嫌いが好きな人-5-
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半ば拉致される形で連れてこられたのは、山奥にある久我の屋敷だった。数年前、葉山はこの家を出た。
葉山にとっては古いだけで、その道の研究者たちにとっては、歴史的に価値のある美しい建造物だそうだ。元は、明治期に外国人建築士に作らせた迎賓館だったと聞いている。
二階にある奥の私室は出て行った当時のまま。それどころか、埃一つなく綺麗に掃除もされていた。
葉山の私物なんて、既に処分されているものと思っていた。
昔なら自分のために残しておいてくれたのだと、勘違いをしたかもしれない。葉山は彼らのこういった見栄を、自分に向けられた優しさだと思っていたから。久我が欲しかったのは子供という記号だった。
外からみれば、さぞ整った美しい家族に見えていただろう。
葉山は養母に指示された通り、部屋のクローゼットの前に吊られている喪服に袖を通した。
いつも静かで、人の気配がしない大きい箱。この大きな箱の中に初めて連れてこられた日のことを思い出していた。簡単に感情が引き戻される。
諦めていた自分と、諦められなかった自分が、半分半分だった。
家族が欲しかった。
当たり前のように誰かに愛されたかった。少しでもいいから、自分のことを見て欲しかった。願ったところで「普通」など手に入るはずもないのに。
着替え終わったところで、急に体が震えた。その震えを止めようと腕を手で押さえる。
「……なん、で、こんなことで」
葉山は自分のことが怖かった。
養父が死んだ。こんな時だからこそ軽薄な自分であるべきなのに。感じたくもない感傷に頭の中を勝手に支配されていく。
約束を守らずに会いにきた養母。葉山が受けた酷い仕打ちについて、何一つ社会から裁かれることもなく、養父が死んだこと。
世間から慈善家として当然のように彼が弔われること。こんなにも憎んでいる男の首を自分の手で絞められなかったこと。
葉山にとって何もかもが、許せない。
それなのに目の奥が真っ赤になるほどの怒りは、この部屋の中に入ったときには消えていた。
あの男に与えられた部屋で一人になり、勝手に頬を伝った涙。葉山はそれが悔しくてたまらなかった。
「嫌だ……こんなの」
どんなに憎んでも、それでもあの男は自分を選んでくれたのだと、刷り込まれた偽物の愛情が、頭から今も離れない。絶対に抱くことがないと思っていた悲しみが、確かに心の中にある。最後まで報われなかった心が悲しくて、いつまでも叫び声を上げていて苦しい。
「嫌だ……」
葉山は、それ以上何も考えたくなくて、その場にしゃがみ込んだ。耳を塞ぎ目を閉じた。何も見たくない、何も聞きたくない。
――おいで、遊んであげよう。
この部屋の扉が開き、手を引かれた。やっと、自分は誰かに選ばれたのだと、喜んでその手を握り返した。
「……だって」
欲しかった。特別が。
葉山は頭を振った。耳にまとわりついて離れない声を上書きした。
赤い絵の具と黒い絵の具が、頭の中でめちゃくちゃになっている。
――手、握って、頭撫でて。それが気持ちよかったのか? それくらいセックスしなくても、男でも女でもしてくれるだろ。葉山くんがしてっていったら、誰でも頭くらい撫でてくれるよ。
「……岬、さん」
突然降って聞こえた声に目を見張る。何も信じられない頭の中で、岬の言葉に縋っていた。あんなにも、信じられないと思っていたのに。
(誰でも……誰だって……)
再び頭を擡げた正しい怒りに安堵する。一人この部屋で悲しさと寂しさに押しつぶされなかったことに救われていた。
彼らのことを、これ以上、自分の特別だと感じたくない。あれも、これも、全て。彼らにとっては、ほんの些細な、取るに足らないことだった。自分はずっと利用されていただけだった。葉山は、何度も何度も自分に言い聞かせた。
岬に出会わなければ、きっと今も悲しむことしか出来なかったし、その苦しさに再び潰されていた。
悲しさと等しく激しい怒りを感じられたことが、葉山にとっての救いだった。
誰でも出来ることを、唯一無二の愛情の証なのだと、信じるしかなかった葉山に、岬は同じように手を握って、頭を撫でて、キスをしてくれた。
愛があっても、愛がなくても、体は重ねられる。
けれど、この冷たく大きな箱の中では一度も感じられなかったものが、岬の部屋にはあった。
同じでも違うのだと、教えられた。知らない方が幸せだった。幸せな方が不幸だなんておかしな話だ。
岬に触れられて、少しも嫌じゃなかった。もっと触れたかった。
岬の温かな心を知ったことで、悲しかったこと、悔しかったこと、怖かったこと。
後悔して何度も、何度も岬にも自分にも腹が立ったこと。
――救われたくなかった。それでも救われてしまった。
ぷつりと糸が切れるように、思考に隙間が出来たときだった。カバンの中に入れっぱなしだったスマートフォンの振動音が部屋に響く。
屋敷に着くまで一度も着信を確認していない。事務所の待ち合わせ場所から、榊原に何も言わずに出てきてしまった。葉山は慌ててカバンの中から端末を取り出す。
「……ッ」
小さなディスプレイに表示された名前。頬を伝うばかりだった涙が一瞬で引っ込んだ。頭を突然鈍器で殴られたような感覚だった。
心の底から驚いた。
(岬、さん)
知り合ってから数年が経っているのに、電話どころかメールさえもらったことがなかった。その岬から、電話がかかってきていた。驚いた拍子に手から端末が滑り落ちて絨毯の上に落ちる。
うーうーと存在を主張していたバイブレーションが、床に落ちた途端、静かになった。葉山は床に膝をつき端末を拾い上げ、もう一度ディスプレイを見る。
嘘でも幻でもなく岬圭一からの履歴が残っていた。
もし、今ここでリダイヤルを押せば、何か変わるんだろうか。
――助けてって、何で言わないの?
