第9話:協力者-1
佐方重工は日本に拠点を置きながら世界にその名を知らしめる巨大複合企業だ。
その始まりは親の跡を継いだ小さな町工場に過ぎなかったが、創業者であり現会長の佐方が持ち前の勘の良さと決断力で上手く時流に乗り続け、わずか一代で巨大企業へと押し上げた。
今では兵器開発からロボット産業、果ては日用品や子供のおもちゃに至るまで多角的に事業を展開し、その全てにおいて成功を収めている。
当時社長であった佐方は数年前に自身の息子へ社長の座を譲り経営の全権を委任。
今でも時おりアドバイスを求められることはあっても既に一線からは退いており、実質的には名誉会長のような立場だ。
全てを息子に任せた今となっては、自由気ままに余生を満喫していた。
しかしそんな彼の身に、この日悲劇が降り掛かった。
轢き逃げという名の交通事故である。
日々健康を意識し、日課であるサイクリングを楽しんでいたところへ自動車が突っ込んできたのだ。
恐らく故意によるものではない。
佐方は轢かれる直前にドライバーの顔を目にしたが、相手はスマートフォンを手に持ったままの脇見運転で走行していたのだ。
追突された佐方の体はロードバイクと共にガードレールへと叩きつけられ、そのまま道路脇の斜面を転落した。
幸い即死は免れたものの、虫の息であることには変わりなく、その後に遅れてやってきた激しい痛みを思えば幸運とも言い難い状況であった。
痛みはやがて凍えるような寒さへと変わり、夜の帳が下りるように視界が暗くなってゆく――
世界が閉ざされるような感覚がした。
自分はこのまま消えるのだと悟った。
そして暗く冷たい世界の中で、この手を握ってくれる家族達がこの場にいないことが、なによりも心細かった――
そんな薄れゆく意識の中で全てを諦めかけていた佐方の下に、その男は現れた。
男は悲痛な表情を浮かべてこちらを見下ろしていた。
もう長くはないと一目で察したのだろう。
だがその表情は哀れみを向けているというより、どこか苦悩しているようにも映った。
どこの誰かは分からないが、誰にも看取られずにただ孤独に消え去るよりはマシかとそう思った矢先、男は何かを取り出すとその中身を振りかけてきた。
深紅の液体が触れると同時に、佐方は意識を取り戻す。
不思議な光が体を包み、寒さや痛みはたちどころに消え去り、温かな日差しを浴びるような心地よい感覚が心と体を癒してくれた。
そしてどういうわけか、次に折れた手足が勝手に暴れ出した。
幸いなことに痛みはない。
そばに居た男に目をやると、彼は先ほどまでとは打って変わって、今度は害虫の交尾でも目にしたような眼差しで数歩引いた位置からこちらの成り行きを見届けていた。
人からあんな目を向けられたのは初めてだった。
そんな魔法としか言い表せない体験を経てカムバックを果たした佐方であったが、件の男は礼を言う前にそそくさとその場を去ってしまう。
だが佐方は彼がこれまでの人生で築き上げてきたあらゆる人脈をフルに活用し、その男の身元を突き止め、こうして車内で対面するに至っていた。
* * *
「遅くなってしまったが、まずは礼を言わせて欲しい。君のお陰で儂はあの時死なずに済んだ。命を救ってもらい感謝する……」
佐方はそう言って、隣に座る井手に対し深く頭を下げた。
「えっとその、人違いじゃないですか?」
井手はとぼけてみせるがそんな返しは想定済みだったのか、佐方は何も言わずに大判の茶封筒を取り出し井手に手渡す。
中身を見れば数枚の書類が入っており、そこには顔写真も含めた井手の個人情報に加え、何やら場所や日時がこと細かく記された書類も入っていた。
「あの、これは?」
嫌な予感がしながらも、井手はその書類について尋ねる。
「Nシステムの記録だ。コネを使って調べてもらった」
Nシステムとは、自動車ナンバー自動読取装置の通称である。
日本全国の主要幹線道路などに設置されているカメラシステムで、通過した車両のナンバープレートを撮影し読み取ることで犯罪捜査に利用されている。
本来このNシステムは車両前方を撮影するように設置されているため、井手が使うスクーターのような二輪は車両後方にしかナンバープレートがないので撮影対象とはならない。
だがその弱点を補う形で導入された佐方重工製の自走ロボットが偶然にも井手の姿を記録していたため、この日の井手のおおよその足取りは記録に残されていた。
「事故当時に君のスクーターがあの辺りを走っていたことは、その記録が証明してくれる」
やっちまった――
佐方のその言葉を聞き、井手は頭を抱えてうずくまる。
アイテムボックスの存在が権力者に露呈するのは井手が最も恐れていたことだ。
