第8話 姉と妹
フィーネ・ロザールは、十六歳の少女だった。
ベッドの上で肩を上下させ、浅く速い呼吸を繰り返している。
顔色が悪い。唇にわずかに紫が混じっている。
酸素が足りていない証拠だ。
ロザール卿の屋敷の一室。
マリエルが手配して、窓際のテーブルには魔石灯が六つ並んでいる。
ルシアンが器具を清潔な布の上に広げている。メス、鉗子、縫合針、ピンセット。全てリーゼの手によるもの。
蒸留酒の瓶。ソムニカの煎じ液。煮沸済みの布の束。
ロザール卿が部屋の入口に立っていた。
五十代の、痩せた男だ。文官らしい静かな佇まい。
しかし、娘を見つめる目は揺れている。
「治癒魔法では治せないのか」
その問いは、マリエルにではなく、私に向けられた。
マリエルから事情を聞いたのだろう。
「治癒魔法だけでは、この状態には対処できません。しかし、治癒魔法と外科処置を組み合わせれば、可能性があります」
嘘は言わない。
可能性がある。確約ではない。
ロザール卿が目を閉じ、深く息を吐いた。
「……頼む」
ルシアンの父と同じ一言だった。
命を預ける言葉は、いつも短い。
*
フィーネにソムニカを飲ませ、眠りを確認する。
手を洗い、蒸留酒をかけた。
マリエルが対面に立った。
白い手を胸の前で組んでいる。緊張している。
しかし目は逸れていない。
「マリエル。あなたの役割は二つ。一つは、切開した周辺の表層血管からの出血を、治癒魔法で止めること。表面だけ。深い層には絶対に触れないでください。もう一つは、私が見えない内部の状態を、魔力で視て報告すること」
「わかった」
マリエルの返事は短かった。
「わたし」が消えている。集中している証拠だろう。
メスを握った。
右手の指を折る。親指から小指まで。
呼吸を整える。
左側胸部に切開線を引いた。
肋間を開く。前世なら開胸器を使うところだが、この世界にはない。
リーゼの鉗子で肋骨の間を広げ、ルシアンに保持を頼んだ。
ルシアンが無言で鉗子を握る。手が安定している。さすがに剣を握り慣れた手だ。
胸腔に到達。
肺が見えた。
左肺の下葉に、灰白色の硬い塊がある。
通常の肺組織はピンク色で柔らかい。この塊は明らかに異質だ。
線維化した組織。マリエルが「視た」と言っていたものと一致する。
塊の境界を確認する。
指先で触れ、健全な組織との境目を探る。
ここからは慎重にいかなければならない。肺は血管が豊富だ。不用意に切れば大出血する。
「マリエル。切開します。出血したら、すぐに表面だけ止めてください」
「はい」
メスを入れた。
塊の縁に沿って、一ミリずつ。
じわりと血が滲む。
「マリエル」
「……っ」
マリエルが手を翳した。
淡い白い光が、切開部の表面を包む。
出血が止まった。
正確に、表層の毛細血管だけ。深い層には触れていない。
マリエルの額に汗が浮いていた。
今までの「大雑把に全体を治す」治癒とは全く違う作業だ。
針の穴に糸を通すような精密さを、一族最高の魔力で行っている。
切除を進めた。
塊の裏側に回り込み、肺組織から剥離していく。
途中、塊が予想以上に深く根を張っている箇所があった。
健全な組織を傷つけずに剥がすには、内部の状態を知る必要がある。
「マリエル。ここの裏側、視えますか」
マリエルが目を閉じた。
数秒。
「……姉さま。右側にあと三ミリほど、塊が食い込んでいます。その下に太い血管が一本」
内部視認。
触診だけでは得られない情報だ。
私は指先で確認した。確かに、マリエルの言う通り、三ミリほどの食い込みがある。
「わかりました。慎重にいきます」
メスの角度を変え、血管を避けて塊を剥離。
最後の一片を切り離した。
掌の上に、灰白色の組織の塊。
これが、マリエルの治癒魔法が残したもの。
マリエルがそれを見た。
何も言わなかった。
ただ、唇を一文字に結んだ。
残った肺組織を確認する。
出血点がないか、追加の病変がないか。
「マリエル。残りの肺に異常は?」
マリエルが再び視る。
「ここ、まだ少し固くなっています」
指で確認。小さな硬結がもう一箇所。
追加切除。マリエルが止血。
全ての処理が終わった。
閉胸にかかる。肋間を縫合し、筋層、皮下、皮膚を閉じていく。
マリエルが閉創部の表層を治癒魔法で補強した。今度は、正確に表面だけ。
縫合痕の周囲の皮膚が、きれいに接合されていく。
フィーネの呼吸を確認。
深く、規則的な呼吸に変わっている。
唇の紫が消え、薄いピンクに戻り始めた。
成功。
メスを置いた。
蒸留酒で手を洗おうとして——膝が折れた。
壁にもたれて、そのまま座り込んだ。
