第10話 治す、ということ
王宮の大広間は、聖教会の査問会場よりもさらに広かった。
高い天井にステンドグラス。窓から差し込む光が、床の大理石に色とりどりの模様を落としている。
正面の玉座に、王が座っている。白髪の、痩せた老人。しかし目は鋭い。
私の横にルシアン。その後ろにマリエル。
そして——ヴィクトルが、私たちと同じ側に立っていた。
敵対者としてではなく、証言者として。
エドモンが王の前に進み出た。
手には、あの分厚い冊子。
「聖教会治癒師監査局、エドモン・ラクロワより、国王陛下に報告書を提出いたします」
エドモンの声は落ち着いていた。
「規則ですので」の口調が、ここでは違う意味を帯びている。規則を守る人間が、規則の根拠となる真実を王に差し出している。
「過去十年間の治癒記録を精査した結果、治癒魔法施術後に『原因不明の病』と診断された症例が百四十七件確認されました。そのうち、治癒魔法の施術部位と関連する後遺症を示す症例が、九十三件。統計的に有意な相関が認められます」
百四十七件。九十三件。
私のノートの十二例とは桁が違う。
エドモンが、たった数週間でここまで調べ上げた。
王が私を見た。
「セレナ・フォルテシアか。申せ」
立ち上がった。
右手の指を折る。
今回が、一番大きな手術だ。
「治癒魔法を否定するつもりはありません」
最初にそれを言った。
ここにいる全員——王も、廷臣も、聖教会の者も——が最も恐れているのは「治癒魔法の全否定」だ。そうではないと、まず明確にする。
「治癒魔法は偉大な技術です。百年以上にわたり、無数の命を救ってきました。しかし、魔法だけでは人体の複雑さに対応しきれない場面があります」
王が身を乗り出した。かすかに、だが確実に。
「私が提案するのは三つです。一つ目、治癒師に人体の構造と機能についての教育を義務化すること。二つ目、治癒魔法の施術後に経過観察を制度化すること。三つ目、治癒魔法と外科的処置を組み合わせた新しい医療体系を研究・実践する機関を設立すること」
具体的に。数字と仕組みで。
抽象的な理念ではなく、実行可能な制度設計を示す。
「先日、大臣ロザール卿のご息女の手術を行いました。治癒魔法で内部を視認し、外科処置で病変を除去し、治癒魔法で止血を行う。この連携により、どちらか一方だけでは不可能だった治療が実現しました」
ロザール卿が傍聴席から頷いた。
そして、ヴィクトルが前に出た。
父が口を開くのを、私は静かに見守った。
「国王陛下。フォルテシア一族の当主として、申し上げます」
声は低い。いつもの威厳のある声。
しかし、その奥に、かつて聞いたことのない震えがあった。
「私は二十年前に、自分の治療の後遺症に気づいていました。しかし一族の名誉を守るために隠蔽しました。その結果、多くの方に苦しみを与えました」
大広間がざわめいた。
王宮筆頭治癒師が、公の場で自らの過ちを認めている。
フォルテシアの百年の信頼に、亀裂が入る音が聞こえるようだった。
ヴィクトルは続けた。
「娘の提案を——支持します」
マリエルが父の隣に立った。
金色の髪が、ステンドグラスの光を受けて輝いている。
小さく、しかしはっきりと頷いた。
王が沈黙した。
長い沈黙だった。
大広間の全員が息を止めている。
「……新たに『医療改革評議会』を設立する」
王の声は静かだったが、大広間の隅まで届いた。
「治癒魔法と外科的知識の統合教育体系を検討せよ。セレナ・フォルテシアを評議会の顧問として招聘する。また、治癒師の認定資格に人体構造の知識試験を追加することを検討せよ」
完全な勝利ではない。
「検討」という言葉が何度も挟まっている。実現には時間がかかる。抵抗も予想される。
でも、動いた。
制度が、一歩動いた。
私は深く一礼した。
*
謁見後、王宮の中庭を歩いた。
マリエルとルシアンが隣にいる。
「姉さま、わたし、もう一度勉強し直す。身体のこと、ちゃんと知りたい」
マリエルの声は、成人式の日とは別人のようだった。
「わたしの魔法は完璧ですもの」と言っていた少女が、「知りたい」と言っている。
「一緒に勉強しましょう。私も、この世界の治癒魔法のことをもっと知りたいですから」
本心だった。
前世の医学知識だけでは、この世界の医療は完成しない。
治癒魔法の可能性を正しく理解し、外科と融合させる。
