好きが嫌いな人-8- *
さっきまで甘かったミルクを全て吐いていた。洗面所の淵を両手で握り項垂れている。頭が痛くてその場から動けない。
岬のマンションへ来る前と、何も変わらない。変えられなかった。出来ると言ったのに、口だけだった自分に嫌気がする。
やめてしまいたい。やめたくない。
助けて欲しい。
「――葉山くん。演技、もう終わりにしよっか」
自分の背後に立っている岬からは、さっきまでの恋人の役がいなくなっていた。あぁ、本当の岬だと思った。葉山が、よく知っている静かな岬圭一がそこには立っていた。
プライベート以外の全部が岬の演技だ。誰かに見せたいと思っている姿を岬は自由自在に操っている。
都合よく、役を演じ分けている。
自分だって、それが出来ると思っていた。社長が作った「葉山真幸」という役をずっと演じてきたという自負がある。出来ないのは、いつだって岬の前だけだ。
好き勝手に演技が出来る岬のことを、こんなに腹立たしいと思っているのに、神様みたいに思っている。羨ましくてたまらない。自分もそうなりたい。
「……嫌です。まだ終わってない。俺、何も岬さんに見せてない」
「あのね、演技でも、そうじゃなくても、吐いてる子を抱く趣味はないから」
岬はそう言ってタバコをくわえたまま、葉山の真横に立つ。
「体、さわるよ」
岬は、そう葉山に断ってから肩に触れる。そんな気遣いは要らないと思った。
葉山が次の言葉を発する前に、岬は葉山の体を軽々と子供のように抱き上げた。
「あ、歩けますから」
「面倒だ」
火のついたままのタバコが危ないとか、副流煙だとか。他に気をつけることがあるのに、葉山の様子に注意深く意識を向けたまま、岬は葉山を連れてリビングまで戻ってくる。
さっき電気が消えていた寝室に電気がついていた。
岬は、ここにくる前、葉山の考えていることなんて分からないと言った。けれど岬は正確に葉山の思考に気づいていた。
暗い寝室が怖かったこと。
ソファーの上に降ろされると、岬は再び隣に座った。さっきより遠い距離に座っている。もう恋人同士の演技は終わりだと言われている気がした。
「風呂もベッドも好きに使っていいよ」
「岬さんは」
「ん? ソファーで寝るけど。葉山くんはお客様だし」
「……一緒に、寝てください」
「なに添い寝して欲しいの? 子供だね。あぁ、まだ十八だったね。俺に対する口の利き方はいっぱしの大物俳優で、つい忘れそうになるけど」
「子供じゃない」
消え入りそうな声で反論していた。岬は首を横に振る。
「子供だよ。子供は大人が守ってあげないとね。そういうものなんだよ、普通は。葉山くんは知らないかもしれないけど」
ぴしゃりと子供だと言われる。それを理由にこの先の全てを切り捨てられる。
そんな常識的な言葉を聞いて、胸が締め付けられる。苦しくて、自分の心を切りつけてでも、壊してでも、二度と戻れなくてもいいからと岬に手を伸ばしている。
その葉山の揺れる瞳を、岬は、まるで可哀想なものでも見るように、静かに見つめていた。弱者に対する、哀れみの表情を向けられた。
腹が立って仕方なかった。自分に、岬に。
何が足りないのだろう。
どうして岬にこんな目をさせてしまうのだろう。
役者として対等に見てもらいたい。岬と同じになるには、自分には、あと何が足りない?
