48 怒っていますか?
亡霊から選択を迫られたジットリアは、思わず黙り込んだ。
元はと言えば本人が名乗らなかったせいだが、ジットリアは名無しの幽霊に、子供のころに可愛がっていた小鳥の名前をつけて支配下に置いた。あきらめて受け入れたものと思っていたが、交渉する機会をうかがっていたらしい。
口と態度は悪いものの、ウォード卿は毒蜘蛛の罠を教えてくれ、一緒にいて身の危険を感じたこともない。だが、亡霊は亡霊だ。肉体が滅びてもなお、この世に留まるほど、強い恨みを残して死んだ人物である。取り引きに応じて、首輪を外してしまうのは不安があった。
「さあ、どうする?」
ウォード卿が、そう言って返答をうながす。牢から出る方法を教える代わり、名前を取り消すという取り引きに、ジットリアが応じると確信している様子だ。自信に満ちたウォード卿の態度を見て、ジットリアの意志は固まった。
「いいえ。教えていただく必要はありません」
きっぱり断ると、ウォード卿は落胆の表情を見せた。
「なぜだ? 犬ころの治療をしたいと言ったのは嘘だったのか?」
「嘘ではありません。ですが、ここから抜け出せたとして、礼拝堂の司祭様は素性の知れない者を大狼に近づけさせないでしょう。それに、レネス様には親切にしていただいているのに、不義理なまねをするわけにはいきません」
詰め所にいる衛兵の目を盗み、外へ出ることはたぶん難しくない。塔の入口に扉はなく、訪問者がない限り、衛兵達は詰め所から出てこないからだ。夜間であれば、寝台に詰め物をして抜け出し、礼拝堂にもこっそり入れるかもしれない。
しかしそれは、何もかも上手く行ったらの話だ。衛兵が牢の中を確かめるかもしれず、侵入者に気づいた司祭が兵を呼ぶかもしれない。何かひとつでもしくじれば、大騒ぎになるのは必至である。逃げないというジットリアの言葉を信じ、レネスは足枷を外してくれた。その信頼を裏切ることは、絶対にできない。
「あとで後悔しても知らんぞ!」
「ご心配にはおよびません」
「ふん。泣いて頼んでも、教えてやらんからな!」
そう捨て台詞を吐くと、亡霊は壁の中に吸い込まれて行った。
ジットリアは、ウォード卿が消えた壁を見つめた。どこも破壊せず、牢から出る方法が本当にあるのだろうか。
嘘をついているにしては、ウォード卿の態度は自信に満ちていた。仮に嘘だったとしても、だまされたとわかった時点で別の名前をつければいいのだから、ジットリアに損はない。そんなことも予想できないウォード卿ではないだろう。だとすれば、牢から出る方法を本当に知っているのだ。
「この部屋のどこかに、抜け口がある……?」
どこも壊さないとすれば、方法はそれしかない。
ジットリアは、立ち上がると牢の中を探し始めた。簡単に見つかるような仕掛けなら、衛兵が気づいて塞いでいるはずだ。あるとすれば、抜け口があると知っている者にしか発見できないような仕掛けだろう。
夜遅くまで、ジットリアは隠された仕掛けを探して床や壁を調べ回った。
しかし、隠された抜け口を発見することはできなかった。
翌朝、ジットリアが執務棟を訪れると、昨日と同じ部屋でレネスが待っていた。会議用の大きなテーブルから引き出した椅子が二脚、向かい合わせに置いてあり、片方の椅子に座ったレネスが、テーブルに頬杖をついて書類を読んでいる。
昨日、礼拝堂の前で起きたコーデルとの衝突は、レネスの耳に入っているに違いない。見るかぎりレネスが怒っている様子はないが、その静けさが逆に怖ろしいとジットリアは思った。
エドガーに手枷を外してもらい、口枷と頭巾をとって三つ編みにした髪を背中にたらす。エドガーが外の見張りに立ち、もう一人の兵も出て行くと、部屋にはレネスとジットリアのふたりだけとなった。
緊張しつつ、ジットリアは軽く膝を曲げるとレネスに挨拶した。
「……おはようございます。レネス様」
「おはよう、男爵令嬢。薬を塗るからそこに座れ」
書類を置き、向かい側の椅子を示してレネスが言う。机の上には、塗り薬と新しい包帯がすでに用意されていた。
ジットリアは、指示された椅子に腰を下ろした。ふたつの椅子の間隔はせまく、深く腰掛けていないと、レネスの足に膝が触れそうだ。近すぎではないだろうかと危ぶみつつ、ジットリアは目を伏せると口を開いた。
「その……昨日のことですが……」
言いかけた所で、レネスの腕がのびてきて、ジットリアの顎の下に指をかけた。うつむいていた顔を上向けられると、目の前にレネスの顔があった。
鋼鉄を思わせる灰色の瞳に見つめられ、ジットリアは頬が熱くなるのを感じた。レネスと出会って以来、幾度となくこうした事態におちいっているが、触れた肌の温もりや指の感触、冷然とした瞳に見つめられることにジットリアが慣れることはない。
真っ赤になっているジットリアを、レネスは黙って見つめている。片腕をテーブルに置いて身を乗り出し、ジットリアの膝に触れないよう足を開いて座っている。緊張状態に耐え切れなくなったジットリアは、勇気をかき集めると口を開いた。
「……あの、怒っていらっしゃいますか?」
今朝、ジットリアを迎えに来たのは、エドガーと、初めて会う兵士のふたりだった。
ルークとナイルズはどうしたのかと尋ねると、エドガーは意地悪くにんまりしただけで答えなかった。何かあったのか、それともなかったのか。ジットリアは心配になったが、何を聞いてもエドガーは口を割らなかった。
レネスは沈黙を守っており、その表情は極寒の冬のように冷たい。
おびえるジットリアに、部屋の空気は真冬のように冷え切って感じられた。レネスに触れられて体温が上がっていなければ、青ざめて震えていただろう。――絶対に怒っている。そう確信すると、ジットリアはおそるおそる謝罪の言葉を口にした。
「……私が礼拝堂に行きたいとお願いしたせいで、ルークさんとナイルズさんを危険な目にあわせてしまいました。それから、コーデル様に手を引いていただくために、レネス様から出歩く許可を得ているかのような発言をしました。本当に申し訳ありません」
レネスは、無言でジットリアを見据えている。
「あの……」
「言いたいことは、それだけか?」
感情のない声でレネスが言い、ジットリアはごくりと唾を飲む。あせりながら言葉を探していると、レネスが再び口を開いた。
「昨日の件について、行くべきではないと止めたあなたを、ルークは強引に連れて行ったのだと言い、ナイルズもその通りだと認めた。だが、あなたは自分から願い出たのだと言う。嘘をついているのは、どちらだ? 私は誰の言葉を信じればいい?」
厳しい言葉を受け、ジットリアは胸が痛むのを感じた。本当に、レネスの許可なく行動すべきではなかったのだと後悔する。あの時、コーデルの気が変わらなければ、三人ともどうなっていたかわからない。それを考えると身震いがした。
ジットリアは、泣きたいのを我慢しながら答えた。
「礼拝堂へ行きたいと言い出したのも、レネス様に許可を得るべきだとわかっていながら、ルークさんに道案内をさせたのも、この私です。ルークさんは私をかばっているだけで、強引に連れて行かれたわけではありません」
そう言うと、レネスの叱責に耐えるべく、ジットリアは身構えた。




