第3話 奇跡はいらない
朝日が窓から差し込んで、目が覚めた。
昨夜は泥のように眠った。
体の疲労は残っているが、頭はすっきりしている。
ベッドから起き上がり、ノートを開く。
昨日診た八人の患者の所見を、改めて整理する。
骨折後の癒着が三人。裂傷治療後の皮下硬結が二人。内臓疾患の治療後の慢性腹痛が二人。テオの脚の変形が一人。
全員、巡回治癒師の治療を受けた後に症状が残っている。
パターンは一致している。
外見上は治癒済み。内部の構造が不正確に再構成されている。
ノートにペンを走らせていると、階下が騒がしくなった。
馬の嘶き。人の怒声。何かを運び込む足音。
ノートを閉じて、階段を駆け下りた。
館の入口に人だかりができていた。
その中心に、ルシアンがいた。
蒼白な顔。いつもの砕けた表情が消えている。
その腕の中に、少年が横たわっていた。
十四歳くらいだろうか。ルシアンと同じ黒髪。
腹部に、赤黒い染みが広がっている。
血だ。大量の血。
「街道で盗賊に襲われた。弟だ。ユーリ」
ルシアンの声は平坦だった。
感情を押し殺している。唇が白い。
「治癒師は——いないんだ」
その目が、私を捉えた。
「先生、あんたしかいない」
先生。
昨日までは「あんた」だった。
今、この人は、私を頼っている。
考えている時間はない。
「中に運んでください。昨日使った部屋に」
ユーリの腹部を確認する。
衣服の上からでもわかる。左腹部に深い刺創。
出血量から見て、内臓に達している可能性が高い。
部屋に運び入れ、衣服を切り開いた。
傷口を確認。
左側腹部。肋骨の下。
この位置なら——脾臓。
脾臓は血管が豊富な臓器だ。損傷すれば大量出血する。
指先を傷口に軽く当てる。拍動性の出血。
脾動脈の損傷。
放置すれば、失血死する。
「手術をします」
ルシアンが息を呑んだ。
「腹を開けて、出血源を止めます。脾臓という臓器を摘出しなければならない可能性が高い。脾臓がなくても人は生きられます。ただし、リスクはあります」
嘘は言わない。
前世でもそうだった。患者の家族には、常に正確なリスクを伝える。
「何もしなければ、確実に死にます」
ルシアンが唇を噛んだ。
数秒。長い数秒だった。
「……頼む」
一言だった。
それで十分だった。
私は手を洗い、蒸留酒をかけた。
器具を確認する。昨日の骨製メスと——入口にリーゼが立っていた。
息を切らしている。走ってきたのだろう。
「昨夜、突貫で仕上げた。まだ二本だけだけど」
手に持っているのは、鉗子と改良メスだった。
金属製。刃の形状は、私が描いた設計図通りだ。
柄が少し太いが、握ってみると手に馴染む。
「十分です。ありがとうございます」
ソムニカの煎じ液を、ユーリに飲ませた。
事前に薬草師から入手していた、眠りの薬草の抽出液。
数分で少年の瞼が落ちる。呼吸が浅く、規則的になった。
メスを握る。
右手の指を、順番に折った。
親指。人差し指。中指。薬指。小指。
大丈夫。感覚は良好。
腹部正中を避け、左肋骨弓下に沿って切開する。
皮膚、皮下脂肪、筋層。一層ずつ開いていく。
腹腔に到達した瞬間、暗赤色の血液が溢れ出た。
予想通りだ。腹腔内に大量の出血が貯留している。
煮沸した布で血液を吸い取りながら、視野を確保する。
脾臓を探す。
あった。
通常の倍以上に腫大し、表面に裂傷がある。脾動脈の分枝から、拍動性の出血が続いている。
鉗子で出血点を挟む。
リーゼの作った鉗子は、しっかりと血管を把持した。
ここからが本番だ。
脾臓を支える靭帯を一つずつ切離し、血管を結紮していく。
前世なら電気メスがあった。超音波凝固切開装置があった。
ここにはない。
あるのは、メスと鉗子と、縫合糸だけ。
手が震えた。
恐怖ではない。
この世界で初めての本格的な開腹手術だ。
前世の手術室とは何もかもが違う。
照明は魔石灯の橙色の光だけ。モニターもない。輸血もできない。
失敗したら、この子は死ぬ。
右手の指を折る。
親指。
呼吸を整える。
人差し指。
術野に集中する。
中指。薬指。小指。
手が止まった。
震えが消えた。
脾動脈を結紮。脾静脈を結紮。
一つずつ確実に。前世で何百回と繰り返した手順を、この指が覚えている。
脾臓を摘出した。
掌に収まるほどの、暗赤色の臓器。
腹腔内を洗浄する。蒸留酒を薄めた液で、丁寧に。
