幕間:壁の中の世界
異世界側の視点の話です。
この世界には、魔力が満ちている。
それは人々に魔法を与え、文明を支え、暮らしを豊かにする力だった。
だが同時に――魔物を生み出す力でもある。
世界に満ちる魔力が一定以上に濃くなれば、そこから魔物が生まれる。
小さな獣のようなものから、人間を遥かに上回る巨体を持つものまで、その姿や性質は様々だ。
故に、この世界に生きる者たちは、決して自由に大地を歩くことができなかった。
人々が暮らすのは、遥か昔に女神が築いたと伝えられる巨大な壁の内側。
壁には強力な結界が張られており、魔物はその内側へ侵入することができない。
人々にとって、壁の内側こそが世界だった。
そして、この世界にはそのような巨大な生存圏が四つ存在する。
人間が暮らす帝国。
実力を重んじる獣人たちの国。
精霊を信仰するエルフとドワーフの国。
そして、人間から忌み嫌われる魔族の国。
それぞれの国は、魔物がひしめく広大な壁外によって隔てられている。
そのため、同じ世界に存在しながら、国同士の交流はほとんどなく、それぞれが長い年月をかけて独自の文化を築いてきた。
その四つの国の一つ。
人間たちが暮らす――アルヴェリア帝国。
約二千万もの人間が、巨大な壁の内側で生活する統一国家である。
そして、この帝国の文明を支えているものがあった。
魔石。
魔物の体内から得られる、不思議な結晶だ。
魔石はそのままでは利用することができない。
専門の技師が、専用の設備と道具を使って加工して初めて、魔導灯や暖房、医療、交通、軍事、工業――あらゆるものを動かすエネルギー源として利用できる。
つまり、この帝国にとって魔石は生活そのものだった。
そして、その魔石を壁の外から持ち帰る者たちがいる。
冒険者。
一定期間の訓練を受け、試験を突破し、壁外へ出る資格を与えられた者たちだ。
彼らは魔物を討伐し、その体内から魔石の原石を回収する。
弱い魔物が持つ魔石は小さく、強大な魔物ほど大きな魔石を宿す。
冒険者たちは、それをギルドへ持ち込み、その大きさに応じた金銭を受け取る。
もちろん、すべての冒険者が魔石を売るわけではない。
初めて倒した魔物。
初めての遠征。
仲間と命からがら生還した戦い。
そうした特別な思い出を持つ魔石を、記念として手元に残す者も少なくなかった。
だが、大半の魔石はギルドへ売却される。
そして集められた原石は加工され、利用可能なエネルギーへと変えられた後、帝国各地へ分配されていく。
――本来ならば。
◇
「ですから私は、貴族街への魔石配給量を減らし、その分を市民街へ回すべきだと申し上げているのです」
澄んだ声が、広い会議室へ響いた。
長大な机の両脇には、帝国の重臣や有力貴族たちが並んでいる。
その最奥。
白銀の長髪を背へ流し、白と淡い青紫を基調としたドレスを纏った少女が、まっすぐ前を見据えていた。
アルヴェリア帝国第一皇女――セレスティア・フォン・アルヴェリア。
その慈愛深い振る舞いから、民衆には『聖女』と呼ばれている少女である。
セレスティアは机の上に置かれた資料へ視線を落とした。
「現在、貴族街では一世帯につき、一か月三千ルムもの魔石エネルギーが配給されています」
ルム。
それは、加工された魔石から得られる利用可能なエネルギー量を表す単位だ。
「三千ルムもあれば、一般家庭なら三か月は余裕を持って暮らせます」
セレスティアは一度言葉を切った。
「それに対して、市民街の一区画に配給される量は――わずか千ルムです」
会議室が静まり返る。
「一区画ですよ。一世帯ではありません」
その声は穏やかだった。
だが、そこには明確な怒りが滲んでいた。
「市民街では、魔石を巡る窃盗や暴力事件が増加しています。魔導灯を使える日を巡って住民同士が争い、冬には暖房を使えず体調を崩す者も出ています」
「殿下」
一人の男が口を挟んだ。
豊かな腹を上等な衣服で包んだ、中年の貴族だった。
「それは少々、短絡的ではありませんかな」
「……どういう意味でしょう」
「確かに、市民街への配給量は十分とは言えないでしょう」
男は指を組みながら続ける。
「しかし、貴族街で消費される魔石が、すべて我々の贅沢のために使われているわけではありません」
その言葉に、数人の貴族が頷いた。
「大規模工房。魔導研究施設。軍需産業。交易商会。帝国の発展を支える多くの組織は、我々貴族の資本によって運営されております」
「それは理解しています」