「んな、顔させるために、連れてきたんじゃないんだけどなぁ。怖いもの見えなくなるって言ったから、連れてきたのに。また泣かせちゃった。葉山くん、泣き虫だから」
「嫌だ……そんなこと、岬さんには、言われたくない」
泣き虫だと、ただの無価値な子供と見られて、優しげな表情で切り捨てられる。
岬に出会う前の自分は、空っぽだった。
流され受け入れるだけだった。こんなふうに感情を乱され、こんなにも悔しいと感じるのは、岬圭一、ただ一人だ。
葉山の頬へ静かに涙が伝っていく。声は我慢できても、乱れる呼吸はどうしようもなかった。
「落ち着きなさいって、興奮したらまた苦しくなるよ?」
もっと、話す? 楽しい話をすればいい? そういって、困ったように話しかける岬に、言うべき言葉を、また間違えてしまった。
岬は本当に困っていたのに。もっと困らせてしまった。
岬が葉山を哀れんだり、下にみるたび、腹が立つ。きっと岬も同じ感情を持っている。
可哀想で可愛い後輩だと手を抜けば、葉山のプライドが傷つくと岬は知っている。だから困っている。役者の岬なら容赦はしないし、困りもしない。いまは役者じゃない岬だから泣いている葉山を見て困っている。
葉山真幸がこの世で一番怖いこと。
役者を続けられないこと。与えられた役を続けられないことが一番、怖い。
岬圭一は、優しい。優しくて、いつだって残酷だ。
欲しいものを手に入れたい。譲れなかった。
葉山が本当に望んでいるものを岬がくれるというなら、岬はそれを選んでくれると思った。もし、それで葉山が壊れたところで、最後には何の問題もない結末になるから。岬が選びさえすれば、葉山は役者として、この先も演技を続けられる。
後悔はしない。
同じことを経験すれば消えると思った。それを岬にやらせる自分は、残酷で、鬼だ。
「――上書き、してくれませんか?」
全部、酷くして、壊して、もっと酷い記憶で上書きして。
「俺を犯罪者にする気? 葉山くんは悪い子だなぁ。俺、事務所の先輩だよ?」
「俺が、良いって言ってるんです。罪悪感なんてないでしょ、男ですから。岬さんは、気持ちいいことして、俺は、役を演じられるようになる。あんなのは、慣れですから」
過去の自分のことを話すたびに、心を切りつけている。血の滲む痛い記憶が、もっと痛い記憶にすり替わっていく。
「慣れ、ね」
岬は葉山の言葉を、タバコをふかしながら値踏みするように聞いていた。
岬が言うように葉山は子供なのだろう。誘い方なんて知らなかった。何の手練手管もない、まっすぐな子供の誘いに岬は戸惑うこともなく、ただそこにいた。
葉山の血を吐き出すような言葉は止まらなかった。
「気持ちいいらしいですよ。一度味わったら忘れられないって言ってました、俺は知りませんけど、あぁ、そうそう……男でも勝手に良くなれるところがあって、声が出て……」
岬は持っていたタバコを灰皿に押し付けると、葉山の唇を塞いだ。
もう分かっていたから、気持ちの悪い記憶がフラッシュバックすることはなかった。あとは、ゆっくりと一つずつ消していくだけ。
これ以上、もう嫌なことを話さなくてもいいのかと思うと、それだけで安堵していた。
岬の作り物の役者の笑顔に、やっと体の震えが止まっていた。今の自分でも役者の岬を引き出せたのだと思った。
「――葉山くんの演技、もっと見たくなったな」
この役を降りてしまえば、岬への償いになる。けれど、それができない自分は、岬をまた傷つけている。
「いいよ、俺としたいなら、おいで」
岬はそういって、寝室へ先に入った。その後ろをついて葉山も入る。
「電気……消します」
葉山は壁のスイッチを押そうとしたが、その手を岬に掴まれる。
「いいよ、怖いだろ」
「別に、俺、怖くなんか」
「俺が、怖いの。男は初めてだから、怪我させる」
「俺が頼んだんですから、好きに……酷くしてくれていいですよ、やりたければ、殴って首を絞めて……それから、あぁ、けど撮影あるから、顔だけはやめて欲しいかな、それ以外なら」
殴られたって、切りつけられたっていいと思った。
むしろそうしてくれれば、自分が想像できないくらい酷いことを岬にされれば、怖いものは、全部消えると思っていた。
「葉山くん、そういう趣味なの?」
「趣味って」
「殴られたり、首をしめられたりすると、気持ちよくなる人」
岬はそういって、葉山の首にそっと手で触れた。その手の触れ方にこくりと喉がなる。そんな優しい触れ方を葉山は知らない。
「……わからないですけど、痛い方が、気持ちいいんだと思う」
痛い方が、気持ちいいだろと言われたから、そうなんだと思っている。実際、痛くて苦しいと感じている時に射精したことがあるし、刷り込みのように、気持ちいいと言っていた。
「思うって、葉山くん、本当にセックスしたことあんの? それ」
岬は葉山の手を引いてベッドに押し倒すと、シーツに体を縫い止め、葉山を見下ろした。
