第二話:検証
黒いノートへ手を伸ばしたものの、次に何を書くべきかは、すぐには思いつかなかった。
窓の外には、昨日まで雨の予報だったとは思えないほど澄み切った青空が広がっている。
だが、天気予報が外れること自体は珍しくない。
これだけで、ノートに本物の力があると決めつけるのは早計だろう。
「とりあえず、記録しておくか」
僕はパソコンを起動し、新しい文書ファイルを作成した。
題名は、そのまま『常識改変ノート検証記録』。
少し仰々しい気もしたが、他にちょうどいい名前も思いつかない。
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検証一
記入内容:明日は一日中、晴れる。
結果:晴天。
判断:天気予報が外れた可能性を否定できないため、証拠としては不十分。
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「まあ、こんな感じでいいか」
文字として整理すると、急に実験らしく見えてきた。
正直なところ、少し楽しくなっている自分がいる。
けれど、調子に乗って適当なことを書き、取り返しのつかない事態になるのは避けたい。
使い方に書かれていたのは、
『これは、書いた内容がそのまま現実になる「常識改変ノート」です。』
『何か試しに書いてみてください。』
たったそれだけだ。
制限も、注意事項も、書いた内容を取り消す方法も記されていない。
だからこそ、検証は慎重に進める必要がある。
僕は文書の下へ、今後確かめるべき項目を書き加えた。
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検証の目的
一、このノートが本当に現実へ干渉する力を持つのか。
二、どの程度の事柄まで変更できるのか。
三、使用した際に、何らかの代償が発生するのか。
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ひとまず、この三つでいいだろう。
最初に確かめるべきなのは、やはりノートの力が本物かどうかだ。
天候のような偶然で説明できるものではなく、通常では起こり得ない変化を発生させる必要がある。
ただし、あまり大きな改変は避けたい。
「何がいいかな……」
机の前で十分ほど考えた末、僕は一階の台所へ向かった。
昼食には少し早い時間だったが、検証用の卵焼きを作ることにした。
卵を割って、めんつゆを加える。
砂糖は一切入れない。
念のため、調理している様子をスマートフォンで撮影しておく。
完成した卵焼きを皿へ載せ、一切れ口へ運んだ。
だしと醤油の味が広がる。
普通においしい。
ただ、僕は卵焼きなら甘い方が好きだ。
皿を持って自室へ戻り、黒いノートを開く。
先ほど書いた文章の下へ、ゆっくりとペンを走らせた。
『今、僕が作った卵焼きは甘くなる。』
書き終えても、見た目に変化はない。
匂いも同じ。
僕はもう一切れ箸でつまみ、慎重に口へ入れた。
「……甘い」
舌へ触れた瞬間、はっきりとした甘さが広がった。
さっきまでは、めんつゆの味しかしなかったはずだ。
念のため、もう一切れ食べてみる。
やはり甘い。
砂糖を入れていない卵焼きが、書いた直後に甘くなった。
僕自身の味覚に突然異常が発生した可能性も、完全には否定できない。
だが、そんな可能性まで疑い始めれば、どんな結果が出ても結論を出せなくなる。
少なくとも、偶然だけで説明するのは難しい。
僕はパソコンへ向き直った。
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検証二
記入内容:今、僕が作った卵焼きは甘くなる。
結果:記入前には存在しなかった甘味を確認。
判断:通常の物理現象では説明が困難。ノートが現実へ干渉した可能性は極めて高い。
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本来なら、同じような実験を何度も繰り返すべきなのだろう。
しかし、検証のために改変を重ね、その過程で何か取り返しのつかないことが起きては意味がない。
ひとまず、このノートには本物の力があるものとして扱う。
危険性を低く見積もるより、高く見積もった方がいい。
次に確かめるべきなのは、ノートがどこまでの事柄へ干渉できるのか。
そして、使用することで何らかの代償が発生するのかだ。
現時点で、僕の体調に変化はない。
頭痛も、吐き気も、強い疲労も感じない。
ただし、代償が僕自身へ現れるとは限らない。
家の中にある物が消える。
電気や水道が異常に消費される。
銀行口座から金銭が引かれる。
あるいは、僕が気づかない場所で何かが失われている可能性もある。
「先に、今の状態を残しておくか」
僕は家の各部屋を回り、家具や家電、棚の中身をスマートフォンで撮影した。
電気、水道、ガスのメーターも記録する。
銀行口座の残高や、電子マネーの履歴も確認した。
一時間近くかけて家の中を調べたが、卵焼きの味以外に明確な変化は見つからなかった。
次は、存在しなかった物を出現させられるか試す。
僕は冷蔵庫を開き、中にオレンジジュースが入っていないことを確認した。
写真も撮る。
その後、自室へ戻ってノートへ書いた。
『冷蔵庫の中に、未開封のオレンジジュースが一本ある。』
書き終え、すぐに一階へ向かう。
冷蔵庫の扉を開いた。
「……ある」
昨日買った牛乳の隣に、一本の紙パックが置かれていた。
