第9話 嘘の代償
フィーネの術後経過を確認するため、翌朝ロザール卿の屋敷を訪れた。
フィーネは目を覚ましていた。
呼吸は安定している。胸痛の訴えもない。
創部の状態を確認し、包帯を替えた。
マリエルが横で見ている。昨夜教えた「創部の観察ポイント」を、ノートに書き写していた。
「腫れ、熱感、赤み、浸出液。この四つを毎日確認すること」
「わかった。ちゃんと記録する」
マリエルの目つきが変わっていた。
「完璧な治癒師」の目ではない。「学ぼうとしている人間」の目だ。
ロザール卿の屋敷を出たところで、ルシアンが走ってきた。
息が切れている。
「カルディア公爵が倒れた」
足が止まった。
「今朝、屋敷で腹痛を訴えて意識を失ったらしい。侍医が治癒魔法をかけたが効かない。フォルテシアの当主——あんたの父親が呼ばれたが、それでも駄目だと」
カルディア公爵。
私を「魔力のない娘に用はない」と言い放った人。
婚約破棄を主導し、査問会で政治的に封殺した人。
しかし——患者だ。
倒れて意識を失っている人間は、敵でも味方でもない。患者だ。
マリエルが追いかけてきた。
「姉さま。カルディア公爵は、お父様がこれまで何度も治癒を施してきた方。内臓に、複数回の治癒の痕があるはず」
複数回の治癒魔法。
つまり、後遺症が蓄積している可能性がある。
そしてそれが限界を超えた。
マリエルの目が、まっすぐ私を見た。
「助けて」ではなかった。
「行きましょう」だった。
「お父様にも立ち会ってもらいます。お父様が治した患者です。お父様に、見てもらわなければ」
マリエルの声は、震えていなかった。
*
カルディア公爵の屋敷は、王都でも屈指の大邸宅だった。
門前に馬車が何台も止まっている。
公爵の容態を聞きつけた関係者が集まっているのだろう。
マリエルの案内で通された寝室に、カルディア公爵が横たわっていた。
豪奢な衣装は乱れ、顔は脂汗にまみれている。
意識は朦朧としているが、完全には失っていない。
腹部を両手で押さえ、呻いている。
その傍らに、ヴィクトルが立っていた。
父の顔を見るのは、追放の日以来だ。
あの時と同じ、感情を殺した表情——に見えた。
しかし、目の下に深い隈がある。手が微かに震えている。
私が部屋に入ったのを見て、一瞬だけ目を見開いた。
すぐに元に戻ったが、あの一瞬は隠せなかった。
「お父様。私が手術を行います。立ち会ってください」
命令ではない。しかし、拒否を許さない声だった。
自分でも驚くほど、静かで、硬い声。
ヴィクトルは何も答えなかった。
ただ、部屋の壁際に下がり、そこに立った。
それが承諾だと解釈した。
カルディア公爵の腹部を触診する。
右上腹部に強い圧痛。腹壁の筋性防御がある。
腹膜刺激症状。腹腔内で何かが起きている。
触診を進めると、腹部全体にわたって複数の硬結が触れた。
一箇所ではない。三箇所、四箇所——少なくとも五箇所。
全て、過去の治癒魔法の痕だろう。
「マリエル。内部を視てください。特に右上腹部」
マリエルが手を翳した。目を閉じる。
「胆管が……何かに圧迫されている。周囲の組織がくっついて、管が潰れかけている。その周りに、炎症が広がっている」
胆管の閉塞。
過去の治癒で生じた癒着が胆管を圧迫し、胆汁の流出が妨げられた。
結果として急性の炎症が発生。
放置すれば、腹膜炎から敗血症。ルシアンの父と同じ道を辿る。
「手術を始めます。ソムニカを」
ルシアンがソムニカの煎じ液を持ってきた。
公爵に飲ませるのに少し手間取ったが、呻きながらも飲み下した。
数分で意識が落ちる。
腹部を切開した。
開けた瞬間に見えたものに、私は息を呑んだ。
癒着。
腹腔内のあちこちで、本来くっつかない組織同士が癒着している。
腸管と腹壁。胃と横隔膜。肝臓と大網。
一回の治癒ではこうはならない。何年もかけて、繰り返し治癒魔法を受けた結果だ。
治すたびに、中が少しずつ壊れていった。
胆管の閉塞部位を確認した。
胆嚢と十二指腸の間で、癒着した組織が胆管を絞めている。
まずこの癒着を剥離し、胆管を開放しなければならない。
「マリエル。出血の止血を。お願いします」
「はい」
癒着を一つずつ、慎重に剥がしていく。
丁寧に。急がず。
一箇所剥がすたびに出血があり、マリエルが止める。
昨日より精度が上がっている。一度の経験で学んだのだ。
手を動かしながら、私は口を開いた。
「お父様」
壁際のヴィクトルに、手を止めずに語りかけた。