それが、この世界の「医療」だ。
ルシアンが笑った。
「で、どうする? まず何が必要だ?」
その台詞は、グランメルで初めて会った日と同じだった。
あの時は「清潔な部屋、煮沸した布、蒸留酒、明るい光」と答えた。
今は——
「まず、グランメルに帰りましょう。待っている人がいますから」
ルシアンが頷いた。
マリエルも頷いた。
*
七日後。グランメル。
城門をくぐった瞬間、空気が変わった。
土と草と、かすかな鉄の匂い。リーゼの工房の匂いだ。
王都の石と香水の匂いとは違う、ここだけの匂い。
診療所は——拡張されていた。
領主館の東翼が全て診療所に改装されている。
部屋が四つに増え、リーゼが「医療器具工房」の看板を掲げた一角まである。
「おかえり。あんたがいない間に、ちょっと広げておいた」
リーゼが工房から顔を出し、にやりと笑った。
手には新しい鉗子。三本目だ。
「やってみなきゃわかんないだろ、って思ってさ。器具の改良案、五つくらい溜まってるんだけど」
「ありがとうございます。全部見せてください」
エドモンも来ていた。
聖教会の医療改革担当官という新しい肩書きを得て、グランメルに常駐する辞令が出たらしい。
「新制度の試験運用を、この街から始めます。規則ですので——いえ。必要なことですので」
少しだけ笑った。
この人の笑顔を見るのは初めてだった。
マリエルが診療所の一室に入り、壁を見回した。
「ここが、わたしの部屋?」
「治癒魔法科。あなたの担当です」
「……はい。頑張る」
マリエルが腕をまくった。
フォルテシアの令嬢らしからぬ仕草に、リーゼが「おっ、気合入ってんじゃん」と声をかけた。
マリエルが少し頬を赤くした。
*
夕方。
診療所の前に立って、通りを眺めていた。
グランメルの夕陽は、王都のそれより柔らかい。
土壁に当たって、温かい色になる。
遠くから、足音が聞こえた。
最初は気のせいかと思った。
しかし、近づいてくる。
速い足音。
走っている。
通りの向こうから、赤毛の少年が駆けてきた。
松葉杖はない。
両足で、地面を蹴っている。
まっすぐに。力強く。左右対称の、正しい歩幅で。
テオ。
全力で走っている。
そばかすの顔に、満面の笑みを浮かべて。
「先生っ!」
診療所の前で止まった。息を切らしている。でも、笑っている。
「見て、ぼく、走れるようになったよ!!」
目の奥が、熱くなった。
前世では、こうはいかなかった。
手術が終われば次の手術。患者の退院を見届ける暇もなく、次の命に手を伸ばす。
回復した患者が走る姿を見ることなど、一度もなかった。
テオが笑っている。
真っ直ぐな足で立って、息を弾ませて、笑っている。
涙が出た。
前世を含めた全ての人生で、私が人前で涙を流したのは、これが初めてだった。
止められなかった。止めようともしなかった。
「……ええ。見えていますよ、テオ」
声が震えた。
「ちゃんと、見えています」
テオが目を丸くした。
先生が泣いている、という顔。
それから、照れくさそうに頭を掻いた。
「先生、泣くんだ」
「たまには、泣きます」
「ぼく、もっと速く走れるようになるよ。見ててね」
「ええ。見ています」
テオが踵を返し、また走り出した。
通りの向こうまで走り、振り返って手を振った。
手を振り返した。
涙は、まだ止まっていなかった。
隣に、気配があった。
ルシアンだ。
いつの間に来たのか。
何も言わず、横に立っている。
そっと、私の手に、手が重ねられた。
大きくて、硬い手だった。
剣を握り、鉗子を持ち、弟を抱えた手。
払わなかった。
払う理由が、なかった。
夕陽がグランメルの通りを橙色に染めている。
テオの足音が、遠ざかりながらまだ聞こえる。
走る音。生きている音。
この世界に来て、初めて思った。
前世の三十六年と、今世の二十二年。
合わせて五十八年分の全ての経験が、今日、ここに繋がった。
やるべきことは、まだたくさんある。
評議会の立ち上げ。教育課程の設計。新しい症例への対応。
王都との往復。抵抗勢力との交渉。
きっと、思い通りにはいかないことの連続だろう。
でも、今は。
今だけは。
テオの足音を聞きながら、隣の手の温かさを感じていた。
右手の指を折った。
親指。人差し指。中指。薬指。小指。
感覚は、良好。
明日から、また始めよう。