セレスティアはすぐに答えた。
「ですから私は、すべてを市民へ回せとは言っていません」
「では?」
「三千ルムを二千四百ルムに減らすだけでも、多くの魔石を市民街へ回すことができます」
「六百ルムも?」
別の貴族が露骨に眉をひそめる。
「その程度の削減で何が変わると仰るのです?」
「少なくとも、今月を越せる家庭は増えます」
即答だった。
「暖房を使える家が増えます。魔導灯を巡って争う必要がなくなる地域もあるでしょう。診療所へ回せる魔石も増えます」
「しかし、それでは帝国の発展が遅れますぞ」
男が言う。
「技術革新には投資が必要です。今ここで資源を民衆へ薄く配れば、研究も産業も停滞する。そうなれば十年後、二十年後の帝国は他国に遅れを取るでしょう」
セレスティアはその言葉を黙って聞いた。
彼らの言っていることが、すべて間違っているわけではない。
それは彼女自身も理解している。
帝国を発展させるには、研究も工業も必要だ。
資本を集中させた方が、効率よく物事が進む場面もある。
だからこそ、話は簡単ではなかった。
「……私は、発展を否定しているわけではありません」
セレスティアは静かに言った。
「ですが、その十年を生き延びられない民がいると申し上げているのです」
「それは――」
「十年後に帝国が豊かになったとして、その時までに死んでしまった者たちへ、何と説明するおつもりですか?」
返事はなかった。
会議室に、重い沈黙が落ちる。
すると。
「殿下は、少々民草を買い被っておられるのでは?」
別の貴族が、鼻で笑うように言った。
セレスティアが視線を向ける。
「……どういう意味ですか?」
「市民というものは、案外単純なものですよ」
男は薄く笑った。
「魔石の欠片でも与えておけば、『皇室の慈悲だ』『ありがたい』と勝手に喜ぶものです」
一瞬。
会議室の空気が凍った。
「……今、何と仰いました?」
セレスティアの声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
男も一瞬だけ表情を固くする。
だが、すぐに取り繕うように笑った。
「いえ、ですから――」
「その『欠片』を持ち帰るために、冒険者たちは壁の外で命を懸けているのですよ」
セレスティアは遮った。
「昨日も三名の冒険者が帰還しませんでした」
「……」
「先月は十九名。その前の月は二十四名」
淡々と数字を並べる。
「彼らが命を懸けて持ち帰った魔石を、壁の内側で安全に暮らす者たちが当然のように独占し、その家族が暮らす市民街には十分な量すら配られない」
セレスティアは男をまっすぐ見つめた。
「それを、あなたは当然だと仰るのですか?」
「……私は、そういう意味で申し上げたのでは」
「では、どういう意味だったのでしょう」
男は答えられなかった。
周囲の貴族たちも、誰一人として助け船を出さない。
第一皇女セレスティア。
普段は穏やかで、民衆にも笑顔を絶やさない少女。
しかし一度、民の生活に関わることとなれば、相手がどれほど有力な貴族であろうと一歩も引かなかった。
だからこそ、民衆は彼女を慕う。
そして同時に――貴族たちは彼女を嫌う。
現在、アルヴェリア帝国には大きく二つの政治派閥が存在していた。
一つは、セレスティアを中心とする民政派。
俗に、庶民派と呼ばれる者たち。
帝国市民全体へ目を向け、社会の安定を維持した上で、緩やかに国を発展させることを望む派閥である。
もう一つは、改革派。
俗に、貴族派と呼ばれていた。
資本と技術を持つ貴族へ優先的に資源を投入し、魔導技術や産業、軍事を急速に発展させることで、帝国そのものを強大にしようとする派閥だ。
理念だけを見れば、どちらにも理はある。
しかし現実には、改革派の中には自らの既得権益を守ることしか考えていない者も少なくなかった。
そして現在。
帝国内でより大きな力を持っているのは、改革派だった。
金。
土地。
工房。
軍。
商会。
魔石加工施設。
帝国を動かす多くのものを、貴族たちが握っている。
一方、セレスティアは民衆から圧倒的な人気を得ていた。
そのため、一部の貴族たちは彼女を危険視している。
民衆人気を利用して皇位を狙っている。
貴族を敵視している。
スラムへ赴くのも、すべて人気取りのため。
そんな根も葉もない噂が流されることも、決して珍しくなかった。
「……殿下のご提案については、再度各部署で試算を行うということでよろしいでしょうか」
