取り消せない言葉
――送信側・A。11月4日、そして、その後。
明け方、右手の重さで目が覚めた。
手術は終わっていた。
今までと同じようにピアノを弾けるか、僕は何度も聞いた。今の時点では分からない、と繰り返し言われた。
切断したわけではない。
でも、包帯に包まれた手が自分の意思についてくるのか、僕にはまだ確かめようがなかった。
家族が持ってきた着替えが、椅子の上に置かれていた。
見慣れた部屋着だった。それを着るために何から始めればいいか分からず、僕はしばらく袋を眺めていた。
昨日までなら考えないことに、ひとつずつ説明が必要になっていた。
ペットボトルの蓋を開けてもらった。
スマホを左側へ移してもらった。
ありがとうと言うたびに、これから何回言うのだろうと思った。
誰かを頼ることが嫌なのではない、と思いたかった。
でも頼った瞬間、自分が前より少ない人間になったように感じた。
律には、頼られることをあんなに求めていたのに。
窓の外が明るくなっていた。
昨日の今ごろ、僕は朝食の皿を洗っていた。あんなことでも、自分の両手でしていた。
今日が来たことが信じられなかった。
今日が来たのに、昨日が終わっていない気がした。
律は昨夜、面会を許された短い時間、椅子に座っていた。
ごめん、と言った。
僕は、うん、と返した。
律が頼んで僕を戻らせたわけではなかった。
南口から出たことも、僕が正面で待っていると知らなかったことも聞いた。
それでも謝られると、自分がここにいる理由を、律に預けられる気がした。
研究室には、律から事故の連絡が入っていた。
予定していた実験の手続きは、いったん止まった。研究員は、送信より治療が優先で、参加をやめても不利益はないと伝えてきた。
僕は自分から、まだ送れるのかと尋ねた。
状況を確かめたうえで、改めて意思を確認された。
何を送るかは僕が決める。送っても、ここのけがは消えない。受け取った側から返事は来ない。
それでもいいかと聞かれ、僕は頷いた。
研究員とは、医療側に時間と体調を確かめてもらったうえで、短く話した。
声はいつもの説明会よりゆっくりだった。
「やめたいと思ったら、送信の確定前ならやめられます。送らなかったことで、あなたを責めることはありません」
僕は左手の指でシーツを押した。
「送らなかったら、そっちの僕もけがするんですか」
「送信しなかった場合の受信側の経過を、ここから確かめることはできません。必ずこうなる、とまでは言えません」
「でも、伝えたいです」
僕はそう答えた。
今の自分にできることが欲しかったのも、本当だった。
それだけではなかった。
何も知らずに譜面を鞄へ入れている僕が、どこかにいるのなら、止めたかった。
救護を受けるための連絡と、試験の送信枠は別々に扱われた。
こちらの会館に必要な連絡は通常の経路で進んでいた。研究員が僕の代わりに、さらに別の警告を過去へ送れるわけではない。この組に接続している登録先は、僕と律の2つだけだった。
僕が無事に帰っていても、録音の出来を知らせるために使えた枠だった。
昨日は昨日の事故で、送信は予定されていた今日の手続きだった。
そんな無関係さが、かえって苦しかった。
このけがが何かの代金であってくれれば、払った理由を見つけられたのかもしれない。
でも右手は、誰かに差し出して引き換えにしたものではなかった。
午前9時の送信枠に向けて、僕は左手で文章を作った。
打ち間違えては消した。
〈今日17時すぎ、音楽室のある会館で火事になる。律は外にいる。絶対に戻るな。〉
そこで止めればよかった。
必要なことは、もう書いてあった。
画面を見つめていると、昨日の音楽室が浮かんだ。
律が出した、知らない大学の紙。
僕じゃなくてもいいんだと聞いたときの、あの困った顔。
律は外にいた。
僕がいなくても、ちゃんと逃げていた。
助けようとした僕だけが、ここにいた。
理不尽な考えだと、どこかで分かっていた。
それでも次の文章を打った。
〈あいつのために右手を失うな。もう律を嫌いになれ。〉
嫌いになれれば、戻らないだろうと思った。
嫌いになれれば、こんなに苦しくないだろうと思った。
昨日の僕に、今の痛みを全部分からせたかった。
文字数は上限に収まった。
最終確認で、僕は自分の文章をもう一度読んだ。
消すこともできた。
僕は、送る方を選んだ。
画面が切り替わった。
〈送信済み〉
律も、自分の枠で送ったと、あとで本人から聞いた。
僕は内容を尋ねなかった。
それより、今送った文章を受け取った僕が、どんな顔をするか考えていた。
送る前に、2人で文章を見せ合ってはいなかった。
同じ事故を受けて、それぞれが自分の昨日へ書いた。
2通が同じ受信時刻へ向かうことだけは分かっていた。2通を読んだ僕たちが、そのあと会って話せるかは分からなかった。
僕は昨日の自分を、今の自分とほとんど同じだと思っていた。
右手が無事なことだけが違う、と。
でも、何も失っていない僕には、律を嫌えという命令が意味の分からないものに見えるかもしれない。