冷たいベッドからは岬と同じ優しい匂いがした。
「あります、けど」
押し倒された葉山は、岬から顔を背けて横を向く。
「で、気持ちよかった? 男とヤるの。殴られて、蹴られて、首絞められながら?」
「勃ってたから、そうなんじゃないですか?」
「別に自分で触っても勃つだろ。そうじゃなくて、してもらって良かったこととかないの? 感想は?」
岬はずっと話し続けている。黒のカットソーの上に岬の大きな手が触れる。胸元から葉山の形を確かめるように下へ滑った。いちいちその手の動きにビクビクと驚いてしまう。
「……感想」
「俺に、教えてくれるって言っただろ?」
ほら、と岬に先を促された。思い出そうとするたびに、岬が体へ触れる感覚に思考を遮られた。
「どんなことしたんだ? 一個くらい、好きなことあるんだろ、俺なんか誘うくらいだから、いい思い出の一つや二つ」
散漫になる思考の海の中から、必死でかき集めた欠片は、全て暗闇だった。その闇に触れて思わず吐きそうになる。
「ぁ、ぅ……」
「吐いたら、やめるから」
奥歯を噛み締めて、自分の体の上にある岬の手を掴んだ。
「ッ、手、握って、頭を……撫でてくれて……」
「手?」
「優しく撫でてくれた」
唯一優しくされた記憶。だから拒絶できなかった。たとえ仮初めでも、優しくされて、嘘でも、家族として迎えてくれて、葉山が心から欲しいと思っていたものをくれたから。
嘘でもいいから、誰かに必要とされて、愛されたという記憶が欲しかった。
「手、握って、頭撫でて。それが気持ちよかったのか? それくらいセックスしなくても、男でも女でもしてくれるだろ。葉山くんがしてっていったら、誰でも頭くらい撫でてくれるよ」
「誰……でも」
「ほら、よしよーし。いい子だねぇ」
岬はベッドの上に横になると、葉山を胸元に抱いて頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。
「ッ、な、なに」
「で、こんなのが、いいのか? もっと気持ちいいことあるのになぁ」
岬は呆れたように言うと、葉山の手を握ったまま頭を撫でた。体がぴったりとくっついて、岬の心臓の音と自分の心臓の音が重なった。
「ッ、し、しなくていいです、そんなの」
「何だよ、手握って頭撫でるのが気持ちよかったんだろ、遠慮しなくていいって」
「遠慮とか、じゃないです。そんなの、岬さんがよくない」
「ん、いいよ? なんかこう、昔家にいた犬撫でてるみたいで、楽しいから」
「ッ、犬って」
「ほんと可愛いけど、俺の言うことだけきかなくてさぁ。俺が一番世話してたのになぁ」
「……甘えてたんじゃないですか」
優しさにつけ込む。
自分も岬に無理なことばっかりいって、甘えているんだと思う。わがままばかりだ。岬に役者として生きることを許されたいと思っている。普通なら、葉山がどんな生き方をして、どんな道を選んだのだとしても、誰かに許しを請う必要なんてない。
岬だけが特別だった。岬の視界に入っていたい。
「葉山くんも、俺に甘えていいよ」
「嫌です」
「即答かよ。仮にもセックスするって言ってるんだから、嘘でもそういうときは、可愛くしなさいね。葉山くん、得意だろ? 可愛いの。いつも息吸うようにやってるんだから」
葉山が岬の飼い犬だったら、こんな感情を抱くことはなかった。ただ可愛がられてそれを受け入れる。けれど、そんなものに何の価値も見出せない。
「……も、いいです。撫でなくていいですから、触るの、まって、服、脱げない」
このままだと進まないので、協力的に服を脱ごうとした手を止められる。
「いいよ、脱がしたくなったら、俺が脱がすから、もう少し俺と遊んでよ」
「は……そんなの犬みたいに」
「犬でいいじゃん、可愛いしよしよし」
どこまでも明るい体の触れ合いに戸惑っていた。部屋の電気も消えていないし、会話のテンションだって修学旅行のそれだ。
「で、葉山くんさ、教えてよ。男同士って、どうやって気持ちよくなんの?」
「どうって、普通に、体触ったり……」
「普通ねぇ、普通でいいなら、俺が好きなようにするけど、いいの」
「最初から、いい、って言ってるじゃないですかっ」
「そう、じゃあ、キスしたい」
「いい……ですけど」
「気持ちが乗ってると、セックスするより気持ちいいから」
一方的に組み敷かれて、好きに身体中を弄ばれる行為しか知らなかった。キスをしたいと言った岬が、どうしてそう思うのか、葉山には分からない。
唇が重なるだけの行為。どんな魅力があるのか分からない。もし好きな人とするなら、気分がいいかもしれない。けれどこれは葉山に頼まれてするセックスだ。そんな葉山とキスをすることが岬にとってどれほどの意味があるのか、葉山には理解できなかった。
葉山が頭を撫でられて、手を握られたいと思っていたのと同じような気持ちなのだろうか。嘘でも満たされる何かがあるのだろうか?
