第8話:ポーション
「ただいまー」
異世界にて少女とテレサが邂逅を果たしていたその日の夜、日本では仕事を終えた井手が夜遅くに帰宅していた。
井手は帰宅早々に荷物の保冷リュックを一旦アイテムボックスの中へとしまい、リュックの中から取り出した本日の戦利品である半額惣菜や弁当を一個ずつレンジで温める作業に取り掛かる。
このアイテムボックスの時間停止機能というのは本当に素晴らしい。
こうして先に温めておけば食品が冷めることも傷むこともなく、取り出してすぐにホカホカの料理を味わえるのだ。
お陰で半額商品のストックも十分に確保でき、同時に食費も節約できてはいるが、いかんせん同じ店で繰り返しているとバリエーション不足とダブりが生じ飽きが来てしまう。
なので近頃の井手は狩り場を変えて他の店でも半額惣菜を探し求めるようになっていた。
商品棚に残された半額品を根こそぎ買い物カゴへと詰め込む保冷リュックを背負った井手の存在は、既に他の店でもフリーザーとして名を馳せていた……。
「よし!今日もしっかり食べてるな」
そう言って井手がアイテムボックスの中で確認しているのは大きめサイズの岡持ちだ。
弁当の絵が貼られた収納ケースはこれとは別に用意されているが、普段遣いを考慮して中身が見やすく取り出しやすいこの岡持ちを弁当収納用に導入したのだ。
岡持ちの蓋を開けた井手は食べかけの弁当容器を取り出すと、中に残ったおかずをメモ帳アプリに記録した。
メモは少女の食の好みを把握するためのもので、少女が食事を残すことについては最初から織り込み済みである。
食べ物の好き嫌いは当然あるとして、そもそもこれらの弁当は大人用の分量なのだから残すのは仕方ない。
少女が食べ切れる分だけ用意するよりも、むしろメシなら食べ切れないくらい沢山あるぞと示してあげるほうが安心感が得られるであろう。
なので井手は専用のゴミ箱を用意しゴミはそこへ捨てるようにと写真で伝えていたのだが、少女は食べ残したものをゴミとして一緒に捨てるようなことはしなかった。
弁当の蓋を皿代わりにして、残したおかずはそこにまとめてくれていたのだ。
飽食の時代を生きる日本代表の井手としても、少女のこの立派な心がけは見習いたいところである。
なのでお残しについてはもったいない精神からこのあと井手が美味しくいただいているのでフードロスについてはノープロブレムだ。
井手は岡持ちの中から食べ終えた弁当容器を取り出すと、弁当のストックからまだ少女が食べたことのない商品を補充するなどの棚出し作業を行った。
もしここで井手が仕事帰りで疲れておらず、弁当の補充の途中で水や食糧が大量に消費されていたことに気付いていたならば……。
あるいは少女が普段からお手伝いのつもりで食器を自分で洗ったり、プラ容器を洗って再利用したりしていなければ、未来は少し変わっていたのかもしれない。
井手はこの時、少女が誰かと食事していたという重大な事実を見落としていた――
「おっ。今日も描いてくれたんだな」
井手がアイテムボックス内の連絡用の収納ケースを覗いてみると、いつも楽しみにしている少女からの絵のプレゼントが入っていた。
どれ見てみるかとアイテムボックスからケースを持ち出そうとすると、光の境界を越えると同時にケースの中で何かがコロコロ転がるような音がした。
「何だこれ……?試験管……?」
ケースを開ければ音の正体は赤い液体の入った試験管であった。
シンプルな見た目ながら造りに歪さなどはなく、品質は地球で見かけるものとなんら遜色なさそうである。
「なんか血みたいだな……」
病院嫌いの井手は一瞬健康診断での血液検査を思い出した。
当然注射も嫌いなので採血の時は必ず顔をそむけながら処置を受けるようにしているが、赤い液体で満たされた試験管はその時の採血管を想起させる。
しかし吸血鬼でもあるまいし、少女がお礼の品で血なんて送ってくるはずもないだろう。
これの正体はなんとなく予想しつつ一緒に送られてきた一枚の絵を見てみると、普段少女が描いている絵とは様子が違っていた。
最初は手に怪我をした泣き顔の少女。
次に怪我をした手のアップと、試験管から零れ落ちる一滴の赤い雫。
最後は綺麗になった手のアップと、ニパッと笑う笑顔の少女――
それらが一枚に描かれ、各絵の間には矢印で繋がりが示されている。
井手もマニュアル作成時にこのような方法で少女に意図を伝えることがあるのでそれを参考にしたのであろう。
恐らくこの絵は少女が説明書のつもりで描いたものだ。
「試してみるか」
指に貼ってあった絆創膏を剥がし、井手はさっそく人体実験を試みようとする。
