好きが嫌いな人-9-
朝なのに鳥の声一つ聞こえなかった。岬の寝室に一人でいると、まるで水の中にいるみたい。気味が悪いくらいに静かな朝だった。音も色も温度もなかったこの場所で、岬は好きなように色を塗り音をのせた。岬が普段カメラの前でやっているように。
葉山は岬のその自由な振る舞いにいつだって魅せられていた。演技を見るたび自分だって、いつかは彼のように――そう思っていた。
昨夜、あんなことをしたのに葉山は普段通り七時に目が覚めた。
身に染み付いた習慣は簡単には変わらない。
例えば目が覚めて、一番最初に今いる場所を確かめて安心する癖。
朝がくるたび、葉山は一人で良かったと思う。
欲しいと思って手に入らないモノなら、最初から近くに無い方が幸せだ。幸せとか、愛情とか、そういった曖昧なモノ。
ベッドの隣に岬がいなくて良かったと思った。もし、まだ岬の演技が続いていて、ふいに優しく、甘く抱きしめられたりしたら、きっと、また情けなさと悔しさで泣いていた。そうして葉山は、ままならない自分の心に再び憤った。
譲れない願いがあるから、分不相応でも岬に虚勢を張ってしまう。岬の演技に心を折られない限りは隣に立っていられる。岬が望む通りの偽りの『葉山真幸』であり続けたい。
岬にだけは、可哀想な何もできない子供だと憐れまれたくなかった。
役者として対等にぶつかった、初めての興奮を、幸せを、この先も感じていたかった。たとえ嫌われて、未来永劫に岬との共演が叶わなくても、同じ役者の世界で生きていられればそれでよかった。
だから、岬が自分に向ける感情は、好きでも、嫌いでも良かった。その感情は、葉山の個人的な一方通行の思いだから。
――どうして、岬なんだろうか。
どうして、自分は岬にだけ執着するのか。その答えだけが、ずっと分からなかった。岬と同じように、HIROTOも役者として素晴らしい才能を持っていた。それでも岬に執着する気持ちは変わらなかった。この世界で葉山の感情を震わせる人間は、何も岬だけじゃない。天才と呼ばれる俳優は、業界にたくさんいる。そんなことは最初から分かっていた。
それでも、岬圭一が、良かった。
(知らなかった……何も)
頭を撫でるなら、手を繋ぐなら、男でも女でも誰でもしてくれると岬は言った。
(知らなかったんだ……)
頭を撫でるのも、手を繋ぐのも。たとえセックスするのが、自分の執着する岬圭一で、抱かれる理由が、自分を認めさせるためで、役者を続けるための手段だとしても。
そうすれば、葉山の一番欲しいものが手に入ると思った。
葉山が知る予定の無かった感情は、プライドと同じ場所にあった。
だから葉山は、気づいたときに欲しいものを半分失っていた。裏と表。光と闇。二つ同時には手に入らない。
役者の岬圭一が、大嫌いで、大好きだった、それに気づいただけのこと。
「……ッ」
体を起こせば節々が痛むけれど、動けないほどのダメージはない。
ベッドの上から降りてフローリングの上に足をつく。服は何も着ていなかった。昨晩、クローゼットにあるものを勝手に着ていいと言われた。昨日自分が着ていた服は、夜に洗濯機に放り込まれてしまった。バスルームの前まで行けば、自分の服の乾燥が終わっているだろうが、裸でリビングを横切りたくない。どうするべきか一瞬迷った。
けれど、それ以上、迷うのをやめた。
嘘で塗り固めた自分でいると決めたのは葉山だから。戻れないし、戻らない。戻りたくもない、昨日の「選ぶ前の自分」になんて興味はなかった。
岬に見せたい自分であり続ける。
役者の「葉山真幸」なら、いつだって勝手気ままに振舞っている。
おもむろにクローゼットを開けて、サイズに問題が無さそうなものを見繕う。岬が持っている服で葉山が着られそうなものは長袖のTシャツくらいだった。足の長さが違うので下に履けるものはない。それでも、何も着ないよりはマシだと思った。
長袖のシャツだけ着て、足音を立てないようにリビングに行くと、眠ったとき隣にいた岬が布団を被ってソファーで横になっていた。
上半身は裸のままだった。
その姿を息を潜めてそっと上から見下ろす。
狸寝入りでもしているんじゃないかというくらいに、身じろぎもせず眠っていた。ナイフのように鋭い瞳も、時折見せる戯けた瞳も。今は閉じられていて見えない。眠っている岬さえも演技に見えた。
(……疲れてる、だろうな)
プライベートに土足で踏み込んで、一晩中つまらない葉山の演技に付き合わせた。岬からすれば、完全に時間外労働だ。
(ねぇ、岬さん。昨日、俺のこと大丈夫だって思った?)
