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明日の僕から、君を嫌いになれと届いた  作者: きびだんご


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14/18

届かなかった朝

 ――送信側・A。11月3日。


 午前9時、メールは来なかった。


 僕は登録アプリを何度か開いた。

 受信記録は空だった。

 担当研究員に説明されていた通り、それ自体が異常ではなかった。僕たちは、明日の送信枠を持つ側として今日を過ごすことになる。


 受信していないことを記録し、朝食の皿を流しへ運んだ。

 明日の自分に何も注意されなかったので、少し安心した。

 それは間違った受け取り方だった。

 警告がないことと、安全なことは同じではない。こちらは送信側で、今回の接続から情報が届く側ではなかった。

 説明は聞いていたのに、メールが来なかったという結果だけを、都合よく解釈した。


〈来んかったな〉


 律からメッセージが来た。


〈明日送る側か〉


 僕が返すと、律は短いスタンプを送ってきた。


 午前中、研究室から通常の確認が入った。

 受信記録がないことと、翌日の送信意思を確認する連絡だった。予定が変われば辞退できると言われた。

 僕は今のところ参加すると答えた。

 事故の話は出なかった。出る理由がなかった。


 明日は、録音がうまくいったと書くかもしれない。

 律の話が重いものだったら、受け取る僕へ先に心構えを教えるかもしれない。

 そんなことを考えながら、譜面を鞄へ入れた。


 会館の前では搬出用の台車が動いていた。

 僕は入口で少し待ち、作業する人に会釈して中へ入った。

 廊下はいつもの匂いだった。古い床と、暖房がつき始めたときの乾いた匂い。

 受付で鍵を受け取り、律を待った。

 危険を知っていたら見え方の変わるものが、何も知らない僕には、いつもの建物の一部でしかなかった。


 午後、僕たちは会館で録音をした。

 律は窓を開けたり、閉めたりしながら、響きを確かめた。

 演奏を止めても、しばらく録音のランプが赤いままだった。


「もう弾いてないよ」

「分かってる」


 僕は笑った。

 律も笑った。


 録音が終わってから、律は折り畳んだ紙を出した。


 時計は16時を回っていた。

 律は機材を片づける手を止め、椅子へ座り直した。

 ちゃんと話したい、と昨日言っていたのは、これだった。


 僕は紙を受け取った。

 知らない場所の名前に目が止まった。


「これ、提出に今日の使いたいってこと?」

「うん。頼む前に説明せんかったのは、ごめん。使ってええか、ちゃんと確認したい」


 僕は紙を返した。

 別にいいよと言うつもりだった。理解のある友達の顔をして、帰ってから少し落ち込む。それくらいで済ませたかった。


「どっちでもいい」


 出てきた言葉は、もっと雑だった。

 律は、どっちでも、では決められへん、と言った。

 僕はそのまっとうな返事に傷ついた。


 こんなに弾いたのに。

 そんな考えが浮かんだ。

 律に落選の穴を埋めてもらっていたことには、まだ気づかなかった。


 僕は、進路については止めないよ、と言った。

 そのあと、思ってもいなかったような顔で、僕じゃなくてもいいんだ、と言った。


 律は困った顔をした。

 それが見ていられなくて、僕は先に音楽室を出た。


「機材返したら、外で話そ」


 背中に、律の声が届いた。


 正面玄関の外で待っていた。

 僕たちは正確な待ち合わせ場所を決めなかった。

 律は南口で機材を返すつもりだった。僕は、返却が終われば正面に来ると思っていた。


 正面のガラス戸には、閉館のお知らせが貼ってあった。

 僕は文字を読まず、その向こうの廊下を見ていた。

 律から連絡は来なかった。

 僕も送らなかった。


 ここにいる、と打つだけだった。

 でも、待っていることまで僕から言いたくなかった。律に見つけてほしかった。機材を返したら僕を探し、一緒に帰ろうと言ってほしかった。

 さっきはごめん、とどちらが先に言うか、そんなことを考えていた。


 律は南口へ行き、そこで返却の確認を受けていた。

