36 エベル寺院
「私が壊してしまった施設について、教えてください」
ジットリアの表情に落ち着きが戻るのを見て、レネスは顔に出さずに安堵した。
縛り首にして欲しいと言い出した時は驚いたが、死刑をまぬがれないと考えた理由には納得ができたし、ジットリアが思い詰めたのも無理はないと思えた。ルークは、自衛をうながすために打ち明けたようだが、そのせいでジットリアが死刑を覚悟するとまでは考えなかったようだ。
「エベル寺院とは、王政時代の遺物だ」
レネスは答えた。軟膏を指にとり、細い腕に散る痛ましい痣の上に塗り始める。
特製の軟膏はよく効くものの、持ち運びしやすいよう少し硬めに作られている。体温で溶かしながらのばす必要があるが、ジットリアの体温は低く、肌は触れてわかるほど冷たい。上手く広がらないからと力任せに塗れば、ケガを悪化させてしまうだろう。
「……遺物ですか?」
「そうだ。軍が政権を取る前、アデリスが王政国家だったことは知っているな?」
「あらましだけですが。軍が王家を倒して政権を得たとか」
概略しか知らないと言うジットリアのために、レネスは自国の歴史を説明し始めた。
「王政時代の最後の王は、ケフラー・イスディル・アンガランという名の男だった。先王亡きあと、玉座についたケフラー王は周辺諸国に対して無謀な侵略戦争を開始し、国民から命と財産を容赦なくしぼり取った。飢えた者達による犯罪が横行し、それを取り締まる兵はいなかった。兵はすべて、勝ち目のない戦争に投入されていたからだ」
レネスが言葉を切ると、ジットリアが口をはさんだ。
「それで、軍がクーデターを起こしたのですね?」
「そうだ。国の内外で死者は増え続け、国土は荒れ果てた。だがケフラー王は戦争をやめようとはせず、臣下の諫言にも耳を貸さなかった。軍の指揮官達は王を見限ると決めて蜂起し、王族を打ち倒すと実権を奪い取った」
軟膏を塗り終えたレネスは、ジットリアの腕に包帯を巻き始めた。腕の痣は、昨日見たより良くなっているように見える。だが、いまだ病人のように痩せ細り、顔色も悪い。この上、心労まで重なれば、ジットリアの体は持たないだろう。
幸いなことに、死刑を覚悟していると言いながら、ジットリアに消沈している様子はない。死刑から逃れようとするのではなく、縛り首を希望してくるあたり、前向きな人だと感心する。向いている方向は、いちじるしく間違っているとは思うが。
レネスが包帯を巻き終えると、ジットリアが淡く微笑んだ。
「――ありがとうございます」
いや、と口にしながらレネスはジットリアの手を離す。離したそばから、また触れたくなり、その衝動をおさえるのに苦労した。
どうかしている。
気を紛らわすために、レネスは軟膏の容器を手にとる。ジットリアの様子が痛々しく、今にも死にそうに見えるせいだろう。本当に生きているか、ケガを悪化させていないか、触れて確かめてみないことには気が済まない。
相手が人間の女性である以上、そうした衝動が湧いてくることは異常だ。そう思っても、目の前にジットリアがいると、つい手を出してしまう。なぜだろうと考えていたが、先ほどジットリアに反抗されたことで、その理由にようやく気づいた。
レネスは、黄色い髪をした男爵令嬢に顔を向けた。ジットリアが、空色の瞳で不思議そうに見返してくる。
「レネス様? どうかされましたか?」
「あなたを見ていると、死にかけの子犬を拾った時のことを思い出す」
気づくと、レネスは口を滑らせていた。ジットリアが小首をかしげる。
「その犬と、私が似ているのですか?」
「似ている。弱って死にかけているくせに、餌をあたえれば後ろ足で砂をかけ、傷の手当をしようとすれば、牙を剥き出して唸ってきた」
「私は、牙を剥き出して唸ったりしません。子犬はどうなったのですか?」
レネスは息をついた。一瞬、からっぽになった納屋の片隅が頭に浮かび、すぐに記憶の奥深くへ遠ざかった。
「わからない。私が留守にしている間に、つないでいた紐を噛みちぎって逃げてしまった」
ジットリアは、眉をひそめると口元に手をやった。
「まあ……それは心配ですね」
「私が子供の時の話だ。子犬がどうなったにしろ、もう生きてはいない」
レネスは、息をつくと前髪をかき上げた。