心の中で眠る岬に問いかけた。岬に『青の鬼火』で共演することを認めてもらいたかった。
昨夜のうちに外に放り出されていないし、ある程度の及第点には達していたのだろうか。
最後まで佐伯の役を演じきる意思は、葉山の中で揺るぎなかった。しかし、どれほど自分の意思が固くても、昨日までの葉山では男を心から愛する演技が、トラウマのせいでできなかった。だから欠けた心を岬が埋めた。知らなかった感情を、岬の心で上書きした。
(俺が、望んだから)
差し伸べられた岬の手から、優しく甘やかな感情を刻み付けられた。
恋とか、愛とか。好きとか、嫌いとか。葉山がずっと欲しいと思っていなかった感情の全てを岬がくれた。
自分が演じている恋愛は、いつだって物語のなかで知った空想のハリボテだったと気付かされた。
――大嫌いで、大好きな人。
穴があくほどに岬の寝顔を見ていたところへ、リビングの静寂を切り裂くように葉山のスマートフォンの音が鳴り響いた。
慌てて自分のカバンのある場所へ走り着信音を切るが、相手の名前を見て血の気が引く。
「……おはよ。葉山くん。電話だろ、出ていいよ」
寝起きで掠れた岬の声が背後から聞こえて振り返ると、岬はソファーから体を起こしていた。
「社長、からで」
「なら、尚更出たらいいじゃん、仕事だろ」
「いや……多分、外泊が……バレた」
葉山がそこまで言うと、岬は大きくため息をついた。
「そこまで深刻? あ、そういえば、社長に面倒見てもらってるんだっけ。葉山くん」
一人暮らしをしているといっても、マンションの部屋は社長名義。今は社長が葉山の後見人だ。その上、昨日は仕事のあと社長に会いにいくとマネージャーには嘘を吐いている。
その件が榊原の口から社長に伝わっていた場合、不審に思われているだろう。もし心配して合鍵でマンションへ入られたら大ごとになる。
いや、もうなっているかもしれない。
「……親に無断外泊怒られるって子供かよ。夜遊びの仕方も知らないんですか、葉山くんは」
「連絡、忘れてて」
なりふり構っていられなかったとはいえ、自分らしくなかった。もっと普段の自分は抜かりない。心配されないように周囲に上手く嘘をつく。
詰めが甘かった。
「そういう時、大人は上手いことアリバイつくって遊ぶんですよ葉山くん。せっかくだし、面白そうだから社長に怒られるところ見せてよ」
「……なんで、岬さんに見せないといけないんですか」
「宿泊料? ま、俺なら、この状態からでも上手いこと演技で切り抜けられる」
「本当に?」
「もちろん」
岬は人の気も知らないで楽しそうに笑っている。そこまでいうなら見せてみろと思った。どちらにしても、このまま社長の電話を放置することは出来ない。
「電話かけます」
「どーぞ」
そう言って葉山はリダイヤルを押す。社長にはすぐにつながり葉山は通話をハンズフリーにした。
「もしもし真幸です」
『真幸ちゃん、あなた一体いまどこにいるの! 心配して家に来たらいないし』
「おはようございます、すみません、今……その、岬さんのマンションにいて」
『岬? え、どの……』
「代わりますね」
そういって、にっこりと『いつもの自分』の笑顔で岬にスマートフォンを差し出す。急に話を振られて少しは焦るかと思ったけれど、岬は驚くことなく、にやりと勝ち誇ったような顔を葉山に見せた。
「……おはようございます社長。岬です」
『岬って、え、嘘。なんで真幸ちゃんが、岬なんかの部屋にいるのよ』
「岬なんかって、酷いですねぇ。一応、星芸能の稼ぎ頭なんですけど。ところで、社長の息子さん、どういう教育しているんですか。一晩中付き合わされたこっちの身にもなってくださいよ。……おかげで寝不足で」
岬は言いながら、演技ではない本当のあくびをして眠そうに話を続ける。
『ちょ、な、教育って? 岬! うちの子に変なこと教えてないでしょうね』
二人の会話を聞きながら、おかしなことでも言われやしないかと、葉山は内心戦々恐々としていた。
「ん? 変なことって?」
『質問に質問で返さない!』
