第5話 法と命のあいだ
ノートを差し出した。
革表紙の、使い込まれた手帳。
五年分の記録がぎっしり詰まっている。
患者の年齢、性別、治療部位、治癒魔法施術後の経過観察所見。
前世の医学知識を基にした解剖学的な分析。
数字と事実だけで構成された、私の証拠。
「これを読んでいただけますか。治癒魔法による治療を受けた患者に、術後の異常所見が確認されています」
エドモンは手を伸ばしかけ、一瞬止まった。
金縁の眼鏡の奥で、目が揺れた。
迷っている。監査官としての職務意識が、「受け取るべき」と言っている。
しかし、中身が意味するものを予感して、怯えている。
——と、私は推測した。手が止まった、という事実から。
エドモンはノートを受け取った。
一頁、二頁とめくる。
医学用語に近い記述が多いから、理解しづらいはずだ。
しかし、数字は読める。症例数も、発症率も。
頁をめくるエドモンの指が、かすかに震えていた。
「……これは」
声が低くなった。
「治癒魔法への冒涜的な主張です。聖教会が認定した治療法に欠陥があるなどと——」
言葉は拒絶だった。
しかし、ノートを返さなかった。
手に持ったまま、頁を閉じた。
「正式な判断は上に仰ぎます。このノートは証拠物として預からせていただく」
「構いません。写しは手元にあります」
ノートの内容は全て、別のノートに転記してある。
前世の習慣だ。カルテのバックアップは必ず取る。
エドモンが小さく頷き、ノートを書類の束の間に挟んだ。
そのまま踵を返しかけて、足を止めた。
「……明日、この診療所を視察します」
それだけ言って、去っていった。
*
翌日の午前。
エドモンが診療所に現れた。
昨日と同じ服装、同じ金縁眼鏡、同じ無表情。
ただし、目の下にうっすらと隈がある。眠れなかったのかもしれない。
私はいつも通り、患者の診察を続けた。
エドモンは部屋の隅に立ち、黙って見ている。
三人目の患者が、自分の膝を曲げて見せた。
半年前に巡回治癒師に治してもらった膝が、まだ曲がりにくいのだという。
私が触診で関節包の癒着を確認し、説明した。
「先生のおかげで、腕が楽になったんです」
朝一番に来た老人——最初の手術の患者だ——が、エドモンに向かって言った。
右腕をぐるぐると回してみせる。
「二年も痛かった腕が、嘘みたいに」
エドモンの顔が、ほんの一瞬だけ動いた。
眉が上がったのか、目が細くなったのか。微細な変化だった。
すぐに元の無表情に戻る。
その後、テオが松葉杖をついて診療所に来た。
術後の経過確認だ。
テオは包帯の巻き直しを待つ間、エドモンに話しかけた。
「おじさん、誰?」
「……聖教会の者だ」
「ふうん。先生を連れて行くの?」
「……視察に来ただけだ」
テオが松葉杖を握り直した。
「ぼくね、前の治癒師さまに治してもらった時はこうだったんだ」
自分の足を指して、膝から下が斜めに曲がっていた頃の角度を手で示す。
「痛かった。ずっと。でも『治した』って言われたから、ぼくが我慢すればいいんだと思ってた」
エドモンの喉が動いた。
唾を呑んだのだと思う。
「先生は違った。痛いって言ったら、『それは治ってない』って言ってくれた。ぼくの足を本当に見てくれた」
テオの声は明るかった。
明るいのに、目の奥に光が揺れている。泣きそうなのを堪えている顔だ。
エドモンが目を逸らした。
窓の外を見て、小さく息を吐いた。
その表情の意味を、私は正確には読めなかった。
ただ、「規則ですので」の鉄面皮とは、少しだけ違う顔に見えた。
しかし。
「それでも法は法です」
エドモンが視察の最後に、正式な「治療行為停止命令書」を差し出した。
聖教会の印章が捺された羊皮紙。
「本件は王都の聖教会本部に報告いたします。正式な判断を仰ぎます」
ルシアンが割って入った。
「この街における医療行為の許可は、領主の管轄だ。聖教会の認定制度は治癒魔法に関するもので、魔法を使わない処置まで管轄してるのか?」
いい論点だった。
エドモンの目が一瞬だけ泳いだ。
法的にはグレーゾーンなのだろう。
治癒師の認定は「治癒行為」全般を対象としているが、魔法を使わない外科処置がその範疇に含まれるかは、おそらく前例がない。
「……確認いたします。王都からの正式な判断が下るまでは、私からこれ以上の強制措置は取りません」
エドモンが一歩引いた。
完全な撤退ではないが、猶予ができた。