「っ、っ、んっ」
くっついた唇に息を止め、頭をまた撫でられる。葉山が頭を撫でられるのが好きと言ったから、撫でてくれているのだろうか。
「目、閉じてよ、葉山くん」
言われるまま目を閉じると、途端に感覚が鋭敏になった。触れられる度に、体が驚いて何だか魚みたいで恥ずかしい。
岬に抱きしめられて、額に、頬に首筋に唇を滑らせていく。その軌跡に神経を集中させていた。
「っ……」
「どう? 感想は」
「……首、くすぐったい、なんか、背中、ぞわぞわする」
岬から与えられる刺激に集中していたせいか、拙い言葉しか出てこなかった。音が途切れ途切れで、声が絡まっていた。
「なんだ、ちゃんと言えるじゃん、感想。役者なんだから、言葉にして伝えるくらい朝飯前だろ、今日はさ……葉山くん感覚死んでるのかと思った」
「岬、さ……」
「ん?」
「なに、して欲しいですか」
「何って?」
「何されてもいいって、俺言いましたから、嘘じゃない、手でも口でも」
岬に自分が与えられるものがあるのだとすれば、それだけだと思ったから。
「えー、ほんと葉山くんムードないのな、そんな貧相な思考回路で、この先ラブシーンなんて演じられないよ?」
「ひん……そ」
「さっき想像しろって、言っただろ? 好きになってセックスする相手に、涙ながらに何でもしますって言われて葉山くんは嬉しいの? 興奮する?」
「けど、男なんだから、気持ちよかったら、なんだって」
葉山の言葉に、岬はこれだから子供はと葉山の頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「男でも女でも、そう変わらないだろ。誰かが誰かを抱きたいって思うとき、気持ちよくなりたいってだけか?」
「……そうです」
「じゃあ、葉山くんから、キスして」
岬の言葉が理解できなくて、イライラした。
「ッ、もう、いいでしょう。いっぱいした。そんなので、岬さん、何が楽しいの、手でも口でも俺の体使ってした方が気持ちいいし、意味がある、違いますか?」
癇癪を起こしていた。岬から優しく触れられて、不安に押しつぶされそうになる。
「それさ、本気で言ってる?」
「……だって……分からない。理解できないから。俺は、自分が欲しいものを手にいれるためにしか、自分の体を使えない。そうやって生きてきたから、今更、今だって、役者を続けたいから、岬さんにこんなこと頼んでる。それしかもう、使えるものがないから、だったら、岬さんだって、気持ちいい方がいいって、そう思う」
「――葉山くん。いいから、キスしてよ。分からないなら、分かるまで、何度でも。俺がそうして欲しいと思ってる」
「ッ……」
自棄だった。葉山は、岬の唇に自分の唇を押し当てる。こんなことに何の意味があるのか、岬に何のメリットもないと思っている。
ベッドの上に座って何度も岬の唇にキスをした。岬に手を握られている。そんなことをしなくても逃げたりしない。
「葉山くん、口、開けて」
「っ、ぁ……」
岬は葉山の唇をこじ開けるように舌でなどった。歯列を割って侵入した岬の舌を、口の中でどうしたらいいか分からなくて、自分の舌が逃げ惑っている。岬はそれを面白がって追いかけて舌を絡めてきた。
手を繋いでいない左手が、葉山の頭を撫で、首筋に触れた。
体を撫で回している間に岬の手の形を葉山の体が覚え始めていく。馴染んでいく。
「どう? キスの感想」
「くる、しい、胸が、痛い」
「そう、なら良かったな。痛くても、苦しくてもいいって言ってたし」
首を絞められているわけでもない。ナイフで切りつけられている訳でもない。
それなのに、苦しくて、痛くなる。