「とにかく、社長。息子さんに正しい大人の夜遊びの仕方くらい教えておいてください。昨日仕事のあと、台本読み付き合えって言われて、朝方までやらされたんですから」
『台本……よみ?』
「そ、社長が葉山くんに『青の鬼火』はお前には無理だからやめとけなんて、プレッシャーかけるから」
『プレッシャーって』
「昨日、現場でHIROTOくんに、彼演技で追い詰められて」
『え……』
「もう岬先輩しか頼れる人がいない! って、目に涙を浮かべてさ。そんなことされたら、俺も事務所の可愛い後輩を無下に出来ないですよ」
葉山に役を降りろと言ったのは岬だ。そう言って通話を切って反論しようとしたが、逆にスマートフォンを葉山の手から奪われた。
「み、岬さん!」
「あ、大げさ? でも俺に演技に付き合えって言ったのは本当だろ?」
そう真実を言われて胸が痛かった。昨日のは、全部、演技だった。分かっている。本気で演じてくれたからこそ葉山は、欲しいものを手に入れた。
今の自分を。
『真幸ちゃん……本当なの』
「……それは、その……はい」
違うといえば、余計に話がややこしくなると思った。
『真幸ちゃん、ごめんなさい、あなたを追い詰めるつもりはなかったのよ、あたしは』
「ち、違うんです、社長、本当、役に追い詰められた訳じゃなくて……先輩と久しぶりに共演出来て、嬉しかったから。色々……話聞きたくて、岬さんの好意に甘えてしまって」
嘘ではないけれど、本当でもないことをスラスラと口にしていた。目の前で岬が口を抑えて笑うのを堪えていた。
『そう、分かったわ。とにかく真幸ちゃんが、元気ならいいのよ。本当、マンション行ったら部屋にいなくて肝が冷えたわ。あと、岬』
「はいはい」
『あなた、そんな面倒見良かったっけ?』
「まさか、よくないですよ。俺が外面だけなのは、社長がよーくご存知だと思いますが。けど、俺だって、葉山くんにあんな目で、にゃんにゃん猫みたいにまとわりつかれたら悪い気はしないって。社長でしょう、葉山くんに面倒臭い猫被らせてるの」
『あら、知ってたのね、真幸ちゃんの演技』
「俺を誰だと思ってんですか、最初から知ってますよ。そういうわけで、俺は一晩お守りさせられたんですから仕事まで寝るんで。早めに葉山くんのマネージャー俺のマンションによこして引き取ってください」
『わかったわ、真幸ちゃんにかわって』
どうぞ、とスマートフォンを差し出されて受け取った。そして社長に連絡しなかったことを再度謝って通話を切った。岬は葉山の前から離れると冷蔵庫からペットボトルの水を出して、その場で口をつけて飲んでいた。
昨日も思ったが、やることが雑だなと思った。キッチンに高そうなグラスがあっても、岬はこの部屋で使ったことがないんじゃないかなと思った。
「で、葉山くん。俺の夜遊びのアリバイ工作の演技は何点?」
たとえ鮮やかな演技だとしても葉山で遊んだだけだ。葉山が受け取った結果だけが正しい。綺麗な嘘。社長に心配され、病院に連れていかれることは免れた。
岬は正解に至るまでの過程なんてどうでもいいと思ってる。
それが、岬だ。知っている。こういう人なんだと。
「……五点です」
「十点満点?」
「百点満点で」
「えー低すぎだろう。結果的におおごとにならずに済んだだろ? ああいうのは、冗談を交えて堂々とやればいいんだよ」
「慣れてますね。悪い大人の見本じゃないですか」
「そうだよ、けど葉山くんはそんな悪い大人だって分かってて、昨日、俺に秘密のお願いしたんだろ? ――抱いてくれって」
葉山は岬のいるキッチンまで歩いていくと、岬の前に立った。そしてペットボトルを持っていない岬の左手を握る。大きくて、温かかくて。憎らしくて、大嫌いで、大好きで。欲しくても、もう、岬の本当は手に入らない。
「なに? もう演技は終わりだろ」
手を握るなら、頭を撫でるなら、誰だって。
「テスト、です。本番前には、するでしょう。昨日は、台本を読んだ。だから、あとは、ドライリハ、カメラテストやって、ランスルーです」
壊れた自分が、これ以上、壊れないかテストをするだけ。