間違いなく、先ほどまでは存在しなかった。
手に取って確認する。
実際に店頭で売られている商品のようで、ラベルも、賞味期限も、製造番号も印刷されている。
封も開いていない。
ただし、これが本当に無から作られたとは限らない。
どこか別の場所に存在していた商品が移動してきた可能性もある。
あるいは、過去が改変され、僕が以前購入していたことになったのかもしれない。
レシートや購入履歴を確認したが、この商品を買った記録は見つからなかった。
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検証三
記入内容:冷蔵庫の中に、未開封のオレンジジュースが一本ある。
結果:事前確認では存在しなかった商品が出現。
判断:物質を出現させることは可能。ただし、無から生成されたのか、別の場所から移動したのかは不明。
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続いて、エネルギーへの干渉を試す。
僕のスマートフォンの充電は、現在七十パーセント。
画面を撮影した後、ノートへ書き込む。
『このスマートフォンの充電は百パーセントになっている。』
ペンを置き、スマートフォンを見る。
右上に表示された数字は、百パーセントへ変わっていた。
充電器には接続していない。
発熱もない。
バッテリーの表示だけが変わった可能性を考え、しばらく動画を再生してみたが、充電の減り方にも異常はなかった。
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検証四
記入内容:このスマートフォンの充電は百パーセントになっている。
結果:充電残量が七十パーセントから百パーセントへ変化。
判断:電力の状態へ干渉可能。ただし、追加されたエネルギーの発生源は不明。
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再び、家の中や口座の状態を確認する。
電気の使用量。
銀行口座。
家具や家電。
特に目立った変化はない。
ここまでの検証で、ノートは少なくとも、
・天候
・物質の状態
・物質の出現
・エネルギーの状態
これらへ干渉できることが分かった。
次に思い浮かんだのは、人間への干渉だった。
人の記憶。
感情。
身体。
あるいは、命そのもの。
僕はノートの上へペンを構えた。
『担任は、僕の進路について忘れる。』
そこまで頭に浮かび、手を止める。
「……やめよう」
先生から進路の話をされるのは面倒だ。
だが、その程度の理由で他人の記憶を書き換えていいはずがない。
人間へ使用した際に、どんな影響が出るのかも分からない。
この検証は、さすがに危険すぎる。
僕はペンを置いた。
今日の実験はここまでにしよう。
次の一週間はノートへ何も書かず、遅れて代償が現れないか観察することにした。
パソコンへ、新しい記録を作成する。
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一日目
体調:良好
変化:特になし
備考:本日から一週間、ノートを使用せず経過を観察する。
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「これでいいだろう」
パソコンを閉じ、黒いノートを机の引き出しへしまった。
今日はもう、ノートのことを忘れて普通に過ごそう。
◇
二日目。
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体調:良好
変化:特になし
備考:担任から電話がかかってきた。進路についてだった。おそらくノートとは無関係。
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三日目。
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体調:良好
変化:特になし
備考:カップ焼きそばの湯切りに失敗し、麺の半分をシンクへ落とした。おそらくノートとは無関係。
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四日目。
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体調:良好
変化:特になし
備考:親戚の姉が食料を差し入れに来た。おそらくノートとは無関係。
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五日目。
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体調:良好
変化:特になし
備考:目を覚ましたら午前十一時だった。春休みなので珍しくはない。おそらくノートとは無関係。
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六日目。
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体調:良好
変化:特になし
備考:以前好きだった芸能人の不倫が発覚した。精神的な被害は少しあったが、おそらくノートとは無関係。
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七日目。
