好きが嫌いな人-2-
* * *
――葉山真幸は、孤児だった。
なぜ役者になったかというと、昔、暴力を振るった養父の家を飛び出したとき、街でスカウトされたからだ。
過去の経歴は事務所の社長しか知らないトップシークレット。
ネットに載っている自分のことは嘘ばかり。
多分あの日、役者の世界へ足を踏み入れなかったら、体を売って生活していた。
そもそもスカウトについていったときは、名刺もきちんと見ていなかった。大手の芸能事務所だとは思っていなくて、いつまでたっても服を脱がなかったことを不思議に思っていたくらいだ。
何を要求されても驚かない自信があった。
葉山の酷い境遇を聞いた社長が、周りの面倒ごと綺麗に片付けてくれて、新しい名前を手に入れた。
以来、事務所が決めたアイドルみたいな「葉山真幸」を演じ続けている。
養父に付けられた体や顔の傷を綺麗に消し、徹底して過去の暗い自分を消したのは逃げるためだった。
無論、いま入院している養父が自分に気づくとは思えないが、アイドル路線をおしたのは社長が用心したからだ。
葉山自身も新しい自分を望んでいた。
違う自分になって、すべての過去をなかったことにしたかった。
それでも「暗い過去」というのは、そう簡単には消えてくれない。長年染み付いた昔の自分は、ずっと根っこの方で「忘れないでくれ」としつこく生き続けていた。
必要以上に他人の顔色を伺う癖。
偽物の家族の中で生きていく為に必要だった高い演技力。
けれど、そんな捨てたはずの過去の欠片が、役者として花開くきっかけになった。
葉山が監督の望む役を完璧に演じられるのは、努力や才能なんかじゃない。生きるための処世術だった。
そうすることでしか、苦しみや痛みから逃げられなかった。
そんな葉山が岬圭一と出会ったのは、ドラマの仕事が増え始めた頃だった。
同じ事務所の先輩。
初めてあった二年前でも、すでにテレビドラマから引っ張りだこの売れている役者だった。
第一印象は、とても華がある人。
事務所の廊下ですれ違ったとき、彼の匂い立つような美しさに目を奪われた。自分にはない、大人の魅力に溢れている。
赤い薔薇、カサブランカ、胡蝶蘭、芍薬。派手な花なら、なんでも岬に似合いそうだった。
葉山には岬のような華はない。ファンの子に「後ろに輝く星が見えるよ」って言われたことがあるけど、きっと彼女に見えたのは一瞬の星屑だろう。
――だって葉山は、この「アイドルみたいな自分」の役を仕事で演じているだけだから。
岬と初めて共演したドラマは、長台詞の多い刑事ドラマだった。
「おっはようございます。葉山真幸です。岬さん、本日はよろしくお願いします!」
新人らしく元気な声で楽屋へ挨拶に行くと、岬は観察するようにじっと葉山の顔を見た。
切れ長のくっきりとした二重。一瞬、睨まれているのかと思った。
その狼みたいな瞳に囚われて身動きが取れない。
何か変だっただろうか、と内心焦っていたが、口角を上げ笑顔はキープしたまま岬の返事を待った。
「おはよう。ねぇ、葉山くん、それ、疲れない?」
静かな声。でも正しい発音のよく通る声だった。しっかりと基礎から演技を勉強している人の話し方だ。小さな声でもよく聞こえた。
それ、と言われたのが何なのか、葉山は一瞬分からなかった。けれど、少しして葉山自身のことを言われているのだと分かった。
「あの。社長から何か聞いてるとか、俺のこと」
「ん? なんも聞いてないよ」
岬と初めて言葉を交わして、この人も自分と同じで「裏表のある人」だと思った。
楽屋でコーヒーを飲んでいた岬は、ひどく物静かだった。初めて事務所で見たときは、あんなに派手な華を背負っていたのに、今は近所のお兄ちゃんのような気安さを感じる。
――俺、お兄ちゃんいたことないけど、ね。
どちらかといえば、葉山は今まで誰かの面倒を見る方の立場だった。子供の頃を過ごした辛く寂しい施設での生活が頭を過った。
「えっと、猫かぶってるとかじゃないんですけど。これは仕事用なので、気に障ったのならすみません。気をつけます」
丁寧に言葉を選んで謝罪を述べていた。
愛嬌があって、明るいのは仕事用だ。それに無理をしている訳じゃない。そもそも役者をする上で「本当の自分」なんてものは邪魔にしかならないと思っている。