 そのあと、表より空いているという理由で同じ南口から外へ出た。

 僕に無断で置いて帰ろうとしたのではなかった。外周を回って正面へ来るつもりだったと、あとで聞いた。

 途中で警報が鳴り、南側にいた人たちは職員に誘導されて建物から距離を取った。


 僕はその経路を知らなかった。

 機材を返す場所は、昨日、一緒に聞いていた。

 けれど聞いたことと、今ここで思い出せることは違った。

 頭の中には、律が僕をどう思っているかばかりあった。


 17時を少し過ぎたころ、建物の奥で警報が鳴った。


 最初、何の音か分からなかった。

 搬出の作業音に重なって、誰かの声が聞こえた。人が走ってきた。

 扉の向こうから、焦げたような臭いがした。


「律は?」


 誰に聞いたのか、よく覚えていない。

 見覚えのある利用者が、さっき機材を持って廊下にいたと言った。

 さっきが何分前なのか、聞かなかった。


 その人は嘘をついていなかった。

 機材を持った律を見ていた。ただ、そのあと律がどの扉を通ったかは知らなかった。

 僕は目撃したという部分だけを拾った。

 まだ中にいる、という文章を作ったのは僕だった。


 正面では、人が次々に外へ出てきた。

 律の顔がない。

 僕はそれを、外へ出ていない証拠だと思った。

 南口があることも、建物の反対側にはここから見えない場所があることも、考えなかった。


 誰かが職員に人数を伝えていた。

 僕も名前を伝えればよかった。

 でも、そこで待っていられないという気持ちの方が強かった。

 律のためだと思った。少なくとも、そのときの僕はそう思った。


 同時に、もし僕が行かなかったら、という想像に耐えられなかった。

 帰り道で仲直りできないことより、僕が必要なときに何もしなかった人間になることが怖かった。

 その2つを、その場で分ける余裕はなかった。


 僕はスマホを取り出した。

 律への発信は、つながらなかった。


 もう一度かければよかった。

 近くの職員に名前を伝えればよかった。

 外へ出てきた人の中にいないか、見ていればよかった。


 僕は正面の扉へ戻った。


 止まって、と誰かが言った。

 その声が僕に向けられたものだと、分かっていた。

 それでも足を止めなかった。


 廊下の向こうが白く見えた。

 煙だと分かるまで、ほんの少し間があった。

 律の名前を呼んだ。

 返事はなかった。


 そのあとの記憶は途切れている。


 大きな音。

 身体を引かれる感覚。

 右側だけ、自分のものではなくなったような重さ。


 天井から落ちたものが右手を巻き込んだと、あとから聞いた。

 当時の僕の記憶には、何がどこから来たかを説明できるほどの映像はない。

 助けに戻ったつもりの僕を、別の人たちが外へ運び出した。

 僕が中へ入ったことで、その人たちの仕事も危険も増えた。


 この日の話をするとき、僕は長く、その部分を口にできなかった。

 律を助けようとした、という始まりだけなら、まだ自分を保てた。

 実際には律を見つけず、自分も出られなくなったという続きまで話すと、何のためだったか分からなくなった。


 後日の調査では、電気設備の不具合が出火に関わったと説明された。

 僕たちの喧嘩が火を起こしたのではない。僕が戻らなくても火災は起きていた。

 けれど、あの扉の外で足を止められていれば、右手のけがは避けられたかもしれない。

 避けられたかもしれないことが、何度も頭の中へ戻ってきた。


 気がついたとき、僕は外にいた。

 誰かが上から話しかけていた。分かるかと尋ねられ、僕は律、と言った。


「おる。ここにおる」


 律の声がした。

 顔が見えた。


「南口から出ててん。電話、鞄の中で気づくん遅れて……」


 説明の途中で、別の人の声が割り込んだ。

 律が一歩下がった。


 僕は右手を見ようとした。

 見せてもらえなかった。


「律」

「うん」

「録音、できた?」


 なぜそんなことを聞いたのか、今でも分からない。

 律は口を開けたまま、何も言えなかった。


 救急車の扉が閉まる直前、律がもう一度僕の名前を呼んだ。

 返事をしようとした。

 扉の閉まる音に、自分の声が重なった。

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