指の傷はマニュアル作りのさいちゅうにうっかり紙で切ってできたものである。
井手は少女のことを信じ切っていたので、今回は幸いにも虫や猫の出番はなかった。
試験管をそっと傾け、傷の上に中身を一滴ポタリと垂らす――
すると指先から蛍のよりも淡く小さな光がいくつか舞い、その光が消えると傷は跡形もなく消え去っていた。
「おおっ!すげえ!ほんとにポーションだよ!急にファンタジー感が増したな!」
マジカルでファンタジーな光景を見せられた井手は大興奮。
既にアイテムボックスという超常現象が身近なものとはなっていたが、やはりファンタジー作品でド定番のポーションという回復アイテムを目の当たりにすればテンションも上がろうというもの。
過去にゲーム会社がポーション瓶をデザインしたドリンクを期間限定で販売したこともあったが、その時もかなりの話題性があり井手も当時は買っていたのだ。
傷の治りまで体験できたとあれば尚更嬉しくもなるだろう。
しかしそれと同時に別のことも気になった。
「あの子無理してないかな……」
井手は別に見返りが欲しくてあれこれ世話を焼いているわけではない。
わらしべ長者的な打算や、マンガの主人公のような特別な力を得たいわけでもない。
単純に困っている子供が目の前にいて、何の取り柄もない自分でも力になれそうだったからそうしただけだ。
加えてそれまで慣れ親しんできた様々な物語の中の登場人物と交流できているような楽しさもあって好きでやっている。
そのお礼というのであれば、これまで通り花や葉っぱや絵を送ってくれるだけでも十分だった。
「まあ、一本だけありがたく受け取っとくか」
こんな貴重なものは受け取れないと贈り物を突き返してしまえば、あの子はきっと悲しむだろう。
かと言って今後も仕送りとばかりに何本も送られてくるようであれば負担になっていないか心配になる。
「もし二本目が届いた時は、前の一本がまだ残ってるって写真で伝えて送り返せば角も立たないよな?試験管なら写真がサーバーに残っててもただの試験管にしか見えないし……。よし、それでいこう」
今後の方針を決めた井手であったが、ふと別の疑問が浮かんできた。
「いや待て。そもそもこんなものどこで手に入れたんだ?」
肉や山菜なら森で採ったり狩ったりすれば手に入るが、ポーションなんて代物はそこらの木の実と一緒にぶら下がっていたりはしない。
アイテムボックスの中にもこんな目立つものは入っていなかった。
ひょっとしてあの毛皮の包みの中に元々入っていたのだろうか?
それとも少女にかつて太ももで人気を博した錬金術士のような、秘められた才能でもあったのだろうか?
「まあ順当に考えてドロップアイテムだな」
仕事で疲れ切った井手の脳みそは、その的外れな答えを導き出すことでそれ以上脳のリソースを使うことを拒絶した。
バットやフライパンで武装して宇宙人を相手に世界を救った少年少女の物語もあるのだ。
ひのきの棒より強いナイフがあるなら大ネズミやスライムくらいは倒せもするだろう。
「待てよ?異世界人が地球の食べ物を食べてパワーアップするなんてのもお約束だよな?ピスタチオとかカシューナッツとか見た目からして力とか身の守りとかが上がりそうだし……。もしかしておやつに送ってたミックスナッツが効いたのか?まさかムキムキになってたりしないよな……?」
心配になった井手は壁に飾られた少女の絵を見比べた。
段々お絵描きが上手くなっているのが分かるが、それと比例するように絵の中の少女が日に日にマッチョに仕上がっていくといった変化は一応この絵からは確認できなかった。
「考えすぎか。それよりどこに仕舞っとくかな……」
井手は手の中のポーションを見ながら考える。
保管場所について一番いいのはアイテムボックスの中であろうが、もし少女がそれに気付いていらない物扱いしたと誤解を与えてしまっては大変だ。
「ん?このサイズ感ってもしかして……」
そう呟きながら井手がベルトに着けたポーチに手を伸ばす。
ポーチは彼が普段からスマートフォンを収納するのに使っているものだ。
井手は過去にスクーターを走らせている時にズボンのポケットからスマートフォンを落としてしまい、液晶画面をバキバキに割った苦い教訓からポーチを使うようにしていた。
「やっぱ思った通りだ。シンデレラフィットじゃん。お前がこいつの鞘だったんだな!」
ポーションはポーチのジッパーを開けた中にあるペンループにすっぽりと収まった。
購入当時はペン差しならポーチの外側に付けとけよと思っていたことも忘れて井手は手のひらを返し、改めてその機能美の高さを称賛した。
――あれ?
