第7話 崩れる完璧
王都に残って一週間が経った。
査問会の後、これといった動きはなかった。
ルシアンは辺境領主としての用務をこなしながら、近隣の治癒記録を収集している。
私は宿舎でノートを整理し、グランメルの患者たちへの指示書を書いた。リーゼ宛に術後管理の注意点を、テオの回復訓練の手順を。
王都の日々は静かだった。
嵐の前の凪のような、と言えば格好がつくだろうか。
実際は、ただ待っているだけだ。
動きがあったのは、八日目の朝だった。
ルシアンが宿舎に戻ってきた。いつもより足が速い。
「聞いたか。大臣ロザール卿の一人娘が倒れたらしい」
「ロザール卿?」
「王都の有力者だ。聖教会にも王家にも顔が利く。その娘が突然、呼吸困難で倒れた。三ヶ月前にフォルテシアの治癒を受けたばかりだそうだ」
三ヶ月前。
治癒魔法の後遺症は、数週間から数年で発症する。
三ヶ月は、その範囲内だ。
「誰が治療したか、わかりますか」
「わからない。ただ、フォルテシア一族の中でも高い魔力を持つ者が担当したという話だ」
高い魔力。
その言葉が、一人の人物を指していることは明白だった。
しかし断定はしない。情報が足りない。
「続報を待ちましょう」
そう言ったが、続報は思いがけない形でやって来た。
*
深夜。
宿舎の扉を叩く音で目が覚めた。
控えめだが、急いている叩き方だった。
ルシアンの部屋からも物音がする。同じ音で起きたのだろう。
扉を開けた。
月明かりの下に、金色の髪が揺れていた。
マリエル。
フードつきの外套を羽織っているが、髪が外套からはみ出している。急いで家を出たのだろう。
顔は——暗くてよく見えない。
だが、肩が震えているのはわかった。
「……助けて」
それだけだった。
声が掠れている。
長い時間泣いていた後の声に似ていた。
私は扉を大きく開けた。
「中に入って。状況を聞かせてください」
*
応接間の椅子に座らせ、水を出した。
ルシアンが階段の上から様子を見ている。私が目で「大丈夫」と示すと、彼は頷いて自室に戻った。気を遣ったのだろう。
マリエルは水を一口飲み、両手でコップを握りしめた。
手が震えている。
魔石灯の明かりで顔が見えた。目が赤い。
「フィーネ……ロザール卿のお嬢様。三ヶ月前に、わたしが治したの」
やはり、マリエルだった。
「肺の病だった。わたしの魔法で、完璧に治したはずだった」
「完璧に」という言葉が、口癖のように出てくる。
しかし今のマリエルの声には、いつもの確信がなかった。
「今日、ロザール卿に呼ばれて診に行った。フィーネ様は呼吸ができなくなっていた。胸が痛いと泣いていた。わたしはもう一度治癒魔法をかけた。でも、何も変わらなかった」
マリエルの手が、コップの縁を白くなるほど握った。
「それで、魔力で中を視たの。内部を視認する技術は、わたしにはある。そうしたら——肺の中に、硬い塊があった。わたしが治した時に、内部の組織が……くっついて、固まって」
肺の線維化に類似した状態。
治癒魔法で気道や肺の表層は修復したが、損傷した肺胞組織が正しく再構成されず、癒着して塊になった。
結果、肺の一部が機能しなくなり、呼吸困難を引き起こしている。
ノートに記録した症例と、原理は同じだ。
ただし、肺は外から触診できない。マリエルの魔力による内部視認がなければ、発見できなかった。
「溶かそうとした。治癒魔法で塊を元に戻そうとした。でもできなかった。無理に溶かそうとすると、健康な組織まで壊れてしまう。わたしの魔法では、ここが限界なの」
マリエルの声が震えた。
「お父様に報告した。お父様は『お前の魔力なら再度の治癒で対処できるはずだ』と。でもできない。わたしにはできない。わたし、お父様に聞いた。『姉さまの言っていたこと、本当だったのですか』って」
