30 塔の住人
ジットリアは息をのんだ。知らずに蓋を開けていたら、毒蜘蛛に噛まれていたということだ。
「――誰が置いて行ったのか、見ましたか?」
眉をひそめつつ尋ねると、亡霊が得意げに答えた。
「寝具を運び込んだ使用人が、衛兵の目を盗んで置いて行った。お前が寝台に横になった途端、振動で蓋が外れるようになっている。蓋が外れれば、腹を空かせた毒蜘蛛が出てきて、寝ているお前に毒牙をブスリだ!」
「毒蜘蛛は何匹ですか?」
「小さいのが一匹だ」
「そうですか。どうもありがとう」
ジットリアは礼を言うと、かがみ込んで寝台の下に手を伸ばした。小さな壺を指先でつつくと、亡霊が言った通り、簡単に蓋が外れて転がり落ちる。見るからに毒々しい蜘蛛が一匹、すぐに這い出してきた。
壁にもたれて座っていた亡霊が、ぎょっとした様子で腰を浮かせた。
「触れるなと言っただろう! この大馬鹿者が!」
「大丈夫です」
ジットリアは寝台から離れると、右腕を上げて詠唱を始めた。
『我が右手に翡翠の扇、我が求めるは戯れのごとき風。我が敵をからめて棄てよ――風の鞭』
寝台に向かって腕を振ると、ひとすじの風が寝台の下へもぐりこむ。小さな竜巻となって毒蜘蛛を巻き取ると、窓を通って夜の闇へと消えて行った。
ジットリアは、片付けは終わりとばかりに両手を払った。
「蜘蛛は海に捨てました。空の入れ物に触っても平気でしょうか?」
ジットリアは聞いたが、亡霊の男はこちらに尻を向け、上半身を壁の中にめりこませている。蜘蛛が本当に捨てられたのか、外を見て確認しているようだ。ややあって壁から出てくると、困惑した顔をジットリアに向けた。
「……とんでもない娘が来たものだ」
そうつぶやくと、亡霊は壁の中に吸い込まれて行った。
「亡霊さん? 亡霊さーん?」
ジットリアは壁に向かって呼びかけたが、亡霊は出てこない。
「他にも罠がないか、聞きたかったのに……」
毒蜘蛛の入った壺がまだ隠されていたら、安心して眠ることができない。だが、出てこないものはしょうがない。ため息をついたジットリアは、罠を探して部屋の中を調べ始めた。
部屋の隅々まで探したが、他に罠はないようだった。
ドラゴンの罠に続き、今回もジットリアは生き延びたわけだが、亡霊の警告がなかったら、今頃どうなっていたかわからない。何も知らずに壺に触れ、出てきた毒蜘蛛に噛まれて死んでいても不思議ではなかった。
考えた末に、ジットリアは壺を元の位置に戻し、蓋だけ外しておくことにした。こうしておけば、部屋にまだ毒蜘蛛がいると思い、敵が次の手を出すまで時間をかせぐことができるだろう。
翌朝、ジットリアは、眠い目をこすりながら起き上がった。壁に並んだ細い窓から、部屋のなかに陽光が射している。窓の向こうに青い空と、飛んでいる海鳥の姿が見えた。
習慣になっていたので起きられたものの、頭がぼんやりして、目が覚めたとは言いがたい。それと言うのも、夜中に見回りに来た衛兵が、大声で雑談をしながら鉄靴を鳴らし、持っている武器で壁を叩いて、ジットリアの眠りを妨害したからだ。
三度目の見回りのあと、我慢できなくなったジットリアは魔法のカーテンを張り、部屋の外から聞こえる音を遮断した。それでようやく眠ることができたが、その時には真夜中をとうに過ぎていた。
「でも、うるさいのも利点があるから……」
自分自身に言い聞かせつつ、ジットリアは魔法のカーテンを消した。
騒がしい音で衛兵が来るのがわかるので、うっかり着替えや入浴を見られる心配はない。身を隠す衝立はあっても、衛兵がその気になれば、牢の鍵を開けて中に入ることができる。外に衛兵がいるのに、裸でいるという状況は避けたかった。
寝台を整えたジットリアは、昨日見つけた修道服に着替えた。サイズはぴったり合っており、生地が柔らかくて着心地がいい。ショートブーツの紐を結んでいると、階段の方から、うるさい鉄靴の足音が聞こえてきた。
じきに二人の衛兵が姿を見せたが、礼儀正しいジットリアでも、彼らに朝の挨拶をする気にはなれなかった。夜中の巡回では、大騒ぎをしてジットリアの眠りを妨げ、そして今も、ジットリアに向ける視線は悪意に満ちている。
鉄格子の下部には、食事を出し入れするための隙間がある。朝食がのったトレーを床に置いた衛兵は、それを乱暴に足で押し入れた。トレーの上で食器同士がぶつかり、中身がこぼれてぐしゃぐしゃになった。
「おっと、いけねえ。俺の綺麗な靴が汚れちまった」
そう言うと、衛兵達はげらげら笑いながら階段を下りて行った。
ジットリアが言葉を失っていると、どこからか声がした。
「衛兵の質も落ちたものだ。何とも嘆かわしい」
ジットリアが視線を向けると、昨日とまったく同じ場所に、まったく同じ格好で、昨日の亡霊が胡座をかいて座っていた。細長い窓しかないせいで、部屋の中は朝でも薄暗い。そのため、亡霊がいても場違いには見えなかった。
「亡霊さん。おはようござい……ます?」
挨拶の途中で、亡霊は眠らないだろうと気づいた。亡霊は、何とも言えない表情を浮かべている。
「気持ちの悪い挨拶をするな。それに亡霊さんではない」
むっつりして亡霊が言う。それきり黙ったので、名乗る気はないようだ。




