第一話:常識改変ノート
AIにこの曲の主題歌を作ってもらいました。興味がある人は以下のURLから聞いてみてください。
【オリジナル曲】Revision /黒海苔
https://youtu.be/u0stcq9TXig?si=ndOabvv1CxeE18dG
二〇一九年三月。
今日は、僕――黒瀬玲司にとって、高校二年生最後の登校日だった。
「受験生にとって、春休みは非常に重要な期間です。三年生になってから頑張ればいい、なんて考えていたら――」
教壇の前では、担任が進路について熱弁を振るっている。
春休みが勝負だ。
志望校は早めに決めろ。
今のうちから受験を意識しろ。
内容は、ここ最近何度も聞かされているものと大差なかった。
教室を見渡せば、真面目に聞いている者はほとんどいない。
机の下でスマートフォンを触っている者。
隣の席と小声で話している者。
すでに荷物を鞄へ詰め終え、いつでも帰れるように準備している者。
僕もその一人だった。
教室の隅の席で、頬杖をつきながら窓の外を眺める。
三月の空は薄く曇っていた。
天気予報では、今夜から雨が降り始め、明日も一日中崩れるらしい。
「黒瀬。聞いているか?」
「聞いてます」
視線を向けないまま答えると、教室の何人かが小さく笑った。
担任は何か言いたげな顔をしたものの、それ以上は追及せず、再び全体へ向き直った。
僕の通う高校は、進学校というほどではない。
卒業後の進路は、大学や専門学校へ進む者と、そのまま就職する者でおおよそ半々。
一応、特進クラスだけは難関大学への進学実績を作っているが、僕のいる普通科は良くも悪くも普通だった。
僕自身も、一応は進学希望にしている。
ただし、志望校はまだ決めていない。
学びたい分野もない。
将来なりたいものもない。
先生からは何度も「そろそろ具体的に考えろ」と言われているが、考えたところで答えが出ないのだから仕方がない。
高校二年生。
十七歳。
まだ二十年も生きていない人間に、この先の人生を左右する選択を迫るのは、少し理不尽ではないだろうか。
そんなことを言えば、ただの逃げだと返されるのだろうけれど。
「――以上。春休みだからといって生活を乱さないように。それと黒瀬、あとで少し残れ」
最後の一言だけは、はっきり聞こえた。
やはり進路の話だろう。
終礼が終わると同時に、教室が一気に騒がしくなる。
椅子を引く音。
友人を呼ぶ声。
部活動へ向かう生徒の足音。
僕は事前に帰り支度を済ませていたため、すぐに鞄を持って立ち上がった。
「黒瀬」
背後から担任の声が飛んでくる。
僕は一瞬だけ足を止めた。
しかし、振り返らなかった。
今日を乗り切れば、少なくとも春休み中は顔を合わせずに済む。
「すみません。今日は用事があるので」
「おい、待て。五分で終わるから」
「また新学期にお願いします」
「黒瀬!」
呼び止める声を背中に受けながら、僕は教室を出た。
逃げた自覚はある。
けれど、今は進路について話したくなかった。
何になりたいのか。
どこへ進みたいのか。
そんな問いに答えられない自分を、わざわざ確認したくなかったからだ。
校舎を出ると、まだ冷たさの残る風が頬を撫でた。
卒業式を終えた三年生の姿はなく、校内はいつもより少し静かだった。
正門を抜け、僕は一人で帰路につく。
友人と寄り道をする予定もない。
部活動にも所属していない。
春休みにやりたいことも、特にはなかった。
まだ時間はある。
大学のことも、将来のことも、ゆっくり考えればいい。
そう自分へ言い聞かせながら、いつもの道を歩いた。
学校から家までは徒歩で二十分ほど。
住宅街を抜け、小さな公園の横を通り、緩い坂道を下る。
何百回も歩いた道だった。
だからこそ、歩道の端に落ちている黒い物が、すぐ目に留まった。
「……ノート?」
最初は、誰かが落とした手帳かと思った。
近づいてみると、それは何の装飾もない黒い大学ノートだった。
雨にはまだ降られていないらしく、表紙も紙も綺麗なままだ。
中央には、白い文字で題名らしきものが印刷されている。
『Revision Note』
「リビジョン……ノート?」
改訂。
修正。
そんな意味だったはずだ。
黒い表紙に白い英字。
どこかで見たことがあるような、不穏なデザインだった。
「……某ノートみたいだな」
思わず、そんな感想が漏れる。
周囲を確認する。
持ち主らしき人物はいない。
道を歩いている人も、少し離れたところに数人いるだけだ。
交番へ届けるべきかとも思ったが、名前も連絡先も書かれていないノート一冊だ。
それに、ほんの少し興味が湧いた。
僕はノートを拾い、表紙を開いた。
一ページ目。
そこには、黒い文字で二行だけ書かれていた。
『これは、書いた内容がそのまま現実になる「常識改変ノート」です。』
『何か試しに書いてみてください。』
「……は?」
思わず声が出た。
下半分は空白。
次のページも、その次も、すべて白紙だった。
使い方の説明は、それだけ。
注意事項もなければ、条件もない。
書いたことが現実になる。
あまりにも単純で、あまりにも馬鹿げている。
誰かの悪戯だろう。
道端へノートを置き、拾った人間が反応する様子をどこかから撮影しているのかもしれない。