子犬一匹を探すには、街は広すぎた。ある大人は優しい誰かに拾われたのだろうと言い、ある大人は野良犬に殺されてしまったのだろうと言って、幼い子供をあきらめさせようとした。
月日が流れ、探すこと自体はあきらめても、街を歩くたび野良犬の姿を目で追うことが何年も続いた。子犬が生き延びていれば、元気な姿を一目見られるかもしれない。しかし幼いレネスの願いは叶わず、同じ犬を目にすることは二度となかった。くるくるした毛並みの、小さな茶色の犬だった。
レネスは、視線を感じて窓に目を向けた。
見張りに立っているルークが、うらやましそうな顔で窓に張り付いているのを見つけて眉をひそめる。ルークの口説き癖はいつものことだが、今回はジットリアに熱を上げているようだ。レネスが睨みつけると、ルークが弾かれたように回れ右をして警戒任務に戻った。
レネスは、ジットリアに視線を戻した。
「アンガラン王族の話だったな」
「はい。軍が蜂起し、王族を倒して実権を奪い取ったと」
「そうだ。兵をひきいた指揮官達は王宮に攻め入り、ケフラー王を生け捕りにすると地下牢に繋いだ。しかし、捕らえた王を処刑することはできなかった」
「しなかったのではなく、できなかったのですか?」
ジットリアの質問に、レネスはうなずいて返した。
「そうだ」
「逃亡したのでしょうか?」
「いや、大勢の国民が処刑に反対したからだ」
ジットリアが驚きで目をまるくした。
他国の者なら、そうした反応になるだろうとレネスは思う。
愚かな王のせいで、多くの民が命を落とした。だというのに、その元凶を殺すことに何をためらう必要があるだろう。玉座に居座っていた頃ならまだしも、自国の軍によって引きずり下ろされ、牢に囚われた無力な男だ。家族や友人の命を奪われた恨みから、処刑を望むのが当然だろう。
「アデリス国は、神より遣わされたアンガラン族の王の下に治まるべし。かつての法典の最初の一文だ。他国の者には信じがたいだろうが、これがこの国の起源だ。アンガラン族の王は、ただの王ではない。この地を治めるよう神に遣わされた聖なる血族とされ、民の心の拠り所だった」
ジットリアは、真剣な表情で聞き入っている。愚かな国民だとあきれる様子はなく、理解しようとする姿勢がうかがえたのでレネスは話を続けた。
「長い歴史の中で一度だけ、アンガランではない王が統治したことがあったが、疫病や飢饉により国は滅びかけた。しかし、アンガランの者が玉座に戻った途端、それらの危機は潮が引くように去ったのだと伝承されている。ケフラー王の行いにより国が荒廃してゆく最中でさえ、民のなかに王を悪く言う者はいなかったそうだ」
「レネス様が、気を悪くされたら申し訳ないのですが……」
「迷信深い?」
レネスが指摘すると、ジットリアがおずおずとうなずく。レネスが気を悪くしていないとわかると、考えながら口を開いた。
「――ですが、国王を神のごとく敬っていたのであれば、処刑に反対した国民の気持ちがわかる気もします。日照り続きで作物が枯れたとして、太陽に向かって暑すぎると怒ってもしかたありませんから」
そう言うと、ジットリアは日の射し込む窓の方へ顔を向けた。その横顔は繊細で柔らかな曲線を描き、すっと背中をのばして座る姿は、野に咲く百合の花を思わせる。レネスは、目を細めるとジットリアの姿を見つめた。
素直で、可愛らしい人だと思う。
しかし、ジットリア・エスリルという女性を語るには、それだけでは足らない。
繊細ではかなげに見えながら、身の内におそるべき強さを秘めている。知性と常識を持ち合わせているものの、時折、信じがたいような振る舞いや自由な発想をする。ただ可愛らしいだけではない、不思議な魅力のある人だ。
だが、私情にとらわれ、ジットリアに深入りすることは望ましくない。
相手は管理すべき被疑者であり、個人的な感情はジットリアに対する判断を鈍らせ、いずれ重大なあやまちを引き起こすだろう。だが、気づけばジットリアのことを考え、ジットリアと会うのを心待ちにしている。この風変わりな魔女に心を乱されている自分に、レネスは苛立ちを感じていた。
「ケフラー王は、今も生きておられるのですか?」
ジットリアが顔を向ける前に、レネスは自分の感情を覆い隠した。
「いや、亡くなっている。それを白日のもとにしたのが、あなただ」