「……くるしい」
「確かに、葉山くん、すごいドキドキしてる。胸、痛い?」
岬が唇で触れた頸動脈と、服の上から触れられた心臓がバクバクいっている。
首筋で脈打つ音と心臓の音が同じ速さで時を刻んでいた。
「いたい……」
「俺も、痛いな」
「どうして?」
「さあね。けど、多分葉山くんと一緒だよ。俺も、欲しいもの諦められない」
分かるまでと言われたキスは、唐突に終わった。ただ苦しくて痛いだけのキスに、岬が何を納得して、何を諦めて、何を決意したのか、葉山には分からなかった。
けれど酸素が足りなくて何も考えられなくなった頭の中、服を全て脱がされて、やっと岬が抱いてくれるんだと分かった。
「うわ、肉、足りな、細っ、簡単に壊れそう、葉山くん」
お互いの肌色を晒して、真上から見下ろされて、今更ながら岬の好みでもない体を抱いて貰うことに少しだけ申し訳なさを感じた。
「壊れても、いいです」
「やだよ。葉山くん、俺好みの面白い俳優になるんだろ? そのためにシてるんだからさ……簡単に壊れないでよ」
子供に約束させるように、岬はそう言った。夕ご飯までには帰ってきなさい。そういう大人が子供に言い聞かせる声色。
「……はい、ごめん、なさい」
「謝るなら、最初から、抱いてとか言うなよ」
岬にそのまま抱きしめられて、首筋をゆっくりと舌でなどられた。
「ッ、みさき、さ」
「なに?」
「ごめんなさい」
「それは、なんに対してのごめんなさい?」
「岬さんに、嫌なこと、お願いしてるから」
「俺、なんかお願いされてる? 何もされてないけど、手握って頭撫でるくらいで」
「そうじゃなくて、俺、胸、ないし、貧相なのに、抱いてもらってるから」
「じゃあ、もっと、お願いしてよ。その方がやる気出るから」
「どんな、お願い、したらいいですか」
「それは、自分で考えなさい」
――キスって、こんなに気持ちいいんだって知った。
だから、もう一度、キスをねだった。岬は優しく応えてくれた。
「っ、ぁ、みさき、さ」
「今度は、何ですか?」
呆れているけれど、葉山が名前を呼ぶ度に岬は楽しそうだった。
「岬さん、気持ちいい、ですか」
「葉山くんはどうですか?」
お昼の番組のような呑気な声で返されて、また振り出しに戻っていた。修学旅行から、お昼の呑気な番組に雰囲気が格下げだ。どうすれば岬が言うようなラブシーンになるのか、分からない。岬の言うような当たり前の感情が分からなくて、葉山が戸惑い感情を爆発させても岬は流されない。
意識が暗闇に引きずられて沈み出すと、岬に乱暴に抱かれたくなる。壊して欲しいと葉山が泣くたび、優しく頭を撫でて手を握られる。
岬は葉山が知らないことを根気強く教えてくれる。けれど恋人同士の演技にはならなかった。
岬は考えろと言った。だから葉山は一生懸命考えた。そして岬が嬉しそうにしていたことを思い出した。
「岬さん」
「はいはい何ですか、葉山くん」
「岬さん」
呼ぶたびに、岬は笑ってくれる。嬉しいと思った。
「岬さん、手、握ってください」
「いいよ。他は?」
溶けるような岬の微笑に、苦しくて痛いが、どんどん増えていく。
「頭、撫でて、キス、してください」
岬の目が一瞬妖艶に光った。葉山はその視線の意味を知っていた。欲に塗れて自分を汚した男の瞳と同じ色をしている。けれど少しも怖いとは思わなかった。
「ね、葉山くん。嘘でもいいから、好きって言ってよ。好きだから、してって、気持ちいいからって」
どうして、と聞けなかった。ただ、言われた言葉を繰り返した。
「……好き……岬さん、好きです、してください、して欲しい、気持ちいいから」