出血点を最終確認。追加の出血なし。
閉腹。腹膜、筋層、皮下、皮膚。一層ずつ縫い合わせる。
最後の一針を結んだ時、自分の手が血まみれであることに気づいた。
前世では手袋をしていたから、こんなに直接血に触れることはなかった。
ユーリの呼吸を確認する。
浅いが、規則的。脈拍は速いが、弱くはない。
出血は止まった。
生きている。
背後で、音がした。
振り返ると、ルシアンが膝をついていた。
壁際でずっと見ていたのだろう。
顔は蒼白のままだが、目は真っ赤だった。
「……あんた、何者なんだ」
声が震えている。
私は盥の水で手を洗いながら答えた。
「ただの、魔力ゼロの追放令嬢ですよ」
戸口でリーゼが呟いた。
「奇跡だ」
首を振った。
「奇跡ではありません。手順通りにやっただけです。奇跡に頼っていたら、この子は死んでいました」
リーゼが目を見開いた。
何か言いかけて、口を閉じた。
それから、小さく「……かっこいいこと言うじゃないか」と呟いたのが聞こえた。
*
その夜。
ユーリは眠っている。
呼吸は安定し、顔色も少しずつ戻ってきた。
術後の経過観察は必要だが、峠は越えた。
館の廊下で、ルシアンが壁にもたれて立っていた。
私を見つけると、少しだけ笑った。疲れ切った笑みだった。
「礼を言う。弟を助けてくれた」
「仕事ですから」
「仕事、ね」
ルシアンが窓の外を見た。
月が出ていた。辺境の月は、王都より大きく見える。空気が澄んでいるからだろう。
「……親父が死んだのは、三年前だ」
唐突だった。
しかし、この人の目を見れば、ずっと言いたかったのだとわかった。
目の奥に、長い間溜め込んだ何かがある。
「内臓の病だった。王都の治癒師に治してもらった。フォルテシアの名がつく治癒師にな」
フォルテシア。
私の——元の一族の名だ。
「治療のあと、半年は元気だった。それが急に容態が変わって。腹が膨れて、高熱が出て。王都から治癒師を呼ぶ間もなく死んだ。原因不明だと言われた」
ルシアンの拳が、壁を叩いた。
強くはない。ただ、置くように。
「あんたの話を聞いて……もしかしたら、親父も"治された"せいで死んだんじゃないかと思い始めた」
断言はできない。
直接診ていない患者の死因を、伝聞だけで断定するのは医師のやることではない。
「お父様の最期の症状を、詳しく聞かせていただけますか」
ルシアンが頷いた。
腹部膨満。高熱。急激な全身状態の悪化。
治癒魔法による内臓の癒着が原因で腸閉塞を起こし、そこから敗血症に至った。
その可能性は、十分にある。
ただし、推測だ。
証拠はない。まだ。
「今の段階では、推測としか言えません。でも、同じような症例をもっと集められれば、パターンが見えてきます」
「集める。俺が集める。この街だけじゃなく、近隣の村からも」
ルシアンの目に、さっきまでの疲労とは違うものが灯っていた。
怒りではない。
もっと静かで、熱いもの。
目的を見つけた人間の目だ。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこっちだ。あんたが来てくれなきゃ、ユーリは死んでた」
月明かりが、廊下を白く照らしている。
三年前に父を亡くした青年と、昨日この街に来たばかりの私。
接点は、たった一日分の信頼だけ。
でも、それで十分だと思えた。
部屋に戻り、ベッドに腰を下ろす。
ノートを開いて、今日の手術記録を書き始めた。
患者名:ユーリ。推定十四歳。男性。
術式:外傷性脾損傷に対する脾臓摘出術。
経過:——
ペンが止まった。
指が震えている。
手術中は止まっていた震えが、今になって来た。
遅延性の緊張反応。前世でも経験がある。
大きな手術の後、一人になった瞬間に手が震える。
右手の指を折った。
今度は、おまじないではなく、震えを止めるために。
この世界で初めて人の腹を開き、臓器を取り出し、命を繋いだ。
成功した。
今回は。
次もうまくいく保証はない。
器具は足りない。助手もいない。輸血の手段もない。
それでも、目の前に患者がいる限り、やるしかない。
ペンを握り直し、続きを書いた。
経過:良好。術後出血なし。要経過観察。
ノートを閉じて、目を閉じた。
明日、ルシアンに提案しよう。
この街に、きちんとした診療所を作りたい、と。