ふと我に返ったように井手の手が一瞬動きを止める。
なんだか以前にもこれと同じ経験をしたような気がする。
「デジャヴか?」
まあ誰しもたまにあることだと井手はすぐに思考を切り替え、件のポーションをポーチの中から取り出した。
「とりあえず冷蔵庫の中に仕舞っとくか。外に持ち出してうっかり誰かに見つかってもヤバいし」
冷蔵庫に仕舞う理由は、あるのか分からない消費期限もさることながら、こんな魔法のような不思議な代物が存在していると世間に知られれば確実に大騒ぎになるからである。
毎日を静かに過ごしたい小市民な井手からすれば、そのような面倒事は避けたいところだ。
そんなことを思いながら、井手はこの時確かに冷蔵庫の中へとポーションを仕舞った。
* * *
「失敗したなー。もっと早く知ってたら節約できたのに……」
少女からポーションを受け取った翌朝に、愛車のスクーターを走らせながら井手はそう独りごちた。
失敗したと語る理由は昨夜見た記事が原因だ。
たまたまスマートフォンで目にした地元関連の記事にアウトレットモールの特売セール情報が掲載されていたのだ。
店の場所は隣県ではあるものの、峠をひとつ越えればすぐのわりと近めの場所だったのだが、井手はそれまでそのアウトレットモールの存在を知らなかった。
しかもそのモールにはアウトドア関連の店舗も出店していたのだ。
中古や型落ち品なら井手の財布は軽症で済んだはずであるし、専門店ならもっと便利なグッズも並んでいたであろう。
そこでさっそく掘り出し物を探しに行こうと、井手は連休初日を利用してスマートフォンのナビアプリを頼りに店へと向かっていたわけである。
「向こうでなに買おっかなー。もっと便利な道具とかがあればいいんだけど」
そして井手がそんなことを考えながらスクーターを走らせている時、それは起きた――
『るルるルート再検索しています。新しいルートに変更されました』
「ん……?」
一瞬だけバグったようなその音声に、井手は路肩で一時停車した。
今しがた聞こえた無機質な機械音声はナビアプリによるものだ。
井手は片耳に着けた骨伝導イヤホンで音声指示を頼りにモールを目指していたのだが、道を間違えてもいないのにどういうわけかルート変更の通知が入った。
ポーチからスマートフォンを取り出し、井手はナビアプリを確認する。
ルートは最初におすすめされていたものではなく、ここより少し先にある旧道を通るルートに変更されていた。
旧道はヘアピンカーブが連続したつづら折りの峠道だ。
地図上での単純な直線距離なら確かに目的地まで最短ではあるが、一直線にトンネルを掘った新道がある今、わざわざ不便な旧道を利用する者は限られていた。
「事故で通行止めでもしてんのかな……?まあたまにはいいか」
Uターンして二度手間を食らうほうが面倒だと思った井手は、素直にナビの指示に従い旧道ルートを進むことにした。
* * *
旧道は思った通り、他に人気はない。
ガードレール下に生えた雑草達は我が物顔で伸び放題。
その一部は車道外側線を越えて車道を侵食せしめんと健気に頑張っていた。
井手はそんな道端の草を時おり避けつつ坂道をのんびり上っていると、突如ガシャンという衝突音がどこかから聴こえ、それは上から降ってきた。
人だ――。前方にある法面保護のコンクリートブロックの急斜面を誰かが転がり落ちてきた。
男性と思しきその人物は地面へと無惨に叩きつけられ、ひしゃげたロードバイクが激しい音を立てて路面を跳ねた。
「はっ!?えっ!?」
井手は咄嗟に急ブレーキをかける。
あまりにも突然の出来事に狼狽したがすぐに路肩で降車し、転落した負傷者の元へ救護に駆け寄ろうとする。
それと同時に、斜面の上から猛スピードで走り去る車の音が聴こえてきた。
恐らくは轢き逃げだ。
だが逃げた車のことよりも、目の前の男性の救護のほうが先決だった。