体に熱が灯る。葉山の体の上を岬の大きな手が滑る。
「ッ、や……だ」
「やだ? ねー、気持ちいいって、言ってよ、葉山くん」
こくこくと何度も頷いていた。岬に操られているだけ。恋人同士が演じられるように。正しい感情を、何度も、何度も教えられる。
葉山が知らなかった心を教えてくれる。
岬は自分の思い通りに葉山をコントロールしているだけ。
全部、岬の演技だと分かっていながら、気持ちいいと言って、岬に縋って喘いでいる。
好きでもない相手を、その気にさせて、好きにさせる。
抱き合うことの気持ち良さなんて知らなかった葉山は、岬の演技でセックスの気持ち良さを知った。
知りたいと思っていなかった恋の甘さを知って、作り物の綺麗な気持ちで上書きされている。
全部、全部、葉山が望んだことだった。
「俺も気持ちいいよ」
岬に言葉を返される度に、心が悲鳴を上げて、どうしようもなかった。
「なんで……まだ、何もしてない」
「葉山くんは、バカだな、分かってると思ったのに、分かってない。ま、可愛いけど」
「……ねぇ、これ、全部、演技、ですよ、ね」
笑って、優しくされて、呼べば返事してくれて。全部、葉山が欲しがったもの。
岬は、葉山が望んだものを見せただけ。
上書きして、怖いものを見えなくして欲しいと言った、その望みを叶えただけ。
役者として、この先も演技ができるように。
あぁ、想像した通り、やっぱり、全部綺麗なところに収まってる。
「どっちがいい? 葉山くんが、選んでよ」
「ッ……もう、どっちだって、いいです」
自分が、岬を信じられなくした。この先、きっと何を言われても、岬の本気も嘘も自分は見抜けない。
「投げやりだなぁ、葉山くんが望んだんだろう? 怖いもの見えなくしてって」
微笑みかける岬の勝ち誇った顔に、葉山は分かっていたのに、悔しかった。悔しくて、苦しくて、大嫌いで。
知らなかった感情を手に入れて。初めて知った感情をその瞬間に失っていく。岬に好きだといって、優しく体に触れられる度に消えていく。その感情に蓋をした。蓋をして、岬に縋って、ねだって、先を欲しがった。もう、壊して欲しい。
「葉山くんが、この先どんな役者になるか、俺は楽しみだな」
「……岬、さん」
その先は? 何も望まない、絶対に、望まない。これでよかった。
「葉山くん。怖くなくなった?」
怖く無くなっていた。もっと怖い感情を知った。
「……岬さん、気持ちいいこと、したい……全部忘れたい、忘れさせて」
「いいよ、もう忘れよっか、全部」
忘れられるはずがない。
どんなに気持ちいいセックスをしても、身体中を甘やかされて、愛されても。
痛めつけられて、苦しめられて、汚されて、壊されて、そうやって上書きされるはずだった行為が、別の気持ちで上書きされていた。
過程が何一つ、葉山の想像通りじゃなかった。結果が想像通りだっただけ。
*
全部終わったあと、こんなはずじゃなかったと思った。
互いの荒い呼吸が静かな寝室に響く。
「よかった?」
岬は葉山の言葉を聞き返して、顔を近づけた。
葉山は黙ったままシーツに顔を埋めた。
「葉山くん、少しは労ってよ。男初めてで、頑張ったんだから」
「……嘘つき」
葉山はベッドの上から岬の顔を見上げる。
「は、何が?」
「誰も呼んだことないって言ったのに、寝室にゴム置いてるから」
葉山の言葉を聞いて、岬は鳩が豆鉄砲を食らったかのように一瞬、目を見張った。
「……本当、葉山くんは、可愛いね。狙ってやってないんだもんなぁ」
岬は呆れたように言うと、静かに隣で笑って、また、頭を撫で手を握ってくれた。
葉山は、また行き場のない思いを重ねてしまった。




