第九話:親=傘
レイラちゃんとの勉強会が終わり、部屋に一人になってからも、僕はしばらく机の前に座ったままだった。
机の上には、例の黒いノートが置かれている。
今日の話し合いで決まったことは、たった一つ。
ステータスオープンを採用しない。
それだけだった。
なのに、なぜか僕の頭の中に残っていたのは、ダンジョンのことではなかった。
レイラちゃんのこと。
そして、神様のことだった。
「……なんで、あんなに真剣なんだろう」
思わず独り言が漏れる。
レイラちゃんは、最初に会った時こそ面倒そうな顔をしていたし、口もかなり悪い。
今日だって、漫画の設定に対してずっとグチグチ文句を言っていた。
けれど、それでもちゃんと考えてくれている。
僕が言い出したダンジョン出現計画を、自分には関係ないこととして流すわけでもなく、本気で一緒に考えてくれていた。
それだけじゃない。
神様もそうだ。
『学校にはちゃんと行きなよ』
『ダンジョンのことは急がなくていいよ』
『青春は今しかないんだから』
世界規模の計画を任せている相手にする言葉としては、妙に優しすぎる。
普通なら逆じゃないだろうか。
世界を管理するような上位存在なら、人間一人の進路なんてどうでもよくてもおかしくない。
それなのに、僕が大学へ行くかどうかまで気にしている。
正直に言えば――少し不気味だった。
レイラちゃんは以前、
『ご主人様にとって、人間は子供みたいなものよ』
と言っていた。
でも、僕は世界中に何十億人もいる人間のうちの一人に過ぎない。
その中の一人に、ここまで優しくする理由なんてあるのだろうか。
物語の中では、神様という存在は何か裏で企んでいたり、人間を駒として扱っていたりすることも多い。
もしかすると僕も、何かに利用されているだけなんじゃないか。
考えすぎなのは分かっている。
今のところ、神様が僕に何か悪いことをしたわけでもない。
むしろ助けられているくらいだ。
それでも、一度気になってしまうと頭から離れなかった。
「……聞いてみるか」
せっかく、何でも聞いていいと言われているのだ。
僕はノートを開き、ペンを取った。
『なんで、自分のことを優先していいよ、とか、この計画はゆっくり進めていけばいいよ、とか、僕みたいな存在にそこまで優しくするんですか?』
書き終えて、しばらく待つ。
数秒。
何も起きない。
さらに少し待ったところで、白いページの上に赤い文字が浮かび上がった。
『ボクは人間たちのことを、自分の子供みたいなものだと思っているからね』
続けて、文字が増えていく。
『親が自分の子供に優しくするのに、いちいち理由なんていらないでしょ?』
『それに、元々この計画を考える義務は君にはなかったのに、今は考えてもらってるからね。他のことを優先してもらうのは当然だよ』
「……義務はなかった?」
少し引っかかった。
僕はそのまま書き返す。
『元々この計画を考える義務はなかったって、どういうことですか? ダンジョンをこの世界に出現させるって言い出したのは僕ですよ? 言い出しっぺが考えるのは当然じゃないんですか?』
返事はすぐに来た。
『でも、この件って元を辿れば、ボクが悪ふざけでこのノートを置いたせいで始まったことでしょ?』
『ボクがノートを置かなかったら、君は普通の高校生として生活してたはずだよ』
『だから本来なら、世界規模の計画なんて考える必要はなかったんだ』
言われてみると、確かにそうだった。
僕がノートを拾わなければ。
地震を消そうとしなければ。
魂やエネルギーの条件を知ることもなく。
ダンジョンを作ろうと考えることもなかった。
『それはそうですけど……』
それでも、まだ少し納得できない部分がある。
『異世界の危機と、普通の高校生の進路だったら、異世界の方を優先して考えるのが普通じゃないですか?』
少し間が空く。
そして、赤い文字が返ってきた。
『おかしくないよ』
『親が、よその子供より自分の子供を気にするのは普通でしょ?』
『それに前にも言ったけど、向こうの世界は今すぐ滅びるような状況じゃないから心配しなくて大丈夫』
『管理者同士は何十年単位で物事を考えるからね。君が一年や二年ゆっくり考えたところで、大した差じゃないよ』
「一年や二年が大した差じゃないのか……」
さすが神様。
時間感覚が人間とは違いすぎる。
『そういうものなんですかね?』
『うん。そういうものだよ』
そう返ってきたところで、僕はまた一つ疑問を覚えた。
神様は人間を自分の子供のようなものだと言う。
でも、人間は僕一人じゃない。
世界中に何十億人といる。
『でも、世界には何十億人も人間がいるんですよね?』
『その全員に、僕と同じように接してるんですか?』
もし本当にそうなら、神様は毎日とんでもない人数の相手をしていることになる。
さすがに想像できない。
すると、少し間を置いて赤い文字が現れた。
『いや? 別に全員に同じように接してるわけじゃないよ』
「……え?」
思わず声が漏れた。
『だって、人間だって誰かを依怙贔屓することくらいあるでしょ?』
『家族だったり、友達だったり、恋人だったり』
『同じ人間だからって、全員を完全に同じように大切にするわけじゃないよね?』
確かに、それはそうだ。
世界中の人間を、まったく同じように好きになれと言われても無理がある。
