17時の向こう
16時58分。
僕たちは駅ビルの定食屋にいた。
窓からは線路が見えた。電車が来るたび、低い音がガラスを通って届いた。
店を選ぶのにも、少し時間がかかった。
入口に近い方が落ち着くか、窓際の方が外を見られるか。そんなことを考えているうちに、僕は自分たちが会館から十分離れていることを何度も確かめたくなった。
律が、どこに座ってもここは会館じゃない、と言った。
僕は頷き、空いている席へ座った。
メニューを開いても、料理の名前が頭に入ってこなかった。
律は焼き魚を選んだ。僕も同じものにしようとして、それでは夕食まで律に決めてもらっている気がした。
違うものを選ぼうとして、ばかばかしくなった。
同じ料理が食べたければ、同じものを頼めばいい。
相手と違うことを選ぶために相手を見続けるのも、窮屈だった。
「僕も、それにする」
そう言って、メニューを閉じた。
律は何も気にせず、店員に2人分を伝えた。
通路の向こうで、家族連れが追加の皿を頼んでいた。
子どもが箸袋を細く丸め、母親らしい人が広げ直した。僕は、その手元を見ていた。
この店にいる人には、17時は夕食を早めに食べる時間だった。
僕も、昨日まではそうだった。
注文した料理は、まだ来ていなかった。
僕はテーブルにスマホを置いた。
律も置いた。
「時計、見ん方がええかな」
律が言った。
「無理じゃない?」
「せやな」
16時59分。
僕は右手を膝に置いた。
テーブルの上に出すと、律が見ているような気がした。
引っ込めると、何かを隠しているような気がした。
律が水を飲んだ。
グラスを戻す音が、思ったより大きく聞こえた。
17時。
何も起きなかった。
でも「17時すぎ」は、17時1分かもしれない。10分か、もっとあとかもしれない。
時刻が進むほど、かえって逃げ場がなくなるようだった。
「湊」
呼ばれて、顔を上げた。
「ここにおるで」
律は、それだけ言った。
分かっていた。
目の前に座っている。
それでも声にしてもらうと、肩の力がわずかに抜けた。
「僕も」
答えてから、変な返事だと思った。
律は頷いた。
「うん」
料理が来た。
店員は熱い皿に気をつけてくださいと言い、伝票を置いた。
湯気が上がっていた。味噌汁の匂いがした。
僕は箸を取ろうとして、一度落とした。
律は拾おうとせず、僕が拾うまで待った。
僕は床に落ちた箸を店員に渡し、新しいものをもらった。
「緊張してる」
「俺も」
律のご飯は、まだ減っていなかった。
「何か喋ろうか」
僕が言った。
「何を?」
「何でも」
律は考えて、今朝パンを焦がした話をした。
メールを読んで、焼いていたことを忘れたらしい。
僕は、自分は皿も洗わずに家を出たと答えた。
「帰ったら、ジャム固まってる」
「水につけとけばええやろ」
「忘れてた」
そんな会話をしながらも、僕は時計を見た。
律も見た。
話していても怖さはなくならなかったが、怖いことだけを話さなくてもよくなった。
僕は味噌汁を一口飲んだ。
思ったより熱くて、舌の先を少し引っ込めた。
いま感じている熱さは、未来の火ではなかった。目の前の椀から来る、知っている熱さだった。
僕は椀を置き、魚を少しずつ食べた。
遠くでサイレンが鳴った。
箸が止まった。
律も止めた。
「会館かどうか、分からないよね」
僕が言うと、律は頷いた。
「分からん」
確かめに立つことはしなかった。
通知も来ていなかった。
音は遠ざかり、店内の話し声が戻ってきた。
僕はさっきの続きから、魚の骨を外した。
さっきの続きに戻れることが、小さな作業にはあった。
17時12分。
17時26分。
通知が鳴るたびに、僕たちは画面を見た。
通販の案内。大学の掲示更新。先生から、面談の日程を調整しましょうという返信。
僕はその返信を2回読み、翌週の空いている時間を送った。
17時42分、研究室から確認の連絡が来た。
会館では、現時点で火災の発生は確認されていない。閉鎖と安全措置は継続する。
僕は文章を律に見せた。
律は自分の端末でも確かめた。
「食べよか」
律が言った。
僕は頷いた。
冷めかけた魚の骨を、右手で外した。
うまく取れなくて、少し身が崩れた。
それだけのことだった。
18時を過ぎても、空が裂けたり、スマホの文章が消えたりはしなかった。
未来の僕の警告は、そのまま残っていた。
あちらの僕に、無事だと返す欄はなかった。
僕は受信した文章の下を、指で一度だけ押した。
何も起きなかった。
返信できないことを忘れたのではない。ただ、いつもなら文章の下に入力欄があるから、指が勝手に動いた。
律が会計の伝票を取った。
僕は財布を出した。
「今日は僕が」
そこまで言って、止まった。
奢ることが全部悪いわけではない。でも今は、今日一緒にいた分をお金で返そうとしている気がした。
「別々でいい?」
「うん」
レジでそれぞれ払った。
店員はありがとうございましたと言い、次の客を案内した。
僕たちは何かを乗り越えた顔をしていたかもしれないし、ただ早い夕食を終えた学生に見えたかもしれない。
店の外で、僕は両手をポケットへ入れた。
守らなければいけないもののように右手を見つめるのを、少しだけ休みたかった。
何も持たずに歩くと、肩が軽かった。
「明日、9時は?」
律が聞いた。
「送らないよ。こっちは受信側だから、枠がない」
「うん。俺も確認した」
明日、僕たちが警告を作り直す番は来ない。
今日うまくいったやり方を、あちらへ送り返すこともできない。
僕たちは知っている範囲で、今日を選んだだけだった。
店を出てから、僕は律に言った。
「ありがとう」
「何が?」
「今日、ここにいてくれて」
律は少し黙った。
「俺も、ひとりは嫌やった」
改札の前で別れた。
家に着いたら連絡する、と約束した。
律が改札を抜けても、僕は呼び止めなかった。
家に着いて、まず皿に水を入れた。
固まったジャムは、すぐには落ちなかった。
上着を脱ぎ、靴下を洗濯かごへ入れ、机の上の説明書を閉じた。
朝に止めた暮らしが、細かい順番で戻ってきた。
律から、着いた、と連絡が来た。
僕も返した。
少しして、もうひとつ届いた。
〈録音、家の保存分も消した。約束した分はこれで全部〉
僕は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
安全に夕食を終えたら、今日の悪いことは全部片づくような気がしていた。
でも火事を避けたことと、僕が律にしたことは別だった。
〈分かった。確認してくれてありがとう。ごめん〉
返事を書き、送った。
やっぱり残しておけばよかった、と続けかけたが、それは律に戻せないものを戻す役目を渡すだけだと思った。
〈今日の話、まだ考えたい。また連絡する〉
律から来た。
僕は、うん、と返した。
いつ、と聞かなかった。
すぐに次の予定が決まらない夜だった。
朝より安全で、昨日より寂しかった。
それでも今日を間違いにしたいとは思わなかった。
皿を洗い終えてから、ピアノの蓋を開けた。
何かを録るためではなかった。
左手だけで、苦手な4小節を弾いた。
つかえて、戻って、もう一度弾いた。