葉山の場合は、演技する上で過去は邪魔なものだった。
「へぇ、今ので俺の言いたいこと分かったの? すごいね。さっすが期待の新人くん。演技楽しみにしてる。まぁ肩の力抜いて頑張ってね」
「あ、ありがとうございます」
岬の前で平坦になった自分の声。マネージャーや社長は抜きにして、葉山は現場でこんなふうに誰かと「普通」に喋ったことがなかった。
過去を消してから、ずっと撮影現場では事務所が作った葉山真幸だった。それで不都合はなかったし、演技が見抜かれたのは、これが初めてだった。
「うん。いいんじゃない? 同じ事務所だし、疲れるから俺の前では「それ」でお願い」
「わかりました。では」
「あ、待って。ねぇ、葉山くん」
頭を下げて、楽屋から出ようとドアノブに手をかけた瞬間、名前を呼ばれ足を止めた。
「そのキラキラなアイドルも良いけど、四六時中それだと、近いうちに自分を見失うよ」
「そういうもの、ですか?」
「演技上手いんだし、この仕事長く続けたいでしょう?」
「どうでしょう。今はこれしか出来ることがないから、分かりません」
与えられた仕事。ここにしか居場所がないから、ここにいたい。葉山はそう思っている。
これ以外の生き方を知らない。
この道を選ばなければ、今も、あの歪な家にいた。あるいは、死んでいたかもしれない。
きっと自分は、死にたくなかったから、役者になった。
前向きなのか後ろ向きなのか、葉山は自分でもよく分からなかった。
「それは、もったいないなぁ。君、凄く面白いのに。とりあえず、さっきのアイドルちゃんの演技は良かったよ」
岬はそう言って、口元に手を当てて含み笑いをした。お兄ちゃんキャラだと思ったけど、いつの間にか役者の岬になっていた。
撮影時間が近いからかもしれない。
「面白い、ですか?」
「うん、面白いよ。役自体は君に馴染んでるのに、感情が全然乗ってないのは惜しいね」
「感情って」
「それだと、まだ君の中に二人いるみたいってこと。――ま、そのうち分かるんじゃない?」
「は、はぁ……そう、ですか。あの、では、そろそろ失礼します」
「じゃあ、頑張ってね」
岬にひらひらと手を振られ、葉山は楽屋から出る。
(何だ、あの人)
挨拶に行った先で、疲れるだろ? と言われた。
狐につままれたような不思議な気分だった。
その時点では、岬に言われた「そのうち自分を見失う」とか「疲れる」という言葉は、あまり気にしていなかった。
けれど撮影が始まって、葉山は岬の言葉を嫌というほどに理解した。
普段なら葉山のシーンは、一回で撮影が終わる。
葉山にとって役者の仕事は何も難しくなかった。監督に言われた通り、望まれた演技を普通に見せるだけだと思っている。
現場ではいつも「君が出演者だとスケジュール通りに撮影が終わる」と感謝されていた。
けれど、その日は何度やっても、監督のオッケーが出なかった。
(ちゃんと、指示された通りにやっているのに、どうして)
緊張状態がずっと続き、現場の空気が張り詰めていた。
何度も繰り返し同じシーンをやっている。何度もカチンコの音が鳴る。
演技することで、疲れることなんてなかったのに。
見失うような自分なんて、持っていなかったはずなのに、消したのに。
自分の立っている場所が、崩れてなくなっていく。そんな恐怖を感じていた。真っ黒な石が体の内側を無遠慮に侵食してきて、身動きが取れなくなっていく。足が重い、動けない。
スタッフの焦りや、苛立ち。呆れる息遣い。スタジオの空気が次第に薄くなっていく気がした。
台詞も間違っていないし、ミスは何もしていない。
それなのに、いつまでも終わらない。付き合わせている相手役の岬にも迷惑がかかっている状況だった。
葉山の内側にあるたくさんの正解の演技、そのどれとも糸が繋がらない。世界と自分の境界が消えそうだった。
何度目かのリテイクを食らい、監督がスタッフたちとカメラの映像を確認をしているときだった。
ADが不注意で資材を落とし、派手な物音がスタジオに響く。
そのガラスが割れるような耳を擘く音に、思い出したくもない消した過去が頭の中でフラッシュバックした。
消したと思っていた過去は、消えていなくて、ずっと自分の中に生きていた。
葉山真幸は、二人いる。
――どうして、お前はちゃんと出来ないんだ!