『だから、その親みたいな存在であるボクだって依怙贔屓くらいするよ』
『人間はみんな大事だけど、その中でも特に気になる子とか、つい構いたくなる子くらいいるさ』
『それって神様としてどうなんですか?』
『神様だからって公平じゃなきゃいけないなんて、誰が決めたの?』
「……それは」
言われてみれば、確かに僕が勝手に神様へ抱いていたイメージでしかない。
『もちろん、世界そのものを管理する時は、なるべく公平にするよ』
『特定の人間だけ都合よく世界の法則を捻じ曲げたりしたら、管理者として問題だからね』
『でも、誰と話したいとか、誰を少し気にかけたいとか、そのくらいはボクの自由でしょ?』
『それは……そうかもしれません』
『でしょ?』
そこで一度、文字が途切れた。
そして、続けて。
『それに君、結構面白いしね』
『そうですか?』
『うん。普通、あんなノートを拾って巨大地震を消そうとして、条件を出されたら「じゃあダンジョン作ろう」なんて発想しないからね』
『ボクとしては、つい続きが気になっちゃうんだよ』
つまり僕は、神様から少し気に入られているらしい。
嬉しいような、何とも言えないような。
『依怙贔屓されてるってことですか?』
『うん』
即答だった。
『かなり?』
『そこそこ』
『そこは否定しないんですね』
『嘘ついても仕方ないでしょ?』
どうやら神様という存在は、僕が思っていたよりずっと人間臭いらしい。
『君たち人間は、分からないものほど必要以上に大きく見えるものだからね』
『君も、ボクのことを少し過大評価しすぎてると思う』
『神様だからって、何でも分かるわけじゃないし、何でも出来るわけでもないよ』
その言葉は、少し意外だった。
神様本人が、神様を過大評価するなと言っている。
『人間はボクの子供みたいなものだからね』
『子は親に似るって言うでしょ?』
『君たちが嬉しいと思うことは、ボクも嬉しいと思うし、悲しいと思うことは、ボクだって悲しいと思う』
『だから神様だからって構えすぎないで、もう少し普通に親みたいなものだと思って接してくれたらいいよ』
親。
その言葉を見て、僕の手が少し止まった。
僕の両親は、一年前に事故で亡くなっている。
それから一人で暮らしてきた。
もちろん、両親と過ごした記憶が消えたわけじゃない。
でも、今となっては『親がいる生活』というものが、少し遠いものになっていた。
僕は少し迷ったあと、ペンを動かす。
『僕、一年くらい前に親を亡くしていて、今は親っていう存在がどういうものなのか、あまりピンと来ないんですけど』
『神様にとって親って、どういうものなんですか?』
今度は、少し長めの間があった。
神様なりに言葉を選んでいるのかもしれない。
そして、ゆっくりと赤い文字が現れた。
『親っていうのは、傘みたいなものかな』
「傘?」
思わず声に出してしまう。
『晴れている時は、別になくても困らない』
『むしろ持ち歩くのが邪魔だったり、鬱陶しいと思うこともある』
『でも、雨が降った時には、そこにあるだけですごく助かる』
『ずっと子供の代わりに歩くものじゃない』
『必要な時に、雨に濡れないよう守ってあげるもの』
『ボクは、そんな感じだと思ってるよ』
しばらく、その文章を眺めた。
傘。
確かに、晴れている日に傘のありがたみなんて考えない。
でも、大雨の中で傘がなかったら困る。
普段は少し邪魔でも、必要な時には頼りになる存在。
「……なるほど」
完全に理解できたかは分からない。
それでも、神様がどういう気持ちで人間を見ているのかは、少しだけ分かった気がした。
『何となく分かりました』
そう書くと、すぐに返事が来た。
『そう? ならよかった』
『あとさ』
そこで少し間を置いて、新しい文字が浮かぶ。
『子供が親にずっと敬語使ってるのって、なんか変じゃない?』
『そうですね。』
『ボクが堅苦しいの嫌いなのは、そういうところもあるんだよ』
『敬語だと、親子の会話っぽくないでしょ?』
『だからこれから、ボク相手に敬語は禁止で頼むよ』
神様からまさかの敬語禁止令が出た。
少し迷ったものの、本人がそう言うなら仕方ない。
『分かった。次からはそうする』
『うん、そんな感じ』
赤い文字が、どこか満足そうに見えた。
『また気軽にノート使ってくれていいからね』
『じゃあね』
そこで、赤い文字は止まった。
僕もペンを置く。
こうして、今日の神様との交換日記は終わった。
神様の言葉を全部鵜呑みにしていいのかは、まだ分からない。
そもそも、人間とはあまりにも違う存在なのだから、僕には理解できない部分だってきっとある。
それでも。
少なくとも今のところ、僕を騙して利用しようとしているようには思えなかった。
それに、神様自身が依怙贔屓しているとあっさり認めるくらいなのだ。
裏で何か企んでいる存在にしては、ずいぶん正直すぎる気もする。
レイラちゃんも、口では文句を言いながら本気で僕に付き合ってくれている。
だったら――。
「……まぁ、信じてみるか」
今はそれでいい。
僕は黒いノートを閉じた。
親は、傘みたいなもの。
その言葉はなぜか、しばらく頭の中に残り続けた。
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