「そっ、そうだ救急車!救急車を呼ばないと!」
目の前で事故現場に遭遇するなど初めての出来事ではあったが、パニックを起こしかけながらも緊急通報の単語が頭をよぎる。
急いで駆け寄りながらスマートフォンを取り出そうと腰のポーチを開いたところで、指先がそれに触れて井手の体は恐怖に凍りついた。
なんでこれがここにある――
ポーチの中にはスマートフォンと並ぶ形で、あのポーションの入った試験管がペンループに挿さっていた……。
ありえない。
あの時確かに冷蔵庫に入れた。
途中でナビを見た時もこんなものは入ってなかった。
なのにどうしてあのポーションがここに入っているんだ……!?
奇跡の象徴のように思っていたはずの血のように赤い薬が、今はまるで自分を追いかけてきた呪いのアイテムのようにも見え、井手は心の底から恐怖した――
「うぅ……」
負傷者のうめき声で井手はハッと我に返る。
意識を切り替え、彼はすぐさま負傷者の下へと駆け寄った。
しかし彼の姿を近くで見た井手は、スマートフォンを取り出そうとしていたその手を止めた。
間に合わない――
老人と思われるその男性は瀕死の重傷を負っていた。
手足はあらぬ方向へと折れ曲がり、折れた骨が皮膚を突き破って外へと飛び出している。
役目を終えたヘルメットは割れて地面に転がっていたが、頭部を完全に守るには至らなかったのか、全身血まみれで頭からも出血が見られた。
まだ息があるのが不思議なくらいだ。
路面の上をおびただしい量の血が流れ、虚ろな目でこちらを見つめる男性の瞳は今にも意識を手放しかけている。
井手は今まさに、一人の人間の命が失われようとしている瞬間を目の当たりにしていた……。
開いたポーチの中の赤い試験管に目が留まる。
今の自分なら彼を救える。
このポーションを使えば完治とまではいかなくとも、救急車が到着するまで命を繋ぎ止めるくらいはできるはずだ。
だがそれは同時にポーションの存在を世間に知られるリスクを伴うことにも繋がる。
井手は一人の老人の命と自身の保身を天秤に掛けたが、迷った時間はほんの僅かだった。
「ええいもう知るか!」
井手はコルクの栓を抜くと、中身を全て老人の体へぶっかける。
するとたちまち瀕死の老人の体を若草色の淡い光が包み込み、裂傷はみるみるうちに塞がり傷が急速に癒え始めた。
「やべっ!骨のこと忘れてた!」
開放骨折したまま傷が治るのではと焦る井手であったが、折れた手足は狂ったマリオネットのように勝手に動き、老人の体を元通りの姿に修復させているようだ。
その光景は神々しいというよりも、間近で見ていて正直気持ち悪かった。
ポーションによる荒療治は数秒足らずで完了し、完全に意識を取り戻した老人の驚く様子が瞳を通して伝わってきた。
老人は何かを言おうと口を開いたが、口内に溜まっていた血でむせ返り上手く言葉を発せないようだ。
井手は老人が咳き込む様子で我に返ると、ポーションの空き瓶をポーチに仕舞いながらメタル系モンスターのような素早さでそそくさとその場を後にする。
そしてモールに向けてスクーターで走り去るなか、先ほど目にした奇跡のような光景を思い返しながらテンション高めに独りごちた。
「やっぱスゲーなポーションって!もしかしてしょうゆ豆の要領で仙豆とかも作れんのかな!」
* * *
老人は地面に倒れたまま首だけを動かし、スクーターで走り去る井手の姿をジッと目で追っていた。
そして視界からその姿が消えてから、ようやく恐る恐るといった様子で上体を起こす。
体を見ればあちこち血だらけ。
着ていたサイクルジャージもボロボロの散々なありさまではあったが、見たところ外傷はなく、先ほどまでの経験したことのない全身の痛みは嘘のように消え去っていた。
血まみれの手の指をゆっくりと何度も握って具合を確かめてみるが、しびれもなく感覚ははっきりとしており、体の動きに何一つ支障はない。