長い沈黙。
マリエルが唇を噛んだ。
「お父様は、何も答えなかった」
沈黙。
ヴィクトルの沈黙は、否定よりも雄弁だ。
「姉さま」
マリエルが顔を上げた。
涙の跡が頬に光っている。
碧い目が、まっすぐ私を見た。
「わたしに……できることは?」
できること。
この子は「助けて」と言いに来たのではない。
正確には、「自分に何ができるか」を聞きに来た。
完璧であることを求められ続けた子が、初めて自分の限界を認めて、それでもまだ、できることを探している。
私はノートを開き、肺の断面図を描いた。前世の知識に基づく、簡略化した肺葉の図解。
「手術で壊死・癒着した組織を物理的に切除します。健全な肺組織を残して、呼吸機能を回復させる。可能性はあります。ただし、胸を開く大きな手術です。リスクは高い」
マリエルが図を見つめた。
治癒魔法の世界では、人体の内部をこんなふうに図面に起こすことはないのだろう。
マリエルの目が、食い入るように図面を追っている。
「マリエル。治癒魔法で術後の表層の出血を止めてもらえますか。表面だけを、正確に。内部は私がやります」
マリエルが目を見開いた。
「わたしの魔法を……使うの?」
「あなたの魔力は本物です。問題は精度。今まで『全体を大きく治す』ことしかしてこなかったなら、『局所だけを正確に治す』ことに切り替えてください。あなたの魔力量なら、できるはずです」
根拠のない励ましは言わない。
マリエルの魔力が一族史上最高であることは事実だ。魔力量が十分にあるなら、制御の精度は練習と意識で上げられる。
問題は、その意識の切り替えができるかどうか。
マリエルが拳を握った。
膝の上で。テオと同じだ。
小さく、しかしはっきりと頷いた。
「やる。やらせて」
その直後。
マリエルの表情が崩れた。
「なぜ助けてくれるの。わたし、姉さまにひどいことを……成人式の日も、その前も、ずっと……」
花の係でしたわね。
あの日の言葉を、マリエル自身が覚えている。
「患者さんがいるからです」
言葉が出た。考えるより先に。
「それ以上の理由は、今は必要ありません」
マリエルの目から、また涙がこぼれた。
今度は声を出して泣いた。
十八歳の少女が、姉の前で声を上げて泣いている。
何か気の利いた言葉をかけるべきかもしれない。
でも、私はそういうのが下手だ。前世からずっと。
だから黙って、マリエルが泣き止むまで隣に座っていた。
それくらいは、できる。
*
マリエルが落ち着いた後、手術の段取りを確認した。
場所はフィーネの屋敷。明日の午前に行う。
器具は——
階段の上から、ルシアンの声が降ってきた。
「聞こえてた。器具は揃えてある。グランメルから持ってきた予備がある」
ルシアンは「何かあるかもしれない」と、診療所の予備器具一式を旅に持参していた。
辺境の領主は、備えを怠らない人間だった。
「リーゼには間に合わないが、図面通りに作った予備の鉗子が二本ある。メスも三本」
「十分です」
マリエルが驚いた顔でルシアンを見た。
ルシアンが肩をすくめた。
「で、どうする? 明日の朝、迎えを出すか?」
「お願いします。ロザール卿に、事前の承諾を取る必要があります。マリエル、手筈を——」
「わたしが明け方にロザール卿に話す。フォルテシアの治癒師として、責任を取ると言えば、入れてもらえるはず」
マリエルの声は、もう震えていなかった。
泣いた痕が頬に残っているが、目は据わっている。
決意した人間の顔だった。
窓の外が白みはじめている。
もうすぐ夜明けだ。
右手の指を折った。
親指。人差し指。中指。薬指。小指。
明日は、この世界で初めての胸部手術になる。