葉山は急に息が出来なくなって、その場に膝をついた。いくら息を吸っても苦しさはなくならない。それどころか、どんどん息が出来なくなる。
「ッ……はぁ、ぁはぁ……」
床に膝をついて前のめりに倒れ込んだ。周囲のスタッフは、そんな葉山を見て慌て始めた。冷静に周りの状況は見えているのに、全てが遠い。怖い。
岬から酷い言葉で罵られると思った。冷静に考えれば、こんな状況で葉山を怒鳴る人はいないと分かる。
けれど、その時は過去の出来事が思い出されて、恐ろしさで震えていた。もう小さな子どもでもないのに。
「葉山くーん大丈夫? 疲れた? だから言ったのに肩の力抜けって、頑張りすぎるから」
頭上から聞こえた岬の声は、驚くほどノーテンキで落ち着いていた。
苦しくて、ぼろぼろと溢れる涙。現場で泣いているのが恥ずかしくて、こんな自分じゃ駄目だと思うのに、普段の自分が思い出せない。アイドルで、キラキラして、そんな自分を見せようとするのに演じられない。
監督やスタッフの焦った声。救急車を呼ぼうとする声が遠くに聞こえているのに、大丈夫だというその一言が言えなかった。
葉山が何も言えない代わりに、岬が饒舌に喋っていた。
「ただの過呼吸でしょう。シリアスなシーンと長台詞、何度もやらせるからですって」
岬が言う通り、それなら大丈夫だと思うのに。やっぱり上手く呼吸ができない。周囲の誰の声もざらざらしてあまり聞こえないのに、岬の声だけは、はっきりと綺麗に聞こえていた。
「ねぇ監督。俺も疲れたんで、ちょっと休憩もらっていいですか? 三十分くらいで再開できるんで、俺、タバコ吸いたい」
「そ、それは、いいが……いや、けど、葉山くんが」
「大丈夫ですって。すぐ治るし過呼吸くらいで役者は死んだりしませんから」
「し、しかし、ね」
「俺、葉山くんの事務所の先輩なんで、ちゃんと面倒みますよ。だから、皆さんも、ゆっくり休憩しててください、ね」
岬は言うなり動けなくなった葉山をひょいと荷物のように肩に抱き上げた。まるで米俵だ。
面倒見るといった岬は、言うほど面倒見の良い先輩には見えない。きっと、楽屋に帰ったら「こんな簡単な演技もできないのか」と叱責される。そして、役を降ろされる。
役者じゃなくなる未来の自分を想像すると恐ろしかった。
誰もいない薄暗い撮影スタジオの廊下。葉山は岬に資材のように運ばれている。岬が歩くとコツコツとリノリウムの音が響く。肩に担がれているから、岬の背中と長い足しか見えない。葉山が暴れるからか、途中で前に抱え直された。
「何、まだ、泣いてるの?」
顔を覗き込まれて、必死で首を横に振った。
「っ、はっ、ッ、ごめんな、さい。ちゃんと、するから……」
「うん、そうだね。君は役者だ。だから舞台から降りちゃ駄目だよ。降ろされるまでは」
「……ッ、ひっ、父さ」
一瞬見えた廊下の奥の暗闇。夢と現実が交錯する酷いパニックを起こしていた。葉山の口から、うわ言のような謝罪が、乱れた呼吸と共に溢れた。
「俺は、お前の父親がどんなやつか知らないけど、似てんの? 俺と」
岬は呆れたように深いため息を吐いた。
「……ッ、ちが……います。ごめんなさ……」
「あのさぁ。今、葉山くん抱っこしているの、優しい岬さんだよ? あーもう泣くなよ」
泣くなと言った岬は、また近所のお兄ちゃんのような空気を纏っていた。岬のその声だけが葉山を現実に引き止めていた。自分で自分のこと優しいって言う人間がいるんだって思った。葉山は岬の本当なんか知らないし、なんの説得力もない。
ただ、岬は心底困っているような声だった。それが自分のせいなんだと思うと、さらに情けなくてまた涙が溢れた。
岬の楽屋についた頃にはパニックは収まっていたが、呼吸は乱れたままだった。
ソファーの上に降ろされると、岬にタオルを投げられた。
「病気じゃないんだから死なないし、それクセなんだったら治し方覚えろよ。ゆっくり息吐く。吸いすぎ」
「ッ……、無茶くちゃ……な、ッ」
「そうそう、喋ってればそのうち治る、あと十分で治せよー。アイドルちゃんなんだろ泣くなよ。可愛い顔がブサイクになるし」
「ぁ、アイドルじゃなくて、俺は役者です!」
言い放った瞬間、小さなプライドを見つけた。
自分でも信じられなかった。葉山は、このとき初めてはっきりと自分のことを「役者」だと言えた。
葉山は何が何でも役を最後まで演じたいと思った。
目の前の岬に負けたくなかった。
「おーよく言った。偉いなぁ、葉山くんは」
完全に子供あつかいだった。
岬は葉山の隣に座り、休憩と自分で宣言した通り煙草に火をつけた。
呼吸が苦しい人間の側なのに平気でタバコを吸う。葉山が思った通り、岬は面倒見のいい人間なんかではない。自分がしたいことしかしない男だった。
葉山の苦しさを本当になんでもないことのように思っている。