老人は破れた箇所から左袖を引き裂くと、腕の内側に今しがた目にしたばかりのナンバープレートの番号を、まだ乾いていない自身の血で書き留める。
そして血文字の番号を確認するとひとつ頷き、慎重な動作でゆっくりと立ち上がった。
自分の体は本当に無事なのかと体の各所に触れて何度も確かめるが、欠損などはどこにも見られず、試しに歩けばその足取りは事故以前よりも軽やかだった。
徐々にはっきりとした歩調で大破したロードバイクの下へと向かいながら、ポケットからスマートフォンを取り出す。
画面はひび割れてはいるが、どうやら使用に問題はないようだ。
彼は道の脇にロードバイクをどかすと車体のフレームに取り付けられている小さなサイクルバッグを開き、中から取り出したフェイスシートで顔の血を拭いながらどこかへ電話を掛け始める。
通話相手は2コールで繋がった。
『ご用でしょうか?』
スピーカーから聴こえてきたのは落ち着いた若い女性の声だ。
「休日にすまんな。今から言う番号を控えてくれ」
地べたに腰を下ろした老人が開口一番に血文字の番号を告げると、通話相手は復唱しながらメモを取った。
『……何かトラブルでもございましたか?』
ナンバープレートと分かるその番号を聞かされ、女性がいぶかしむ様子が声で伝わる。
通話相手の女性は真っ先に当て逃げ事故の可能性を疑った。
「サイクリング中にドジを踏んでしまってな。ロードバイクが壊れてしまったので迎えを頼みたい。ああ、通報の必要はない。怪我もないから心配せんでいい。かすり傷ひとつ負ってはおらん」
老人は使い物にならなくなったロードバイクを眺め、笑みを浮かべてそう言った。
いくつか腑に落ちない点はあるものの、その声の様子が妙に上機嫌だったこともあって、女性は深く追求はせず一応事件性はないものと判断した。
『タクシーとロードサービスの手配でよろしいですか?』
「いや、君に直接迎えを頼みたい。あまり大っぴらにはしたくないのでな」
『……内密にとなりますと、スカラベはどうなさるのですか?』
女性の指摘を受けて老人は辺りを見回すが、護衛として追従させていたはずの自律型ロボットの姿が見えないことに今更ながら思い至った。
「……妙だな、そういえば見当たらん。まあ返って好都合と言えるか……。それより、場所は旧道だ。それとジャージでも何でもいい。間に合せでいいので替えの服を頼む。」
『承知いたしました。二十分ほどでお迎えに上がります』
「休みを潰してしまってすまんな。必ず埋め合わせはする」
老人は女性との通話を終えると、すぐにまた別の相手へと電話を掛け始めた――
* * *
そして事故から数時間後――
店での買い物を済ませた井手は、念のため帰りは別のルートを選んで上機嫌で帰路についていた。
あの老人の件については店を出る前にネットニュースで調べた限り、一切騒ぎにはなっていない。
まあ相手はジイさんだったし、たぶんボケか白昼夢で与太話として片付けられたんだろうと井手はそれ以上悩むことはやめにした。
過ぎたことで気を揉んでも仕方ない。
それに道中で思わぬハプニングはあったものの、今日は何かとツイていたのだ。
老人を助けた後は逃げるようにその場を走り去った井手であったが、急いで逃げたこともあってかギリギリ雨に濡れずに済んでいた。
予報では降水確率ゼロパーセントの雲ひとつない快晴だったが、店内に入ったタイミングで急な鉄砲雨に見舞われたのだ。
少しでも遅れていればレインコートを取り出す間もなく濡れ鼠になっていたことだろう。
店でもお目当ての品や掘り出し物を半額以下で購入できて大満足である。
自分で使うわけでもないのに眺めているだけでも面白かったため、予定よりも買い物の時間は長引いてはしまったが、十分に満足のいく成果が得られたうえに人助けもできた井手は、そうしてご機嫌なまま帰路についた。
