直したい理由を聞くと、律は音を再生して説明した。
僕にも、演奏の側から変えたいところがあった。
思ったより時間がかかった。
それでも、どちらかが全部を引き受ける必要はなかった。
予定していた時間の終わりが近づいたとき、律が、もう1回通せるかと聞いた。
僕は右手を軽く開いた。
今日は何度も同じ和音を弾いていた。無理をしているほどではなかったが、集中は落ちていた。
「5分休んでからなら」
律は時計を見た。
「じゃあ、連弾の時間ちょっと短くなるけど、ええ?」
「うん」
僕は椅子を離れ、水を飲んだ。
律はその間に、使えそうなテイクへ印をつけた。
休んでいる僕が見ていなくても、律の作業は進んだ。
窓のない部屋の壁は、会館よりずっと白かった。
古い椅子の音も、廊下の自販機もない。
失った録音を再現しようとしていたら、足りないものばかり数えていただろう。
今日の律は、ここの響きを聴いていた。
僕も、今日の指の動きを確かめてから、ピアノへ戻った。
最後に、椅子を並べた。
律が高音側。僕が低音側。
子どものころに一度だけ弾いたことのある、短い曲だった。
「遅かったら、止めて」
律が言った。
「止めてほしいところでは止める。続けたいときは、そのまま弾いて」
「分かった」
最初は、うまく合わなかった。
律の左手が迷い、僕は先に和音を鳴らしそうになった。
やり直すたび、律が楽譜へ小さな印をつけた。
最後の1回、と決めて弾き始めた。
窓のない部屋に、2人分の音が広がった。
僕ひとりで弾くときより揃っていなくて、ところどころ、妙に大きい音があった。
律は少し前かがみになっていた。僕は鍵盤の端から、その指を見た。
終盤、律の手が止まった。
右手が、次の鍵盤の少し上で迷っていた。
僕は、先を知っていた。
その音を代わりに弾くこともできた。
以前なら、ほとんど考えずに手を伸ばしていた。
伸ばしかけた右手を、自分の位置へ戻した。
ペダルを離す。
前の和音が、ゆっくり消えた。
律が僕を見た。
僕は頷いた。
待った。
律の指が動いた。
少し弱い音が、ひとつ鳴った。
その次の拍から、僕も入った。
最後の和音が終わっても、律はすぐに録音を止めなかった。
僕も、何も言わなかった。
赤いランプが消えてから、律が息を吐いた。
「あそこ、長かったな」
「うん」
「切ったら、つながるけど」
僕は考えた。
上手に聞こえるようには、できるのだろう。
「律は、どうしたい?」
律は再生ボタンを押した。
曲が進み、あの空白が来た。
衣服が擦れる小さな音。僕たちの呼吸。それから、律の音。
「残しときたい」
「僕も」
その録音は、どこにも応募しなかった。
帰り際に2人のスマホへ同じファイルを入れた。
改札で別れる前、律が言った。
「次、飯だけでも行こ」
「うん。練習あるから、夜なら」
「じゃ、終わったら連絡して」
僕には、僕の予定があった。
律にも、律の予定があった。
その間に、一緒にご飯を食べる時間を作ろうとしていた。