宰相が、場を収めるように言った。
セレスティアは僅かに目を伏せる。
「……分かりました」
今ここで押し通せないことは分かっていた。
悔しくないと言えば嘘になる。
それでも、少しずつ変えていくしかない。
「では、次の議題へ」
宰相が資料をめくる。
その瞬間、空気が僅かに変わった。
「続いて――壁外の魔物についてです」
セレスティアが顔を上げた。
軍務卿が立ち上がる。
「今年に入ってから、帝都周辺における魔物の確認数が、前年同期と比較して約一割五分増加しております」
「また……?」
セレスティアの表情が曇る。
「冒険者による討伐数は?」
「増加しております」
「それでも追いついていないのですか?」
「はい」
軍務卿は重々しく頷いた。
「壁周辺の魔物密度は、むしろ上昇傾向にあります」
会議室がざわつく。
「やはり……魔族か」
誰かが呟いた。
それをきっかけに、複数の声が上がる。
「近年の異常な魔物増加。奴らが無関係とは思えません」
「魔族は元々、魔力との親和性が高い種族です」
「何か新しい術でも使っているのでは?」
「壁への攻撃準備という可能性も――」
「待ってください」
セレスティアの声で、議論が止まる。
「魔族が魔物を生み出しているという確かな証拠はあるのですか?」
「それは……」
「古くから、魔物は魔族が生み出したものだと伝えられております」
一人の貴族が答える。
「伝承でしょう?」
セレスティアは言った。
「伝承が必ずしも事実とは限りません」
「しかし殿下、魔族以外に何が原因だと?」
「それが分からないから、調べるべきだと言っているのです」
セレスティアは資料へ目を落とす。
そこには、ここ数年の魔物確認数が記録されていた。
右肩上がり。
多少の上下はありながらも、明らかに増えている。
そして、その傾向は今年に入ってさらに強くなっていた。
「冒険者への負担は?」
「増しております」
軍務卿が答える。
「特に若手の死亡率が上昇しております。また、大型個体の目撃情報も増加しています」
「……そうですか」
セレスティアは小さく息を吐いた。
魔物が増えれば、冒険者の犠牲も増える。
それだけではない。
壁外で活動できる範囲が狭まれば、魔石の回収量も減る。
そうなれば、今でさえ不足している市民街への配給はさらに減る。
治安は悪化し、生活は苦しくなり、冒険者を志す貧しい若者はさらに増える。
そして、その中からまた死者が出る。
悪循環だった。
「壁の結界そのものに異常は?」
「現在のところ確認されておりません」
「では、少なくとも直ちに帝都が危険というわけではないのですね」
「はい。ただし……」
軍務卿は言葉を濁した。
「この傾向が今後も続けば、十年後、二十年後には今と同じ状況を維持できる保証はありません」
誰も言葉を発しなかった。
十年。
二十年。
長いようでいて、国家にとっては決して長くない。
「引き続き調査を」
宰相が言う。
「冒険者ギルドにも情報共有を。大型個体の確認地域については、低位冒険者の立ち入りを制限するよう通達を出してください」
「承知しました」
軍務卿が頭を下げる。
それで会議は終了した。
◇
会議室を出たセレスティアは、長い廊下をゆっくり歩いていた。
窓の外には、帝都の街並みが広がっている。
皇城の周囲には美しく整備された貴族街。
そのさらに向こうに、無数の市民が暮らす市民街。
そして遥か遠く。
霞むほど遠い地平の先に、人間たちの世界を囲む巨大な壁があった。
「……」
セレスティアは足を止める。
あの壁の向こうでは、今この瞬間も冒険者たちが戦っている。
魔石を持ち帰るために。
自分たちの家族を養うために。
帝国を支えるために。
それなのに、彼らが命を懸けて手に入れた魔石は、最も必要としている者たちへ十分に届いていない。
そして、その魔物すら増え続けている。
「魔族……本当に、あなたたちなのでしょうか」
小さく呟く。
もちろん、答えは返ってこない。
なぜ魔物は増えているのか。
なぜ、討伐しても討伐しても数が減らないのか。
その理由を知る者は、少なくとも人間たちの中にはいなかった。
彼女たちは知らない。
魔物を生み出しているのは魔族ではない。
この世界そのものに溢れすぎた魔力こそが、その原因であることを。
そして――。
その問題を解決するための計画が、遥か遠く。
この世界とは異なる場所で、静かに動き始めていることを。
壁の中で生きる人々は、まだ何も知らなかった。