葉山は少し背伸びをして、両の手が塞がった岬の唇に顔を少し傾けて口付けた。甘くて、苦くて、苦しかった。目を閉じて、昨日より上手なキスをする。昨日まではできなかった。けれど今日は簡単に出来る。嘘のキスも、嘘の気持ちも、なんだって岬に与えられる。役者だから。知らなかった気持ちを知ったから。
「……岬さんのことが、好きです」
葉山の告白を、岬は当然の結果のように聞いていた。一拍置いて返事をくれる。
「――知ってるよ、最初から」
鬼で、悪魔だと思った。
「けど、もう信じられないだろ、お互いに。分かっててやったんだろ、葉山くんは、本当、いつも酷いね」
いつだって、酷いのはお互いさまだ。
「なら、それ以上に、岬さんが、もっと酷くしてくれれば良かった。俺は、優しくされたくなかった。血が流れて、打撲痕でも残れば良かった。傷だらけにして欲しかった。そうすれば……俺は」
罪悪感も抱かずに、何も知らずにいられた。けれど、それは葉山の甘えだ。葉山が抱いて欲しいと頼んだから、岬は嫌々やった。そう思いたかった。岬が優しくなければ、自分だけ悪い人になれた。
「セックスは気持ちいい方が好きだな。葉山くんだってよかっただろ。気持ちいいって言ってたし、まぁ、もちろん、全部嘘かもしれないけど」
信じたくても、相手のことを何も信じられなくなる。昨夜自分たちがしたのは、そういう行為だ。
こんな酷いことが平気で出来るんだから、これも嘘だ。あれも、嘘だ。
どうやったって、相手の本当を信じることができない。
欲しいものを手にいれる為なら、平気で相手の気持ちを、感情を犠牲にして、嘘をつく。なんの躊躇もなく相手に体を差し出せる。快感を享受できる。
そんな人間のいう言葉なんて誰も信じないし、信じられない。信じてなんて、言う資格がない。
嘘を、簡単に本当に出来る。嫌いでも好きになる。好きでも嫌いになれる。
葉山は、そういう役者を好きになった。
岬とキスした唇が離れて、岬の端正な顔が柔らかに笑う。笑った後、眉を顰めて……少しだけ怒っている気がした。岬の優しい気持ちを踏みにじって、葉山は役者の仕事を選んだ。
「俺も葉山くんが好きだな」
岬は薄っぺらな感情を返した。岬は氷のように冷たい役者の顔をしていた。きっと葉山も同じ顔をしている。
「けど、な。もし、明日目の前に、自分好みの本気で相手をしたいくらいの面白い役者が現れて、君と同じことを願われたら、多分、俺は昨日と同じことをするし、欲しいものの為なら、酷いことを平気でする。もちろん、葉山くんも同じことをするよね」
そういうことだよ、と岬は葉山に甘い口付けを返した。毒の味がする。
好きで、嫌いで。
それでも岬は、最初は全てを手放す気だった。
過去のトラウマのせいで役者という仕事に苦しみ、今にも壊れそうだった葉山を仕事から遠ざけることで救おうとした。
岬なりに葉山を愛してくれていたんだと思う。
可哀想で、可愛いと思われた。葉山は岬を許せなかった。自分はそれほど弱い人間じゃないと、岬の優しい心にプライドが傷ついた。
岬が、正しい理性のまま、葉山を役者の仕事から遠ざければ。あるいは、葉山が、岬の悪魔のような演技に心が折れて役者を辞めていれば、二人の願いは叶わなかった。
お互い欲しいものを一つだけ手に入れた。結果だけが正しい。
岬は手に持っていたペットボトルをキッチンの調理台の上に置くと、両手で葉山の頭をかき混ぜる。まるで心から愛しい人にふれるように。
「俺は、今日は半日オフだし。葉山くんは、マネージャーのお迎えが来たらちゃんと、お仕事に行きなさい、別にどこも痛いところないだろ」
「言われなくても、行きます。そのために、岬さんの部屋に来たんですから」
「だよね。えらいえらい。葉山くんの演技、楽しみにしているよ。俺が昔、一度でも本気で相手したいと思った男だからね、君は」
「ッ……」
悪魔が囁く。甘美な岬の言葉。葉山が欲しかったもの。ほら、手に入っただろって言っている。
「ね。俺が、こう言えば、葉山くんは、笑うんだろ?」
酷い人だと思う。自分も酷い人だと思う。
「はい、ありがとうございます」
「あーあ、本当、ままならないな」
役者であるお互いが好きなだけ。譲れないものがあっただけ。
ただ、それだけのことだった。