僕は周囲の建物や電柱を見回した。
それらしいカメラは見当たらない。
「くだらない」
そう呟きながらも、ノートを捨てる気にはならなかった。
本当にただの悪戯なら、家へ持ち帰っても問題はない。
もし持ち主が現れれば、その時返せばいい。
何より――少しだけ面白そうだった。
僕はノートを鞄へ入れ、再び歩き始めた。
◇
家へ着いた頃には、肩が少し痛くなっていた。
教科書やプリントをまとめて持ち帰ったせいで、今日の鞄は普段よりも重い。
「ただいま」
返事はない。
分かっていても、玄関を開けると自然に口から出てしまう。
僕は一年前から、この家で一人暮らしをしている。
両親は交通事故で亡くなった。
突然だった。
朝、いつも通りに家を出た二人が、そのまま帰ってこなかった。
事故の知らせを受けてからしばらくの記憶は、今でも曖昧だ。
親戚からは一緒に暮らすよう勧められたが、僕はこの家に残ることを選んだ。
高校を転校したくなかった。
生活環境まで変わるのが嫌だった。
それに、両親が遺した家と保険金があり、生活に困る状況でもなかった。
食事や家事も、完璧ではないにせよ一人でこなせる。
周囲の大人たちは今でも必要以上に心配しているが、少なくとも表面上は問題なく暮らしていた。
担任が進路について強く言い切れないのも、こうした事情があるからだろう。
僕自身、すぐに働かなければ生活できないわけではない。
大学へ進むだけの余裕もある。
だからこそ、危機感を持てずにいるのかもしれなかった。
今すぐ何かを決めなくても、当面は生きていける。
その事実に甘えている。
自覚はあった。
靴を脱ぎ、二階の自室へ向かう。
鞄を床へ下ろすと、重い音がした。
「疲れた……」
制服の上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。
机の上へ教科書を置こうとして、鞄の中に入れた黒いノートを思い出した。
取り出してみる。
『Revision Note』
改めて見ても、怪しさしかない。
僕は椅子へ座り、一ページ目を開いた。
『これは、書いた内容がそのまま現実になる「常識改変ノート」です。』
『何か試しに書いてみてください。』
「本当に書けってことか」
どうせ何も起こらない。
そう思いながら、ペン立てから黒いボールペンを取った。
しかし、すぐにペン先を止める。
万が一。
あり得ないとは思う。
けれど、もし本当に書いたことが現実になるのなら、適当なことは書けない。
『一億円が手に入る』
頭に浮かんだが、すぐ却下した。
どこから手に入るのか分からない。
犯罪に巻き込まれる可能性もある。
『明日のテストがなくなる』
春休みに入るのだから、そもそもテストはない。
『世界が平和になる』
大きすぎる。
そもそも「平和」の定義が曖昧だ。
「……こんな真面目に考える必要あるか?」
自分で自分に呆れる。
ただの悪戯ノートだ。
それでも、書くなら結果が分かりやすく、失敗しても問題のない内容がいい。
僕は机の端に置いていたスマートフォンを手に取り、天気予報を確認した。
明日の降水確率は九十パーセント。
朝から夕方まで雨の予報になっている。
「これならいいか」
天気予報が外れることはある。
仮に晴れても、ノートの力だとは断定できない。
だが、雨が降れば、このノートがただの悪戯だと判断できる。
一度にいくつも書けば、何が原因で何が起きたのか分かりにくくなる。
今日は一つだけにしよう。
僕は一ページ目の説明文の下へ、ゆっくりと文字を書いた。
『明日は一日中、晴れる。』
書き終えても、何も起きなかった。
光らない。
音も鳴らない。
ノートが震えることもない。
「まあ、そうだよな」
僕はノートを閉じ、机の隅へ置いた。
そのまま夕食を作り、風呂へ入り、いつも通りの時間に眠った。
ノートのことなど、夜にはほとんど忘れていた。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む眩しさで、目が覚めた。
「……朝?」
目覚まし時計を見る。
午前七時十二分。
春休み初日だ。
寝ぼけたままベッドから下り、カーテンを開ける。
その瞬間、僕は動きを止めた。
雲一つない青空が、窓の向こうに広がっていた。
雨の気配など、どこにもない。
朝日が屋根を照らし、道路は乾いている。
スマートフォンを確認する。
昨日まで一日中雨だったはずの予報は、いつの間にか晴れのマークへ変わっていた。
『予想に反して前線が急速に南下したため、本日は広い範囲で晴天となる見込みです』
天気予報のページには、そんな説明が載っている。
「……偶然だ」
天気予報が外れただけだ。
九十パーセントは百パーセントではない。
晴れる可能性だって、最初から残っていた。
そう考えながら、僕はゆっくりと机へ視線を向けた。
黒いノートは、昨夜と同じ場所に置かれている。
何の変化もない。
何の変哲もない、ただの黒いノート。
その表紙に刻まれた白い文字だけが、朝日に照らされていた。
『Revision Note』
「……もう一回、試してみるか」
僕はそう呟き、ノートへ手を伸ばした。




