31 朝の出来事
ジットリアは何か言いかけたが、お腹が鳴ったので朝食のトレーを取りに行った。
乱暴に押し込まれたトレーの上では、野菜のサラダ、燻製肉のサンドイッチ、倒れたコップがごちゃ混ぜになり、琥珀色をした液体がトレーの縁からあふれそうになっている。甘い匂いからするとリンゴジュースのようだ。取っ手付きのトレーが大きいのでこぼれずに済んでいるが、そうでなければ床まで汚れていただろう。
「まるで犬の餌だな」
「言われなくても、見ればわかります……」
気落ちしながらジットリアが返す。トレーのそばにしゃがむと、液体をこぼさずにテーブルまで運べるだろうかと思案した。
「小娘。まさか、その犬の餌を食うつもりか?」
床に座ったままの亡霊が、嫌悪感をにじませた声で言う。
ジットリアは、ため息をついた。
幸いにも、皿の上にはサラダとサンドイッチがわずかに生き残っている。それ以外はトレーの上に落ち、ジュースの海に沈んでいるが、ジュースが染みていなくても食べることはできなかっただろう。皿やコップと違い、食事を運ぶトレーの方は毎回洗っているとは思えないからだ。
「……食べられるものを、食べるしかありません」
そっと皿を持ち上げると、底からぽたぽたとジュースがたれる。ため息をついたジットリアは、布巾を取りに洗面所へ向かった。
「兵から恨まれているようだが、いったいどんな罪を犯したのだ?」
食事を終え、洗った食器を拭いていたジットリアは、手を止めると亡霊を見た。食べられなかった部分は凍らせて海に捨て、汚れた食器やトレーは洗面所で洗うことにした。衛兵のしたこととは言え、汚れた食器を戻せば料理人が不快に思うだろう。
「亡霊さんは、塔の中の会話を聞いたりしないのですか?」
罠が仕掛けられるのを見ていたなら、噂話も聞いていそうなものだと思って尋ねた。下の詰め所でも、間違いなくジットリアの話をしているはずだ。しかし、亡霊は心外だという風に鼻を鳴らした。
「亡霊さんではない。私は盗み聞きなどしない」
「そうですか。幽霊さんは、いつからここにいるのですか?」
「幽霊さんではない。昔のことなど覚えておらん」
「では、ウォード卿とお呼びしてもよろしいですか?」
「ウォード卿? いったい誰のことだ?」
食器を拭き終えたジットリアは、両手を腰に当てると亡霊の方を向いた。
「ウォード卿というのは、私が子供のころに飼っていた小鳥の名前です。そして、たった今から、あなたの名前はウォード卿です!」
あえて強い口調でジットリアは宣言した。
はっきりと姿が見え、会話ができるほど強力な亡霊だ。亡霊がジットリアを格下と認定した場合、呪われる危険がある。死霊術師などは強力な霊を縛って使役すると聞くが、ジットリアは詳しい方法を知らない。だが、名前を縛れば魂も縛られると、どこかで聞き齧ったことがあった。
幽霊は無視しろと教えた師匠が知ったら、卒倒するだろう。だが、幽霊本人が幽霊や亡霊と呼ばれるのを拒否し、しかも呪われる危険があるのだから、死霊術に挑戦してみるしか方法がなかった。
「私はウォード卿では――」
否定しかけたウォード卿の口が、突然固まった。言葉を続けたいようだが、なぜか出てこない様子だ。あせった表情で口をぱくぱくさせたあと、落ちくぼんだ目でジットリアをにらみつけた。
「私に、いったい何をした!」
「聞いていたでしょう。あなたが名乗らないから、私が名前をつけたんです」
「馬鹿な! 私はウォード卿などという名では――」
否定しようとして、ウォード卿はまた口をぱくぱくさせる。唇を引き結ぶと、呪い殺そうとでも言うような表情でジットリアをにらんだ。
恨みのこもった視線を向けられ、ジットリアはちょっと青くなる。だが、精霊魔法の使い手として、亡霊相手に引くわけにはいかない。これは精霊魔法の応用だ。実際、亡霊相手にも効いている。そう考えて勇気を取り戻すと、ジットリアは亡霊に人さし指を突きつけた。
「いいえ。あなたはウォード卿です!」
「いまいましい小娘め! 犬の餌でも喰らっていろ!」
そう吐き捨てると、ウォード卿は壁の中へ消えた。
ジットリアは、止めていた息を吐いた。亡霊を怒らせてしまったようだが、今のところ呪われた様子はない。ウォード卿の怒りがおさまったら、今度は呼び出せるか試してみよう。
「ジリー? いったい誰と話してるの?」
ふいに声がかかって、ジットリアはびくっとした。
振り向くと、戸惑った表情をしたルークが鉄格子の向こう側に立っていた。
ルークは灰と黒の軍服を身につけ、腰に剣を下げている。音を遮断する魔法は消してあるので、ルークの足音や剣帯の鳴る音がしたはずだが、ウォード卿と対決していて気付かなかったようだ。
「ええと……」
ジットリアは返事に困った。
幽霊と話していたと答えたら、頭がおかしいと思われるだろうし、独り言だと言えばそれはそれで頭がおかしいと思われるだろう。朝の発声練習をしていたと言えば、ルークは信じてくれるだろうか。そう思って答えようとした時、ルークが鉄格子をつかんで大声を出した。
「ジリー! その服!」
「服?」
ジットリアは、視線を下げると自分の服装を見た。
二日間着ていた地味なドレスを脱ぎ、用意されていた藍色の修道服を身につけている。まだ頭巾を被っていないが、色と形状から修道服であることは一目瞭然だ。
「昨日のドレスも素敵だったけど、その修道服もすっごく似合ってるよ! 禁欲的なたたずまいが清楚なジリーにぴったりだよ! さすが俺の女神!」
青い目をキラキラさせつつ、ルークが言う。真剣にそう思って言っている様子ではあるが、ルークにかかれば、ボロ布を巻いていても褒めちぎりそうだとジットリアは思った。