僕は自分へ向けて書きながら、自分にしか分からないはずの痛みを、分からせようとしていた。
画面を消すと、左手の指先が疲れていた。
長い文章ではなかった。
それでも、今の僕には何度も休みながら打った文章だった。
たった100字の範囲に収まるものが、取り返せないほど遠くへ行った。
取り消しのボタンはなかった。
*
最初のうちは、律が来るたびに、僕はよく眠れなかった。
来なければ、もっと眠れなかった。
律は飲み物を持ってきて、要らないと言うと持ち帰った。
頼んでいないものまで持ってくる日もあった。
僕はありがたいと思う日と、何をしてもらっても腹が立つ日があった。
リハビリの予定を律に話した日に、僕は少しだけ前向きなふりをした。
何をするか決まった、と言えば、相手も安心すると思った。
実際に始まると、目の前の動きを繰り返すだけで疲れる日があった。昨日できたことが今日はやりにくいと、それだけで誰とも話したくなくなった。
律に、今日は来ないで、と送った。
分かった、と返ってきた。
僕はその返事を見て、簡単に引き下がれるんだなと思った。
来てくれたら、来ないでと言ったのにと思っただろう。
自分が何を求めているのか、言葉にする前に相手が当ててくれればいい。
そんな無理な願いが、けがをしてから初めて生まれたものではないことに、少しずつ気づいた。
別の日、律は約束の時間より遅れた。
課題の提出で手間取った、と連絡があった。
僕は分かったと返しながら、時計ばかり見た。
律が来たとき、待ってないよ、と言った。
嘘だった。
「待った。ちょっと腹立った」
その日、初めて言い直した。
律はごめん、と言った。
「でも、課題を出すなって思ってるわけじゃない」
付け足すと、律は椅子へ座って、俺も来られる時間をもうちょっとちゃんと考える、と答えた。
話せたからといって、気分がすぐ晴れたわけではなかった。
ただ、律が帰ったあと、言っていない不満をひとつ数えずに済んだ。
ある日、律が言った。
「編入、やめようかと思ってる」
僕は顔を上げた。
待っていた言葉のはずだった。
聞けば、自分がいちばん大事なのだと分かるはずだった。
「何で」
「今、こっち離れるのは」
「僕がいるから?」
律は黙った。
僕は、その沈黙をよく知っていた。
言えば相手を傷つけると思って、先延ばしにする沈黙だった。
膝の上の右手を見た。
傷があることは本当だった。
僕が失ったものも、これから分かることも、軽くはならなかった。
でも、その重さを律の進路に乗せても、手は元に戻らない。
「喜びそうになった」
僕が言うと、律が目を上げた。
「今、やめるって聞いて。嬉しいって思った。だから、今日はそれ、決めないでほしい」
律は目を伏せた。
「俺、何をしたらええか分からん」
「僕も分かんない」
言ってから、ようやく律の顔を見られた。
「でも、助けてって言ってないよね。あのとき」
「言ってへん」
「僕が戻ったんだよね」
律の口元が震えた。
「お前がけがしたことを、全部お前のせいにしたいわけちゃう」
「うん。僕も、全部平気だったことにしたいわけじゃない」
うまい言い方ができなかった。
それでも続けた。
「ただ、律がここに来る理由を、借金みたいにしたくない」
律はしばらく俯いていた。
僕は待った。
「今日、録音持ってきてん」
ようやく律が言った。
「会館のやつ。聴くかどうかは、お前が決めて」
僕は右手から目を離した。
「今日は、まだ無理」
「分かった」
「でも、消さないで」
律は頷いた。
許したとも、許されたとも思わなかった。
会いたくない日は、そう言うことにした。律は来られない日に、無理な理由を作らずに伝えることにした。
その約束を守れない日もあった。
守れなかった日の話を、次にした。
律だけに話せないこともあった。
復学の相談では、担当の先生に、演奏のことを聞かれるのが怖いと伝えた。先生はすぐに復帰の予定を決めず、受けられる授業から一緒に確認してくれた。
家族には、全部手伝ってもらうと困るけれど、できるはずだと先回りされるのも困る、と言った。
うまく伝わらず、言い合いになった日もあった。
僕の暮らしを、律ひとりに返してもらうことはできなかった。
火事の前と同じ形へ戻れなくても、必要なことを別々の人と相談しなければならなかった。
それは、律と距離を置くためではなかった。
律に会ったとき、病院の予定以外の話もできるようにするためだった。
ある日、律がコンビニで買った菓子の話をして、僕はそんなこと今どうでもいいと言いかけた。
でも最後まで聞いたら、包装の開け方を間違えて中身を全部落としたという話だった。
僕は笑った。
律は少し驚いて、それから自分も笑った。
久しぶりだった。
僕のスマホには、送信した文章が残っていた。
今なら最後の一文を変えたいと思った。
でも、もう一度送る枠はなかった。
受け取った僕が、その一文に逆らってくれたらいい。
そう願うことしか、できなかった。