そうして何事もなくアパートに到着した井手は、建物脇の駐輪場にスクーターを停めると、保冷リュックを片手に自宅までの短い距離を歩いていた。
その他の荷物は有料の配送サービスを利用したので後ほど届けられる予定だ。
自宅までのわずかな距離を歩く間、井手の視線はあるものへと向けられていた。
アパートの前に黒塗りの高級車が停まっていたのだ。
井手は車にあまり興味がないので車種については詳しくないが、それがたまたま親の顔より見た車だったので歩きながらも気になっていた。
まあ追突したわけでもないし関係ないかとすぐに興味は失せたのだが、ちょうどそのタイミングで運転席からドライバーが降りる姿が目に入った。
ドライバーは二十代と思しき若い女性で、黒のタイトスカートにジャケットを合わせたいかにもOL風な出で立ちだった。
ジロジロ見るのも失礼かと井手はすぐに視線を逸らして歩みを進めるが、その女性は車から降りるやなぜか井手のほうへと向かって来た。
「失礼ですが、井手亮吾様でいらっしゃいますか?」
「えっ!?あっ、ハイ……」
女性は井手の横に立つと突然そのように声を掛けてきた。
井手は驚きながらも女性のほうへと向き直る。
長い黒髪の美人だが、まったく見覚えはない。
一瞬保険か何かのセールスかとも思ったが、それにしては愛想笑いのひとつもない能面のような無表情だった。
「はじめまして。わたくし、秘書の伊口美帆と申します。急なお願いで心苦しいのですが、少々お時間をいただけますでしょうか。内密にご相談したいことがございます。あちらのお車にてお席をご用意しておりますので、これよりご案内してもよろしいでしょうか?」
「え?いやあの」
「ではお車までご案内いたします」
「あっ、ハイ……」
日頃からセールスには注意しているつもりの井手であったが、美人の圧に気圧された彼は言われるがままに付いて行ってしまった。
女性は車の後部ドアを開けると「どうぞお入りくださいませ」と乗車を促した。
「あ、どうも」
礼を言い保冷リュックを抱えたまま井手が後部座席へ乗り込むと、女性は静かにドアを閉めてしまう。
隣の座席にはスーツ姿の見知らぬ老人が座っていた。
「やあ、今朝は世話になった」
ロマンスグレーの髪をオールバックに撫でつけた口ひげ姿のその顔にどことなく見覚えはあるものの、井手は老人の顔を見ても最初は誰だか分からなかった。
だが気さくな感じで話しかけてきたその一言でようやく思い至る。
ポーションをぶっかけたあの老人だ。
あの時は顔中血まみれであったため、井手はすぐには気付けずにいた。
今朝方ボロ雑巾のような有様でそのまま路上に置き去りにしたはずの老人が、数時間後にはパリッとしたスーツを決め込んで、何もなかったように満面の笑みをたたえて黒塗りの高級車の中でくつろいでいるのだ。
しかも相手は井手が買い物をしていたほんの数時間の間に、こちらの住所も氏名も突き止めている。
井手が自ら名乗ったわけでも、身分証を落としたわけでもないにも関わらずだ。
身元が完全に割れている――
井手はここに至ってようやく相手の老人に警戒心を抱いた。
「怖がらせてしまったようですまない。私はこういう者だ」
井手の表情がこわばり沈黙する様子を見た老人は、名乗る代わりに懐から名刺を取り出し井手へと差し出した。
「あっ、どうも」
素直に名刺を受け取った井手はそこに書かれた文字をまじまじと眺め、すいませんちょっと失礼しますと一言告げると、スマートフォンを取り出し名刺を見ながら何やら検索し始める。
そして検索結果に表示された画像の人物と、隣に座る老人の顔を何度も交互に見比べていた。
「実物のほうがイケてるだろう?」
日本が誇る巨大企業――佐方重工。
その創業者にして現会長である佐方宗一は、いたずらっぽい笑みを浮かべながらそう言った。




