堕落の刻印
エルシー・マッドリバーは、僕が守るべき女性だった。
魔術という、ある種の毒物を扱う一族に生まれた彼女は、幼い頃から厳しい躾と英才教育の中にいた。
魔導伯家の跡取りとして、当然の指導だ。
十数年ほど昔には、「魔法を見せて」と頼まれた子供が魔術の制御に失敗し、大火事になってしまった事件もあった。
もしも、エルシーがそのような事件を起こしてしまえば、マッドリバー家は貴族籍を剥奪されて、一族の歴史に幕が下りる。
⋯⋯厳密に言うと、地方領主の養子になっている先々代の次男や三男が、新しい魔導伯に任命されるだろうから、血統自体は途絶えないのだが。
事件の規模や悪魔性によっては、エルシー自身やその保護者である父親も、魔導伯としての責務に背いたとされて、断頭台に送られてしまう。
それゆえに、エルシーは生まれた時から、「魔術で人を傷つけてしまってはいけない」と強く教え込まれている。
幼い子供の頭では、どこまでやったら事件になるかの推測が不完全なため、ルールをかなり簡略して伝えられていた時期もあったそうだ。
僕が──アレックス・ホーリーソンが、剣の稽古を始めるよりもずっと前から、彼女は修行をさせられていた。
周囲の教育の甲斐あって、エルシーは穏やかで心優しい女性へと成長しているようだった。
⋯⋯それは、どこか、他人に対する密かな恐怖と、壊れやすい己の立場への不安とを、抱いているようにも僕には見えた。
エルシーは、絶対に他人に怒らない。カッとなって魔術を使うことの無いように、厳しく躾られている。
彼女は、人を傷つけられない。
どんなに周りから傷つけられても、反撃できない。反抗心は、呪詛を生むから。
だから僕は、他でもない僕がエルシーのことを守ってやらなければと、考えていた。
幼い頃からの仲間意識と喪失の忌避に、少しだけ、格好いい理由を当て嵌めて。
エルシーのことを守り通せる、格好良い男になるのだと、今日までずっと、努力してきた。
彼女と一緒に旅に出て、彼女の代わりに戦って、彼女を悪魔たちから守って、彼女のそばに立ち続ける。
そのために、僕はずっと生きてきた。
なのに、どうして。
どうして彼女は、魔王に与した?
ああ、いやだ。彼女に操られてしまっている僕の体が、魔王の元へと向かっていく。
僕は神に選ばれた勇者で。
僕の全身全霊を捧げても良いと思うのは、エルシーに関することだけなのに。
魔王の指先が、からかうように頬を撫でる。
いやだ、やめろ、やめてくれ。
僕はエルシーの婚約者なんだ。僕の一途さを穢さないでくれ。
おねがいだ、たのむ、やめて、やめて。
僕が魔王を討ち滅ぼす救世主であることを、キミは望んでくれていないのか?
ゆるして。エルシー。たすけて。
キミを愛している僕が、必要だって、言ってくれ。
目の前の魔王を、キミを誑かした悪を、僕が戦って倒したいのに、どうしてキミが立ち塞がるんだ。
キミを一途に愛することを、キミのために剣を取ることを、キミは許してくれないのか。
操られている僕の体が、魔王に甘く笑いかける。
僕の体を操っているエルシーが、僕の無力さを喜んでいる。
「いやだ⋯⋯。いやだ、エルシー⋯⋯。エルシー⋯⋯」
吐き気がする。意識が眩む。
それでも維持で、持ちこたえる。
奇跡的な何かによって、彼女の目が覚めた瞬間に、魔王の首を刎ねられるように。
僕は、エルシーが魔王へと手を伸ばす様を見つめ続けた。
ああ。酷い。最悪の気分だ。
彼女が僕を傷つけるようなことをするのが、堪えられない。なんて、まるで自分が被害者であるかのような考えが湧く。
悪魔に洗脳されているエルシーが、苦しんでいない筈が無いのに。
彼女を助け出すことよりも、自分の心を優先してる。
僕は非道い人間だ。彼女の騎士に相応しくない。
その現実が胸に刺さって、泣き出したいのに、僕の体は笑っていた。