「見えていますか。この癒着。あちこちにあります。全て、治癒魔法が残したものです」
ヴィクトルは答えない。
「お父様。あなたは気づいていたんですよね。ずっと前から」
沈黙。
胆管の閉塞を解除した。
黄色い胆汁が流れ出す。閉塞が解かれた証拠だ。
周囲の癒着も可能な限り剥離する。
全ては取りきれない。あまりにも広範囲だ。
しかし、急性の原因は除去できた。
手が止まった時、背後から声が聞こえた。
「……気づいていた」
ヴィクトルの声だった。
初めて聞く声だった。
威厳が剥がれ落ちた、ただの人間の声。
「二十年前だ。私が治療した患者に、治療後の不調が出た。調べれば調べるほど、自分の治癒が原因だとわかった」
メスを置くことはできない。まだ閉腹が残っている。
しかし、耳は向けている。
「だが、認めれば——フォルテシアの百年がすべて嘘になる。一族が積み上げてきたもの、王家からの信頼、聖教会での地位。全てが崩壊する」
縫合を始めた。
一針ずつ。
「お前が生まれて、魔力がなくて。しかし、お前の目は最初から違った。五歳の時に、庭で転んだ使用人の傷を観察して、『この傷は中が見えないから危ない』と言った。あの時、私は——」
ヴィクトルの声が、途切れた。
「怖くなった。この子はいずれ真実に辿り着く、と」
手が止まりそうになった。
止めなかった。
縫合を続ける。
「嘘ではありません」
私は答えた。手を動かしながら。
「治癒魔法は人を救ってきた。ただ、不完全だった。それを認めることは、百年を否定することではなく、百年を超えることです」
この言葉は、考えて出したのではない。
ずっと思っていたことだ。
治癒魔法が悪いのではない。治癒魔法"だけ"に頼る仕組みが悪い。
最後の一針を結んだ。
蒸留酒で清拭し、包帯を巻いた。
カルディア公爵の呼吸を確認する。安定している。
脈拍は速いが、弱くはない。
危機は脱した。
振り返った。
ヴィクトルが、膝をついていた。
王宮筆頭治癒師。フォルテシア一族の当主。
その人が、手術室の床に膝をつき、顔を伏せていた。
「……すまなかった」
声が震えている。
一族の長としてではなく、一人の父親として。
胸が痛んだ。
怒りではない。悲しみでもない。
もっと複雑な、名前のつかない感情。
この人は、ずっと一人で抱えていたのだ。嘘を。恐怖を。
「お父様。謝る相手は私ではなく、あなたが治療した患者さんたちです」
そう言いながら、私はヴィクトルの肩にそっと手を置いた。
血のついた手だった。
カルディア公爵の血。
ヴィクトルの「嘘」が積み上げた後遺症の、その血。
ヴィクトルの肩が、小さく震えた。
*
屋敷を出ると、夕陽が石畳を赤く染めていた。
ルシアンとマリエルが門の前で待っていた。
「終わった?」
「終わりました。公爵は回復に向かいます」
ルシアンが深く息を吐いた。
マリエルが私の手を見て、眉をひそめた。
「姉さま、手、洗って。血だらけよ」
「ああ……そうですね」
井戸の水で手を洗っていると、宿舎のほうから人影が近づいてきた。
金縁の眼鏡。痩身の男。
エドモン。
「セレナ殿。お伝えしたいことがあります」
エドモンの手に、厚い冊子が握られていた。
「あなたのノートの写しを基に、聖教会の過去の治癒記録と照合しました。過去十年間の『原因不明の病』とされた症例を洗い出し、治癒魔法の施術歴と突き合わせた報告書です」
独自に調査をしていた。
あの「規則ですので」の人が、自分の所属する組織の記録を掘り起こし、報告書にまとめた。
「規則を守るためにも……真実を知らなければなりません」
エドモンの声は静かだった。
グランメルで会った時の鉄面皮はない。
しかし、弱くなったのではない。
むしろ強くなっている。自分の信念を更新した人間の強さ。
「報告書を聖教会の上層部に提出する準備ができています。ロザール卿のご助力も得られれば、王の耳に届く可能性があります」
査問会では封殺された。
しかし、別の道が開いている。
エドモンの報告書。
ロザール卿の影響力。
マリエルの証言。
そして——ヴィクトルが真実を認めた事実。
「お願いします、エドモン殿。報告書を出してください」
エドモンが頷いた。
夕陽が沈みかけている。
手を洗った井戸の水面に、赤い空が映っていた。
振り返ると、ルシアンが笑っていた。
「で、どうする?」とは聞かなかった。
もう、わかっているのだろう。
まだ、終わっていない。
ここからだ。




