雪下を覗く
冬神エディスは、溜め息を吐いた。
頭を悩ませるのは他でも無い。浄化の女神エスニクリンの暴虐だ。
かの神は、エディスが転生の階へと導いた魂に、穢れを振り撒いた。
──到底、赦せる所業では無い。
無垢に生まれる筈だった命を異世界の泥で汚した。それはエディスの神業への侮辱。
店頭に並べたケーキを、買い取りもせずに、故意に地面へと叩きつけるようなものだ。
「カーターとリズの連れてきた魂⋯⋯。あの在り方は、あまりに歪で、残酷なことです⋯⋯」
エスニクリンの手によって、聖女の刻印を刻まれていた令嬢エルシーも。
心の奥底に彼方への逃避願望を秘めたままアンデッド化した異世界の彼も。
どちらの運命も捻じ曲がり、何をやっても心は折り合いをつけられず、苦痛が伴う状態に押し込められている。
いずれ起爆するように、神に作られた人間爆弾。精神の歪みは、いずれ魔力を暴走させて、彼等ごと呑み込む濁流を生む。
「⋯⋯それをわかっていながらも、冬神は何もするつもりは無い」
何故なら、エディスの力は誰かに〝そうあれ〟と望まれなければ、動かないからだ。
魔界へと追放された時に、人類へ害をなさないように、人類の望まぬ権能は振るえない呪いを掛けられた。
転生を果たし終わっている魂は、いかに歪められていたとしても、触れてはならない「生者」の一人だ。
あの魂の持ち主が、救って欲しいと望まぬ限り、エディスには出来ることが無い。
それゆえに、エディスは相手から望まれるまで、自身の願望を無意識の下で硬く凍結してしまう。
可哀想な生い立ちだから、彼等を救ってやらねばならない、という意欲は、冬の神の表層にまで浮かび上がってはこない。
心苦しいことではあるが、それだけだ。
胸の痛みを堪えることも、忘れることも、難しくは無い。
「もしも、彼等が望むなら⋯⋯。その時には、私のネクロマンシーで、混ざり合う魂を切り分けましょう。
ですが、それは⋯⋯、彼女が掛けている呪いの全てに対抗できる神の一手とは言い難い⋯⋯」
異世界の魂との分離が成されれば、令嬢の魂は神に選ばれし勇者としての運命に捧げられるだろう。
魂に刻みつけられた「魔王を倒せ」という囁きに、常人の意識など軽く消し飛ぶ。
どんなに嫌でも、浄化の神によって敷かれたレールを走らざるを得なくなる。
「冬神が仕掛けたプロパガンダによって、民衆の信仰が弱まれば、彼女を使命に駆り立てる刻印の力も弱まるでしょうが⋯⋯。
悪魔に生活を脅かされている民草が、聖女一人の幸せのために、勇者という武器を手放せるとは思えません⋯⋯」
解決の鍵があるとすれば、共に旅立つ筈だった「もう一人の勇者」だろうか。
彼が単独で魔王を討ち滅ぼせるほどに強く、令嬢の心を大切にしたがる性格ならば、生贄の如き勇者の使命から彼女を守ってくれるかもしれない。
「⋯⋯結局は、見守る程度しか出来ません」
一方で、分かたれた彼の魂は、逃避と断絶による極寒の安寧を求めて彷徨い続けることになる。
彼は、この世界においてはアンデッド族に類される。
故に、その内情はエディスには容易に読み解けた。エディスには、アンデッドたちの持つ未練がわかるのだ。
魔力波形から伝わってきた情景は、人魚と、ケーキと、理想郷。
異界へ誘う異形の存在。自身を害さぬ安全な個体。ここでは無い「どこか」なら、一瞬たりとも苦痛を感じずに済むという存念。
この世界へと引き込まれてしまう程度には、現世への辟易とした感情と、異郷への憧れを抱いていた魂。
それが、アンデッド化によって、更に強く捻じくれている。彼はきっと、どこに根差しても、焦燥と不安とで逃げ出したくなる。
「⋯⋯本人も、違和感は自覚できているようでしたね。ですが、その正確な正体を、冬神に尋ねることはなかった」
聞かれなければ、願われなければ、エディスは生者に何も説けない。
信徒であれば、神託を望んでいる気持ちに応えるといった形でアプローチの仕様もあるのだが⋯⋯。
エディスはそっと目を伏せる。
これはどこまでも、可/不可を判定するためだけの思考であって、「教えてやらなければならない」という言葉へは一切繋がらない。
それを惜しいとも思えないまま、エディスの頭に情報が並べられていく。
現在、彼の側にいる信徒には、神託を待ち望んでいる者も、彼について知りたがっている者もいないようだ。
「常に現実逃避をしたがる」という呪いに理解を示した上で、不規則な回遊を支援してくれるほど仲の良い知り合いも作れないだろう。
彼の呪いは、親密性の回避を強いるものに等しい。
「アンデッドなる彼の魂に、数多の幸あれ。
⋯⋯アンデッドなる全ての者に、安らかなりし夢あれ──」
エディスは冥府の入口で、門に刻まれた言葉をそのまま呟いた。
何の他意も無い、冷たい冬神の声が、静けさの中に響いて、消えた。