視界の端が暗くなる。
体力の限界だ。
昨夜はマリエルが来て以来ほとんど眠れず、朝から手術の準備を続け、開胸手術をこなした。
「姉さま!」
マリエルが駆け寄ってきた。
私の肩を支える手が、細いのに力強い。
「大丈夫です。少し疲れただけです」
「嘘」
マリエルの声が、鋭かった。
「姉さまのその『大丈夫』は、大丈夫じゃない時のやつでしょう」
息が止まった。
この子は覚えていたのか。
幼い頃——マリエルがまだ小さかった頃、私が熱を出しても「大丈夫」と言って書庫にこもっていると、マリエルがぬいぐるみを持って追いかけてきた。
「おねえちゃんの大丈夫は嘘だもん」と。
十年以上前のことを、この子はまだ覚えている。
「……バレましたか」
「バレるに決まっているわ。ここで倒れたら意味ないでしょう」
マリエルの目は赤かった。泣いた痕は残っているのに、声はしっかりしていた。
ルシアンが水の入った杯を持ってきた。
無言で差し出す。
受け取って、一気に飲んだ。
冷たい水が喉を通り、少しだけ視界が戻った。
*
フィーネの容態が安定したのを確認し、別室に移った。
ロザール卿が深く頭を下げた。
「あなたの技術は……魔法とは違う。しかし確かに命を救うものだ」
「ありがとうございます」
「査問会の件は、私からも声をかけよう。大臣として——」
「ロザール卿」
私は遮った。失礼だとは思ったが、伝えなければならないことがある。
「私が求めているのは、個人的な特赦ではありません。治癒魔法に外科的知識の教育を組み合わせる。治癒師が人体の内部構造を学ぶ。そういう仕組みが必要なのです。今日のフィーネ様の手術は、マリエルの治癒魔法と私の外科処置が組み合わさったからこそ成功しました」
ロザール卿が目を見開いた。
それから、マリエルを見た。
マリエルが小さく頷いた。
「……制度の変更か。大きな話だな」
「はい。大きな話です。でも、必要なことです」
ロザール卿が顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「わかった。検討しよう。少なくとも、今日のことは王宮に報告する」
それだけで十分だった。
一人の大臣の耳に入った。
査問会では封殺されたが、別のルートが開いた。
*
夜。
宿舎に戻り、マリエルと二人で応接間にいた。
ルシアンは気を遣って自室に引き上げている。
マリエルが椅子の上で膝を抱えていた。
屋敷で見る「完璧な令嬢」の姿とはかけ離れた、子どものような座り方。
「姉さま」
「はい」
「わたし、ずっと怖かった」
声が小さかった。
応接間の魔石灯が一つだけ灯っている、薄暗い部屋の中で、マリエルの金髪がぼんやりと光っている。
「姉さまに魔力がないのに、わたしより頭が良くて、わたしより人の身体のことを知っていて」
マリエルが顔を膝に埋めた。
「だから一族が姉さまを否定してくれた時、正直、安心した。最低でしょう」
最低。
マリエル自身がそう言っている。
自分を裁いている。十八歳の少女が、自分の弱さに名前をつけて、差し出している。
「あなたが最低なら、あなたを追い詰めた環境はもっと最低です」
感情を込めたつもりはなかった。
しかし、声が少し低くなっていた。
怒っている。マリエルに対してではない。
この子に「完璧」を押しつけ続けた一族に。
「マリエル。あなたの魔力は本物です。今日、それを証明しました。あなたの止血がなければ、フィーネ様は助からなかった」
マリエルが顔を上げた。
「それに正しい知識が加われば、あなたは本当の意味で最高の治癒師になれます」
マリエルの目から涙がこぼれた。
声を出さずに、静かに。
昨夜の泣き方とは違った。
昨夜は絶望だった。今夜は、たぶん——安堵だ。
「わたし……姉さまのこと、ずっと嫌いだって思い込もうとしてた。でも嫌いになれなかった。今日、一緒に手術して、やっとわかった。わたしが本当に怖かったのは、姉さまに嫌われることだった」
返す言葉を探した。
気の利いたことは言えない。前世からずっとそうだ。
「嫌いになったことはありませんよ」
それだけ言った。
短すぎるかもしれない。でも、嘘のない言葉はこれだけだった。
マリエルが泣き笑いの顔で、「姉さまはいつもそう。短いのよ」と言った。
確かに、短い。
でも、今はそれでいいと思えた。
窓の外で、王都の鐘が深夜の時刻を告げた。
明日はフィーネの術後経過を確認しなければ。
マリエルに人体構造の基礎を教え始めてもいいかもしれない。
やるべきことが、増えている。
それは悪いことではなかった。




