第4話 メスが拓く道
十日が経った。
ユーリは順調に回復している。
まだ腹部に痛みはあるが、食事を摂れるようになり、ベッドの上で本を読むまでになった。
傷口の経過も良好。感染の兆候はない。
蒸留酒による消毒が効いている。
領主館の一角、東側の空き部屋二つを改装して「診療所」にした。
一部屋が診察室。もう一部屋が処置室。
壁を白い石灰で塗り直し、魔石灯を四つ設置した。
リーゼが新たに作ってくれた器具が棚に並んでいる。
メス三本、鉗子二本、縫合針のセット、金属製のピンセット。
どれも前世の基準から見れば粗削りだが、十分に使える精度だった。
噂は近隣の村にも広がったらしい。
「グランメルに魔法を使わず治す女がいる」と。
毎日、数人の患者が訪れるようになった。
今日は、特別な日だ。
診察室の椅子に、テオが座っている。
赤毛のそばかす。右足を庇う座り方。
十日前と変わらない。
けれど、目が違う。
あの「諦め」の色が、少しだけ薄くなっている気がした。
「テオ。手術の説明をします」
私はテオの前に膝をつき、目線を合わせた。
「手術は痛みを伴います。ソムニカで眠っている間に行いますが、術後は腫れますし、しばらくは今より痛い。すぐには走れません。長い回復期間が必要です」
嘘は言わない。
子どもだからといって、ごまかさない。
前世でも、小児の患者には年齢に合わせた言葉で、正確な情報を伝えていた。
「それでも、やりますか」
テオが拳を握った。
膝の上で、小さな拳が震えている。
「ぼく、もう一度走りたい」
声が少し裏返った。
「大丈夫じゃなくてもいいから、本当のことを知りたい」
大丈夫じゃなくてもいい。
十日前、この子は「大丈夫、慣れてるから」と言っていた。
その言葉を、この子は自分で手放した。
目の奥が、少しだけ熱くなった。
前世で何千人もの患者と向き合ってきたのに、十二歳の少年の一言で揺れる。
「わかりました。始めましょう」
*
処置室。
テオを台の上に寝かせ、ソムニカの煎じ液を飲ませる。
甘い薬草の匂いが広がった。
テオの瞼が重くなり、数分で静かな寝息に変わる。
手を洗い、蒸留酒をかける。
メスを取り上げ、右手の指を折る。
親指。人差し指。中指。薬指。小指。
テオの右脛に刃を入れた。
皮膚を切開し、筋膜を分ける。
骨が見えた。
やはり、触診の通りだ。
脛骨の中央部で骨折が癒合しているが、外側に五度ほど角度がずれている。
さらに骨折部の周囲で骨膜が異常増殖し、隣接する腓骨と癒着している。
これが可動域を制限し、歩行時の痛みを生んでいた。
癒着部分を、慎重に剥離していく。
骨膜と骨膜の間にメスを入れ、一ミリずつ。
ここを雑にやると、血管や神経を傷つける。
手が止まった。
突然、視界が暗くなった。
——違う。暗くなったのではない。
記憶が、割り込んできた。
前世の手術室。
無影灯の白い光。
心電図モニターの、甲高いアラーム音。
八歳の男の子。先天性の心疾患。
縫合の最後の一針で、心室壁が裂けた。
出血が止まらなくなって——
指が震えた。
今ではない。ここではない。
これは、過去だ。
もう終わったことだ。
深呼吸する。
右手の指を折る。
親指。
あの子は、助けられなかった。
人差し指。
でも、今ここにいるのは、テオだ。
中指。薬指。小指。
震えが止まった。
メスを握り直す。
癒着の剥離を完了。
次に、ずれた骨を正しい角度に矯正する。
骨の変形部分をメスで薄く削り、軸を合わせる。
リーゼが作ってくれた金属の副木を、骨の両側に当てて固定する。
縫合糸で副木を骨膜に縛りつけ、動かないようにする。
閉創。筋膜、皮下、皮膚を縫い合わせる。
蒸留酒で清拭し、煮沸した布で包帯を巻いた。
テオの足を見下ろす。
包帯の下で、脛骨はまっすぐだ。
あとは、骨がこの位置で癒合するのを待つ。
ソムニカが切れるまで、もう少しかかるだろう。
私は器具を洗いながら、テオの寝顔を見た。
安らかな顔だった。
術後の痛みはまだ知らない。目覚めたら、痛い。
でもその痛みは、「治る痛み」だ。
*
テオが目を覚ました。
最初に顔をしかめた。痛みだ。当然だ。
しかし、次に自分の足を見た。
包帯の上からでもわかる。脛のラインが、まっすぐになっている。
「ぼくの足……まっすぐだ……」
声が掠れた。
目から涙がこぼれ、頬を伝い、顎から落ちた。
拭おうともしない。ただ、自分の足を見つめている。
「まだ走れませんよ」
私はテオの横に椅子を引き、座った。
「ちゃんと治るまで、回復の訓練が必要です。焦ったら悪化します」
テオが顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、でも笑っている。
「でも、走れるようになるの?」
「走れるようになります」
私の声は、少しだけ震えた。
自分でも気づくくらい、小さく。
テオは気づかなかっただろう。子どもは自分の涙でいっぱいだ。
廊下にルシアンが立っていた。
壁にもたれて、腕を組んで。
こちらを見ている目が、少しだけ細くなった。
何か言いかけて、やめたように見えた。
代わりに、軽く頷いただけだった。
*
夕刻。
テオを病室に移し、術後の経過観察の注意をルシアンに伝えていた時だった。
館の正面から、馬車の音が聞こえた。
窓から見ると、聖教会の紋章が入った馬車が門の前に止まっている。
中から降りてきたのは、痩身の男だった。
金縁の眼鏡。神経質そうな面差し。
手に書類の束を持っている。
ルシアンが顔をしかめた。
「聖教会の人間か。面倒なのが来たな」
門番に案内され、男が診療所に入ってきた。
部屋の中を一度見回し、棚の器具に目を留め、それから私を見た。
「セレナ殿ですね。私は聖教会治癒師監査局のエドモン・ラクロワと申します」
慇懃な声。丁寧だが、温度がない。
「単刀直入に伺います。あなたは聖教会の認定治癒師資格をお持ちですか」
「持っていません」
「では、あなたがこの街で行っている行為は、法に触れます。無資格での治療行為は禁止されています。規則ですので、即刻治療行為を中止していただきます」
規則ですので。
その四文字が、壁のように立ちはだかった。
ルシアンが一歩前に出た。
「待て。この街には治癒師がいない。彼女がいなければ、ここの住民は——」
「法は法です。例外を認めれば、制度が崩壊します。治癒師不在地域であっても、正式な報告が上がった以上、黙認するわけにはまいりません」
エドモンの声は淡々としていた。
怒りではない。使命感だ。
この人は規則を信じている。規則が正しいと信じているから、揺るがない。
前世にもいた。
法令遵守を盾にして、現場の実情を見ない管理者。
憎むべき相手ではない。ただ、壁だ。
「……監査官殿」
私は一歩前に出た。
「一つだけ、お見せしたいものがあります」
懐からノートを取り出そうとした。
治癒魔法の後遺症を記録した、五年分の観察ノート。
エドモンの目が、私の手元に向いた。