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体調:良好
変化:特になし
備考:散歩中に小型犬を見かけた。かわいかったので近づいたら、ものすごい勢いで吠えられた。少し傷ついたが、おそらくノートとは無関係。
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一週間記録した結果、異常らしい異常は何一つ起こらなかった。
ただ春休みを過ごしただけだった。
カップ焼きそばを失い、犬に嫌われ、芸能人への好感度が下がった。
それだけだ。
「本当に、何もないな……」
今後、一か月後や一年後に何かが起きる可能性までは否定できない。
だが、それを確認し終えるまで何もしないというのでは、検証そのものが進まない。
少なくとも、小規模な改変では、すぐに確認できる代償は発生しない。
ひとまず、そう結論づけることにした。
この一週間、僕は次に何を書くべきかを考えていた。
大金を得る。
成績を上げる。
理想の進路を用意する。
思いつくものはいくつもあった。
しかし、ノートを自分の都合だけに使うことには、どうしても抵抗があった。
この力が本物なら、もっと大きなことに使えるのではないか。
そんな考えが、頭から離れなくなっていた。
◇
その日の夜。
夕食を食べながら、何となくテレビをつけた。
『政府の地震調査委員会は本日、南海トラフ巨大地震について、今後三十年以内に発生する確率を改めて発表しました』
画面に、日本列島の地図が映し出される。
太平洋沿岸の広い範囲が赤く塗られていた。
『南海トラフ巨大地震が発生した場合、最大級の想定では、死者数は三十万人を超える可能性があります』
続いて、首都直下地震の被害予測。
倒壊した建物。
大規模な火災。
帰宅困難者で埋め尽くされた道路。
過去の震災映像を交えながら、専門家が淡々と説明している。
『いずれも自然現象そのものを防ぐことはできません。被害を減らすためには、事前の備えが重要です』
防ぐことはできない。
その言葉が、妙に耳へ残った。
自然現象だから。
いつ起こるか分からないから。
人間にはどうにもできないから。
だから、備えるしかない。
それは正しい。
けれど、どれだけ備えても救えない命はある。
僕の両親もそうだった。
朝、いつも通りに家を出た。
事故に遭うつもりなどなかった。
死ぬ覚悟を決めていたわけでもない。
何の選択肢も与えられないまま、突然いなくなった。
三十万人。
あまりにも大きすぎて、現実味のない数字。
けれど、その一人ひとりに家族がいる。
家があり、生活があり、明日の予定がある。
それらが、ある日突然奪われる。
「……このノートなら」
僕はテレビから視線を外し、二階の自室を見上げた。
机の引き出しには、常識改変ノートが入っている。
天気を変えた。
味を変えた。
存在しなかった物を出現させ、スマートフォンの充電まで増やした。
ならば、地震そのものを消すこともできるのではないか。
そう考えた瞬間、胸の奥がざわついた。
これまでとは規模が違う。
卵焼きの味を変えるのとは訳が違う。
日本列島の地殻運動そのものへ干渉することになる。
本来、地震によって放出されるはずだったエネルギーは、どこへ行く。
一つの地震を消したことで、別の場所へ負担が移る可能性はないのか。
僕一人の判断で、世界の自然現象を変えていいのか。
疑問はいくつも浮かんだ。
それでも、もし本当に防げるのなら。
何もしないという選択の方が、正しいのだろうか。
僕は自室へ戻り、机の引き出しを開けた。
黒いノートを取り出す。
『Revision Note』
白い文字を、しばらく見つめる。
「……やってみるしかない」
椅子へ座り、ページを開く。
これまでの記録の下には、まだ広い余白が残されていた。
僕は何度も文章を考え直した。
『地震による被害は発生しない』
それでは地震そのものは起こり、別の形で影響が残るかもしれない。
『すべての地震は発生しない』
地球全体へどんな影響が出るか分からない。
対象は、今ニュースで取り上げられていた二つだけに絞る。
余計な条件は付けない。
ノートへ、簡潔に二行を書いた。
『南海トラフ巨大地震は、今後発生しない。』
『首都直下地震は、今後発生しない。』
ペンを置く。
何も起こらない。
文字が光ることも、ノートが震えることもなかった。
「……駄目なのか?」
そう呟いた直後。
僕が書いた黒い文字の下に、小さな赤い染みが浮かんだ。
「え?」
最初は、ボールペンのインクが滲んだのかと思った。
けれど、その赤い染みは、紙の内側から湧き出すように広がっていく。
一本の線となり。
いくつもの形を作り。
やがて、文字へ変わった。
『実行条件を提示します。』
息が止まる。
これまでノートから返事が来たことなど、一度もなかった。
僕が書いた文字ではない。
赤い文字は、さらに続きを綴っていく。
『地震によって放出されるはずだった、広島型原爆およそ三万二千発分に相当する莫大なエネルギーを消費せよ。』
『地震によって回収されるはずだった、三十万人を超える魂を集めよ。』
三十万人を超える魂。
何度読み返しても、赤い文字は変わらない。
「……魂?」
口から漏れた自分の声が、ひどく遠く聞こえた。
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