その岬の様子が、あまりにも普通だったから。消したかった悪夢が霧散して、葉山は自分を取り戻していた。
けれど取り戻した自分は、アイドルでも、キラキラでもなくて。
ただの、自分だった。涙でぐしゃぐしゃになっていた顔をタオルで擦り、岬をまっすぐに見る。
「――治ったな、早いじゃん。さすがプロの役者だね、根性あるよ。仕事に穴開けたくないもんな」
「時間もらって、すみませんでした」
「いいってことよ。あ、お茶飲む?」
岬にペットボトルを差し出され、それを両手で受け取った。
あれほど死ぬかと思っていたのに、発作が治まってしまうと、さっきまでの苦しさが嘘のようだった。
「あのさ、繊細な人間なんて世の中ごまんといるんだから、葉山くんだけじゃないよ。俺はそういう役者の方が面白いと思う、なんもない人間より、絶対いい役者になるから。お兄さんは楽しみです」
岬は、また葉山のことを「面白い」と言った。
そして葉山は、話しているうちに岬のした悪戯に気付いてしまった。
岬は面白くするために、何度も撮り直しになるように演技をした。
「撮影さ、葉山くんの演技が駄目で、何回もやってる訳じゃないから。――単に、監督がまだ若くて正解迷ってるだけ。だから葉山くんは空気読んで律儀に全部応えなくていいよ。自分の正解の演技で良いんだから」
葉山が場の空気を読んで計算して演技をする人間だということを、岬は最初から知っていた。
「――岬さん、が、監督にそうさせたんですよね」
わざと外した演技をして監督に正解を迷わせた。そして同じように葉山も演技に迷った。
「ん、なんのため?」
岬は目を細めて葉山を見る。葉山の答えを待っていた。
「面白い、と思ったから、です」
「おー怖い。そういう人間がいるって知ってたけど、素でやるんだね。エスパーとかじゃなくて、野生の勘みたいな。分かっちゃうんだよねー君は」
岬は「面白い」それだけを理由に演技をしている。
「岬さん。俺って、そんなに面白いですか」
「面白いよ。何があっても最後まで演技できそうだし、君は本物の役者、かもしれないね」
怖い人、だと思う。
この人には、葉山の本当が、演技が、全部透けて見えている。
そして、まだ新人の葉山を対等の役者として見ている。面白いという理由だけで。
わざと葉山が苦しくなるような状況を演技で作って、現場をかき乱した。
最後まで演技が出来るかどうか試すため。
「俺は最後まで、演技できますよ。役者ですから」
葉山は揺るぎない瞳で岬の両の目を見た。品定めするように見つめ返される。本物の役者の瞳。
ここで怯めば、もう岬と同じ世界に行けない気がした。だから岬の瞳を見続けた。
役者になる、本物の役者になって、岬の隣に立っていたい。
「……ねぇ、さっき、怖いもの、見たんじゃないの?」
岬は少しだけ眉を顰めて葉山を見た。一瞬だけ見せた、その岬の優しさを葉山は見なかったことにした。
助けてあげるよ。優しくしてあげるよ。抱きしめてあげるよ。
その好ましい、甘く優しい空気に、視線に、ジリジリと心臓のふちが痛む。
最後まで自分を対等に見て欲しいと思っていた。
昨日までの自分なら、助けて欲しいと自分の境遇をつぶさに語っていたし、もうこれ以上一人では抱えきれないと音を上げていたかもしれない。
この人に、救われたいと思ったかもしれない。けれど、それは今の自分の望みじゃなかった。
岬と同じ役者でいたかった。
「少し、疲れてたみたいです」
葉山は過去の凄惨な話をするわけでもなく、倒れた理由を疲れていたことにした。演技を続け、役者であり続けることを選んでいた。岬がくれる優しさも憐れみも必要なかった。
岬の前に立つ役者の自分は「可哀想な過去の自分」など必要としていなかった。
岬が葉山のことを役者として面白いと言ったから。それだけのことで、生きられた。
「葉山くんのそういう頑張り屋さんなところ、いいと思うよ。俺、好きだなぁ」
「俺も、そう思います」
岬が好きだと言う「役者の葉山真幸」なら好きになれた。
ただの岬の興味。撮影現場で遊ばれただけのこと。
その後の撮影は順調に進み、あっさりと全部一回で終わった。
――岬圭一は、役者が好き。正確には、本物の役者が好きらしい。
このドラマの撮影以来、葉山は本物の役者になると決めた。どんな役でも演じてみせる。今はアイドル路線の俳優という立ち位置だったが、それでいい。
岬の興味をずっと自分に向けたいという目標ができた。
これしかないから、みたいな理由じゃない。自分は、これがやりたいと思えたのは、ほかでもない岬圭一と出会ったからだ。
岬は、無価値で、薄っぺらな偽りの葉山に「面白い」という価値をくれた人。
この件で葉山が、どれほど救われたか岬は知らないし、伝えるつもりはなかった。
葉山は一つ目の行き場のない思いを胸に抱いた。




