51 男爵家の事情
ジットリアは、レネスの顔を見つめ返した。
何者かと聞かれても、どこから話せばいいのかわからない。エスリル男爵家に生まれた時のことからか、それとも宮廷魔術師になってからのことでいいのか。おそらく後者だろうと判断すると、ジットリアは話し出した。
「私はジットリア・エスリル。スレーン国、エスリル男爵家の娘であり、魔女ヴィルジー・トリメトイの十四番目の弟子。王宮付の魔術師の職を得て、スレーン国王女の護衛官を務めていました」
ジットリアは言葉を切る。書記官のペンが追いつくのを待って言い足した。
「男爵家の娘ではありますが、スレーン国の爵位継承は嫡出の男子のみと定められているため、私に継承権はありません」
「他に兄弟は?」
「おりません。母は私が子供のころに亡くなりました」
「では、今の家族は父親だけか?」
「血縁上のという意味であれば、残念ながら、その通りです」
その返答は、ジットリア自身の耳にもよそよそしく聞こえた。思わず手で口を押さえ、目を上げると、レネスが問うような顔で見つめている。
「ミリアンから痩せすぎだと指摘があったと思うが、それは父親に関係が?」
ジットリアは手を下ろすと、首を横に振った。
「いいえ。母が亡くなってから父とは離れて暮らしていましたし、最後に顔を見たのも一年以上前のことです」
痩せてしまったのは、食の細い師匠に合わせていたのと、スレーン国で囚われている間にパンと水しか口にできなかったことが原因だ。修行時代の貧困は父のせいとも言えたが、屋敷にあったものを売り払って得たお金を、使用人の雇用や屋敷の修繕に使ってしまったのは、ジットリアが選択したことで父のせいではない。
「あなたの父親のことを話してくれ」
「父のことですか? 今回の件に関係あるとは思えないのですが……」
「関係あるかないかは、私が判断する」
きっぱりとしてレネスが言った。
ジットリアは、かすかに眉をひそめた。レネスはおそらく、ケフラー王を信仰する勢力とエスリル男爵につながりがないか、ジットリアの話を聞いて確認したいのだろう。あの父に限ってあり得ないが、レネスは男爵のことを知らないのだから疑うのは仕方がない。
ジットリアは、記憶を呼び起こすと話し始めた。
「――厳格で礼儀作法に厳しく、男爵の身分を誇りとしている父でした。顔を合わせるのは夕食の時だけでしたが、教えられた作法を間違えた時には、貴族らしく振る舞うようにと叱られたものです。そんな父が変わってしまったのは、母が病にたおれてからでした」
ジットリアが十歳の時、母が病にたおれた。寝たきりとなった母を見て、父は男爵の妻にふさわしくないと判断したらしい。病床にある母に向かい、無情にも離縁を迫った。
心を痛めた母はみるみる衰弱し、発病から半年も経たずに命を落とした。孤独な母の最期を看取ったのは、ジットリアと長年仕えたメイドだけで、夫であるエスリル男爵の姿はそこにはなかった。男爵は重荷から解放された気分だったのだろう。「おかげで離縁する手間がはぶけた」と得意げに話したことで、エスリル男爵の評判は地に落ちた。
新しい妻を見つけようにも、病気の妻を見捨てた無情な男に、大事な娘を嫁がせようという貴族はいない。社交界からも閉め出され、自暴自棄になった男爵は酒と賭博にのめり込み、いかがわしい宿に住み着いて、娘の待つ屋敷に帰ることもなくなった。
家庭内のことであり、人が聞いて楽しい話でもない。ジットリアは淡々と事実のみを語り、レネスは口をはさまず黙って耳をかたむけた。
と、しゃくり上げる声を耳にして、ジットリアは言葉を止めた。
部屋の隅に目を向けると、書記官が泣きじゃくりながらペンを走らせている。どこか具合でも悪いのだろうか。心配になったジットリアが立ち上がると、レネスが制止の声を上げた。
「座れ。書記官のことは気にしなくていい」
「そういうわけには……あの、大丈夫ですか?」
レネスの言葉を振り切って、ジットリアは書記官の机に近づいた。ニコラは濡れた顔を上げたものの、涙で前が見えなかったようで、袖口でごしごしと顔を拭いてから口を開いた。
「ごっ、ごっ、ご心配なく。……病気なのに見捨てられて……死んじゃって……うっ……お父さんも帰ってこなくて……ぐすっ……あんまりかわいそうで……」
そう言いながら、あふれてきた涙をまた袖口でぬぐう。
ジットリアは思わず微笑んだ。小柄な兵士だと思ったが、よく見れば顔立ちはまだ幼い。十三、四歳といったところで、少年なのか少女なのかはよくわからない。ジットリアは、ポケットからレースの縁取りのついたハンカチを取り出すと、ニコラにさし出した。
スレーン国で逮捕され、用意された服に着替えるよう言われた時、持っていたハンカチをこっそり胸元に押し込んだ。淑女としての尊厳を忘れないよう大事に隠し持ってきたが、心優しい書記官に使ってもらえるなら手放しても惜しくはない。
「洗ってあります。よかったら使ってください」
「……ずみまぜん。ありがどうございまず」
うやうやしくハンカチを受け取ったニコラは、それで涙を拭き始める。具合が悪いのではないとわかって、ジットリアは胸を撫で下ろした。
と、待たされているレネスが、冷ややかな声を出した。
「ニコラにかまうな。泣いていようが笑っていようが、聞いたことは一言一句もらさず記録する」
ジットリアは、ニコラの手元にある記録用紙を見た。泣きじゃくっていたにもかかわらず、紙の上には一粒の涙もこぼれておらず、美しい文字が整然と並んでいる。レネスが言った通り、耳にした言葉をすべて書き留めているようで、ジットリアは感心して声を上げた。
「まあ! 素晴らしい集中力ですね!」
「うっ……ひっく……し、仕事ですので」
「わかったなら、席に戻れ」
ジットリアが戻ろうとすると、ニコラが腰を浮かせた。ジットリアのハンカチを手に持っている。
「あのっ……」
「さし上げます。母のために泣いてくださったお礼です」
ジットリアが言うと、ニコラは恐縮した様子でハンカチを引っ込める。ジットリアが振り向くと、レネスが棘のある声を出した。
「あなたは、誰彼かまわず懐柔するためにハンカチを持ち歩いているのか?」
「そんなことはありません。持ち歩いているのは自分のためです」
片手を胸に置き、穏やかに言い返す。しかし、レネスの表情は厳しい。
「自分のためと言いながら、あなたはそれを書記官に与えた。自覚していないようなので指摘するが、勝手な行動をつつしむと誓った舌の根も乾かないうちに、あなたはまた勝手な行動をしている」




