届かなかった朝
――送信側・A。11月3日。
午前9時、メールは来なかった。
僕は登録アプリを何度か開いた。
受信記録は空だった。
担当研究員に説明されていた通り、それ自体が異常ではなかった。僕たちは、明日の送信枠を持つ側として今日を過ごすことになる。
受信していないことを記録し、朝食の皿を流しへ運んだ。
明日の自分に何も注意されなかったので、少し安心した。
それは間違った受け取り方だった。
警告がないことと、安全なことは同じではない。こちらは送信側で、今回の接続から情報が届く側ではなかった。
説明は聞いていたのに、メールが来なかったという結果だけを、都合よく解釈した。
〈来んかったな〉
律からメッセージが来た。
〈明日送る側か〉
僕が返すと、律は短いスタンプを送ってきた。
午前中、研究室から通常の確認が入った。
受信記録がないことと、翌日の送信意思を確認する連絡だった。予定が変われば辞退できると言われた。
僕は今のところ参加すると答えた。
事故の話は出なかった。出る理由がなかった。
明日は、録音がうまくいったと書くかもしれない。
律の話が重いものだったら、受け取る僕へ先に心構えを教えるかもしれない。
そんなことを考えながら、譜面を鞄へ入れた。
会館の前では搬出用の台車が動いていた。
僕は入口で少し待ち、作業する人に会釈して中へ入った。
廊下はいつもの匂いだった。古い床と、暖房がつき始めたときの乾いた匂い。
受付で鍵を受け取り、律を待った。
危険を知っていたら見え方の変わるものが、何も知らない僕には、いつもの建物の一部でしかなかった。
午後、僕たちは会館で録音をした。
律は窓を開けたり、閉めたりしながら、響きを確かめた。
演奏を止めても、しばらく録音のランプが赤いままだった。
「もう弾いてないよ」
「分かってる」
僕は笑った。
律も笑った。
録音が終わってから、律は折り畳んだ紙を出した。
時計は16時を回っていた。
律は機材を片づける手を止め、椅子へ座り直した。
ちゃんと話したい、と昨日言っていたのは、これだった。
僕は紙を受け取った。
知らない場所の名前に目が止まった。
「これ、提出に今日の使いたいってこと?」
「うん。頼む前に説明せんかったのは、ごめん。使ってええか、ちゃんと確認したい」
僕は紙を返した。
別にいいよと言うつもりだった。理解のある友達の顔をして、帰ってから少し落ち込む。それくらいで済ませたかった。
「どっちでもいい」
出てきた言葉は、もっと雑だった。
律は、どっちでも、では決められへん、と言った。
僕はそのまっとうな返事に傷ついた。
こんなに弾いたのに。
そんな考えが浮かんだ。
律に落選の穴を埋めてもらっていたことには、まだ気づかなかった。
僕は、進路については止めないよ、と言った。
そのあと、思ってもいなかったような顔で、僕じゃなくてもいいんだ、と言った。
律は困った顔をした。
それが見ていられなくて、僕は先に音楽室を出た。
「機材返したら、外で話そ」
背中に、律の声が届いた。
正面玄関の外で待っていた。
僕たちは正確な待ち合わせ場所を決めなかった。
律は南口で機材を返すつもりだった。僕は、返却が終われば正面に来ると思っていた。
正面のガラス戸には、閉館のお知らせが貼ってあった。
僕は文字を読まず、その向こうの廊下を見ていた。
律から連絡は来なかった。
僕も送らなかった。
ここにいる、と打つだけだった。
でも、待っていることまで僕から言いたくなかった。律に見つけてほしかった。機材を返したら僕を探し、一緒に帰ろうと言ってほしかった。
さっきはごめん、とどちらが先に言うか、そんなことを考えていた。
律は南口へ行き、そこで返却の確認を受けていた。
そのあと、表より空いているという理由で同じ南口から外へ出た。