バレれば少女が都合のいいように利用されると考え、これまで写真を一枚撮るだけでも常に注意を怠ってはいなかった。
その禁を破ってあそこでポーションを使ったのは浅はかな行為だった。
かといって、もしあの場で使うのをためらっていたならば、きっと井手はそのことを一生後悔しただろう。
あのまま老人を見殺しにすれば良かったのかと問われればそれは否だ。
今でもあの判断は間違ってはいなかったと井手は思っている。
ならそれを拡めるなりしてもっと大勢のために役立てろと言われてもそれはできない。
井手が直接向こうの世界へ出向いてポーションを仕入れられるならその選択肢も取れるが、あの薬を用意できるのは少女だけなのだ。
少女にポーションを催促してしまえば、それは井手が嫌う強欲な人間達と同じ末路を辿ることになってしまう。
頭の中を同じ思考が何度もぐるぐると繰り返す。
井手にはあの時どう立ち回れば良かったのか、その答えを出すことができなかった。
「井手君……」
隣で頭を抱えてうずくまる井手を見て、佐方が気遣うように声をかける。
「すまない、君を困らせるつもりはなかった。儂はただ、命を救ってくれた恩人に恩返しがしたかった。君が誰にも真似できない不思議な力を持っていることは知っているが、それでもこの恩に報いるために、何か君の力になれることはないだろうか?」
佐方の本心は井手には分からない。
井手は今になってようやく事の重大さを理解した。
あのポーションは札束の詰まったスーツケース以上に価値があり、それは人を心変わりさせるのに十分過ぎる代物なのだ。
あんな奇跡のような薬が存在すると分かれば、どのような手を使ってでも出どころを突き止めようとする者は現れるだろう。
味方のふりをして聞き出すのもいい。
部屋に秘密があるなら忍び込んで探ればいい。
謎の光の詳細は口を割らせれば簡単に分かる。
そこからは井手を脅して従わせるか、あるいは写真でやり取りしていると分かってしまえば、後は井手本人でなくとも生成AIで作った偽の井手の写真を使えば少女を騙すことだってできるのだ。
だがこの状況でそんな最悪なケースばかりを想像して黙秘を貫いても意味がない。
今の井手にとって、時間は味方ではないのだ。
既にポーションの存在を知られた今、対応が後手に回るほど不利になるのは明白だった。
――だったら最初からこちらの手の内を全部明かして、協力関係を結べるかに賭けるほうがまだマシだ。
悩んだ末に、井手は開き直ることにした。
少しでも少女の利になるようにと、相手に働きかける道を井手は選んだのだ。
「あの、ひとつ訂正させてください。本当の命の恩人は俺じゃなくて別の人です。……あっ、別にしらばっくれてるわけじゃなくて、その子の助けを借りたからあなたを助けられたんです。ですからもしお礼をしたいと言うのであれば、俺じゃなく全部その子にしてあげてください。」
ほぉ、と佐方は内心で意外に思った。
今の言葉が口先だけのものではないと見抜いたからだ。
佐方にはどういうわけか、生まれつき相手の嘘を直感的に見分ける才能があった。
その力のお陰もあって会社をここまで押し上げることに成功したわけだが、井手が本心からそう語ったと見抜き好印象を抱いたのだ。
佐方は井手の情報を集めた際に、彼の経歴や経済状況についても調べ上げていた。
生活に困窮しているほどではないが、それでも世間一般の生活水準から見れば彼は下のほうだ。
富豪の命を救ったとあればそれなりの礼を期待するなり要求したとしてもおかしくはない。
実際佐方は井手が少しでも遠慮するようなそぶりを見せたところで、最低でも億単位の小切手とマンションの一室を提示する腹積もりでいた。
当然単なる謝礼や善意だけではなく、あわよくば彼が使った不思議な薬の秘密を探り出し、自分も一枚噛ませてもらおうという魂胆からである。
「ふむ。ではその知人を紹介してはもらえないだろうか?ぜひとも直接会って礼を言いたい」
井手は首を横に振った。
「それはできません。俺自身その子に会ったことは一度もありませんし、俺はその子の名前すら知らないんです」
もしやSNS上だけでやり取りしている相手なのだろうかと、井手の話を聞いた佐方は困惑した。
「……あの、治療の件を知っている人は何人くらいいますか?」
「儂とそこにいる秘書の伊口君だけだ」
佐方は先ほど応対した運転席に座る女性を視線で指し示す。
伊口とミラー越しに目が合うと、彼女は井手に対して静かに目礼で返した。
井手は腹を決めると、いつになく真剣な面持ちで言葉を告げた。
「お二人にお見せしたいものがあります」