エドモンが去った後、ルシアンが大きく息を吐いた。
「面倒な奴だ。でも、悪い人間じゃなさそうだな」
「ええ。規則を信じている人です。規則が間違っている可能性を、まだ受け入れられないだけで」
*
その夜。
テオの経過を確認し、術後の包帯を替えてから、館の廊下に出た。
窓の外に月が出ている。十日前と同じ、大きな辺境の月。
ルシアンが廊下にいた。
十日前と同じ場所だ。壁にもたれて、腕を組んで。
この人はここが定位置なのだろうか。
「王都に召喚されるかもしれない。覚悟はあるか?」
前置きなしに切り出すのは、この人らしい。
「むしろ、望むところです。王都には私が必要とする証拠があります。フォルテシア一族が治療した患者の記録。それを集められれば、データで証明できます」
「俺も行く。親父の件もある」
ルシアンが壁から背を離し、こちらを向いた。
「あんたの手を見せてくれ」
唐突だった。
「手、ですか?」
「ああ。あんたがユーリを助けた手。テオの足を治した手」
意味がわからなかったが、両手を差し出した。
メスだこがある。前世から引き継いだものではないが、この世界でもすでにできている。十日間でできるものではないから、幼い頃から器具を自作していた名残だろう。
ルシアンはその手をじっと見た。触れはしない。
「その手で、何人救った?」
「この世界では……まだ、数えるほどです」
「じゃあ、これからもっと増えるな」
笑った。
飾りのない、まっすぐな笑い方だった。
不意を突かれた。
この人は、特別なことを言ったつもりはないのだろう。
でも、「これからもっと増える」と当たり前のように言ってくれる人間が、前世にはいなかった。
私は何と返したのか、自分でもよくわからない。
たぶん、頷いただけだと思う。
顔が少し熱かった。夜風のせいにしておく。
*
それから五日が経った。
テオのリハビリが始まった。
松葉杖をつきながら、少しずつ足に体重をかける訓練。
まだ痛がるが、顔は明るい。
リーゼが新しい器具の試作品を持ってきた。
鑷子——前世で言うピンセットの改良版。先端の精度が格段に上がっている。
「あんたの図面、細かすぎて三回作り直したよ」
「すみません。ありがとうございます」
「礼はいいから、次の図面をくれ。あたしも腕が鳴る」
日常ができつつあった。
患者を診て、器具を改良し、ノートに記録する。
前世の病院勤務とは全く違う。でも、「医療を行う場所を作る」という意味では同じだ。
その日の夕方。
馬に乗った伝令が、領主館の門を叩いた。
王都からの正式な書簡。
ルシアンが受け取り、封を切り、読んだ。
顔が強張った。
「召喚状だ」
羊皮紙を受け取って読む。
『セレナ・フォルテシア(旧姓)を、無資格治療行為および治癒魔法への名誉毀損の嫌疑により、王都聖教会査問会に召喚する』
予想より早かった。
エドモンが報告を出してから七日。王都までの距離を考えると、エドモンの到着前に何らかの報告が先行していたことになる。
つまり、誰かがこの件を事前に察知し、動いていた。
聖教会の内部か、その外か。
考えても、今の情報では特定できない。
「予想より早かったですね」
私は召喚状を畳み、ルシアンに返した。
「ビビってないな」
「ビビってません」
嘘ではない。
怖くはない。怖いのは、ここで止められることだ。
王都に行けるなら、むしろ好都合かもしれない。
「グランメルから王都まで七日。テオの経過観察は、リーゼに頼めますか」
「任せろ。リーゼは不器用に見えて、細かいことに気づく奴だ」
ルシアンが窓の外を見た。
夕陽が城壁を赤く染めている。
「明後日、出発しよう。馬車より馬のほうが早い。五日で着ける」
五日。
その間に、査問会で提示する資料を整理しなければ。
部屋に戻り、ノートの写しを広げた。
症例データ。触診所見。手術記録。
データは揃っている。
あとは、これを聞く耳のある人間がいるかどうか。
正直なところ、期待は薄い。
前世の医療裁判で学んだ。
データがどれほど正しくても、システムを維持したい側は認めない。
でも、声は上げる。
声を上げたという事実は残る。
記録は残る。
それが、次に繋がる。
窓の外で、テオが松葉杖をつきながら中庭を歩いているのが見えた。
一歩。また一歩。
ゆっくりと、しかし確実に。
私もそうだ。
一歩ずつ、進むしかない。