僕に無断で置いて帰ろうとしたのではなかった。外周を回って正面へ来るつもりだったと、あとで聞いた。
途中で警報が鳴り、南側にいた人たちは職員に誘導されて建物から距離を取った。
僕はその経路を知らなかった。
機材を返す場所は、昨日、一緒に聞いていた。
けれど聞いたことと、今ここで思い出せることは違った。
頭の中には、律が僕をどう思っているかばかりあった。
17時を少し過ぎたころ、建物の奥で警報が鳴った。
最初、何の音か分からなかった。
搬出の作業音に重なって、誰かの声が聞こえた。人が走ってきた。
扉の向こうから、焦げたような臭いがした。
「律は?」
誰に聞いたのか、よく覚えていない。
見覚えのある利用者が、さっき機材を持って廊下にいたと言った。
さっきが何分前なのか、聞かなかった。
その人は嘘をついていなかった。
機材を持った律を見ていた。ただ、そのあと律がどの扉を通ったかは知らなかった。
僕は目撃したという部分だけを拾った。
まだ中にいる、という文章を作ったのは僕だった。
正面では、人が次々に外へ出てきた。
律の顔がない。
僕はそれを、外へ出ていない証拠だと思った。
南口があることも、建物の反対側にはここから見えない場所があることも、考えなかった。
誰かが職員に人数を伝えていた。
僕も名前を伝えればよかった。
でも、そこで待っていられないという気持ちの方が強かった。
律のためだと思った。少なくとも、そのときの僕はそう思った。
同時に、もし僕が行かなかったら、という想像に耐えられなかった。
帰り道で仲直りできないことより、僕が必要なときに何もしなかった人間になることが怖かった。
その2つを、その場で分ける余裕はなかった。
僕はスマホを取り出した。
律への発信は、つながらなかった。
もう一度かければよかった。
近くの職員に名前を伝えればよかった。
外へ出てきた人の中にいないか、見ていればよかった。
僕は正面の扉へ戻った。
止まって、と誰かが言った。
その声が僕に向けられたものだと、分かっていた。
それでも足を止めなかった。
廊下の向こうが白く見えた。
煙だと分かるまで、ほんの少し間があった。
律の名前を呼んだ。
返事はなかった。
そのあとの記憶は途切れている。
大きな音。
身体を引かれる感覚。
右側だけ、自分のものではなくなったような重さ。
天井から落ちたものが右手を巻き込んだと、あとから聞いた。
当時の僕の記憶には、何がどこから来たかを説明できるほどの映像はない。
助けに戻ったつもりの僕を、別の人たちが外へ運び出した。
僕が中へ入ったことで、その人たちの仕事も危険も増えた。
この日の話をするとき、僕は長く、その部分を口にできなかった。
律を助けようとした、という始まりだけなら、まだ自分を保てた。
実際には律を見つけず、自分も出られなくなったという続きまで話すと、何のためだったか分からなくなった。
後日の調査では、電気設備の不具合が出火に関わったと説明された。
僕たちの喧嘩が火を起こしたのではない。僕が戻らなくても火災は起きていた。
けれど、あの扉の外で足を止められていれば、右手のけがは避けられたかもしれない。
避けられたかもしれないことが、何度も頭の中へ戻ってきた。
気がついたとき、僕は外にいた。
誰かが上から話しかけていた。分かるかと尋ねられ、僕は律、と言った。
「おる。ここにおる」
律の声がした。
顔が見えた。
「南口から出ててん。電話、鞄の中で気づくん遅れて……」
説明の途中で、別の人の声が割り込んだ。
律が一歩下がった。
僕は右手を見ようとした。
見せてもらえなかった。
「律」
「うん」
「録音、できた?」
なぜそんなことを聞いたのか、今でも分からない。
律は口を開けたまま、何も言えなかった。
救急車の扉が閉まる直前、律がもう一度僕の名前を呼んだ。
返事をしようとした。
扉の閉まる音に、自分の声が重なった。