何度も岬は言った。
じゃあ助けてって言ったら、岬は葉山をここから助けてくれるんだろうか。何の見返りもなしに。
何も返せない。
好きになる資格も、好きになってもらう資格もない。欲しがってもらえた体さえも、岬の心を傷つけるものでしかない。
助けて、ってどの口で言える?
がちゃりと耳障りな音が部屋に響き、重い扉が開くと養母が顔をのぞかせた。
「支度にいつまでかかってるの? 車待たせてるのよ」
「……今行きます」
端末を再びカバンの中に押し込んで養母の後ろを歩く。
もう二度とこの屋敷にこなくていい。自分にとっては喜ばしいことなのに、清々するはずなのに。
車に乗りバックミラーからどんどんと離れていく久我の屋敷を見ても、心が重くなるばかりで、少しも心が晴れやかになることはなかった。決してやり直すことができない過去の自分に対する後悔ばかりが重なっていく。
その後悔の心は、ふつふつとした怒りに変わると同時に、葉山へ冷静さを取り戻させていた。
何のために、自分が役者になったのか。
変わりたかった。岬のように演技の世界で自由に生きたかった。自分は、役者だ。悲しいまでに、その欲求に囚われている。
あの日、葉山は一番自分が嫌っていた、身勝手な自分と向き合うと決めた。
決めたから。
どれほど願ったところで、彼らに従ったところで、もう欲しいものは手に入らないと知っている。
――欲しい、もの。
役者である自分を失うこと以外に、怖いものなんて何もないと、そう決めて選んだのは他でもない葉山自身だった。
(俺、やっぱり岬さんが言う通り、繊細でもないし、神経図太いな)
今まで作ってきた自分の役者としてのイメージを、立場を失いたくない。
このまま言われた通り、葬儀の場に息子として出席すれば、遅かれ早かれマスコミに自分のことを書かれるだろう。その瞬間、嘘で塗り固めた自分のネットのプロフィールが「真実」に取って変わる。
虚飾を苦しく感じていた自分でも、今まで努力して積み上げてきたものを失うことは、それ以上に許せなかった。これ以上、彼らに何も奪われたくない。
失うくらいなら、苦しさを背負う方が遥かに良い。
最後まで演じられると岬に誓ったのは、過去の自分だ。
「――あの、この先のサービスエリアで少しだけ車とめてもらえませんか」
都内の斎場へ向かう道中、車の中でずっと静かに下を向いていた葉山は顔を上げた。
「何よ、急に」
「……ちょっと、役作り、しないとダメかなって」
自分の顔には、正しく狂気が浮かんでいると思った。それを彼女に見せたいと思った。
「役作り?」
「見たいって、言ったじゃないですか。俺の演技。見せてあげますよ。だから少しだけ時間をください」
このまま斎場へ行けば、養父が死んだことの嬉しさで笑ってしまうかもしれない。そういってやんわりと微笑んだ。
葉山の本当の心なんて見せる必要はなかった。心の中に渦巻く複雑な感情なんて、これ以降、少しも彼らに見せたくない。見せる価値もない。表舞台でキラキラと笑って、楽しくやっている姿を見せることが、一番の復讐だから。
明確な殺意と、歓喜しかないと思わせたかった。
そんな事をしたところで気は晴れないが、少なくとも養父の葬儀で涙を一滴も流したくないと思っている。それだけは間違いなく、いま葉山が望んでいることだった。
高速のサービスエリアから、逃げられるはずもないと思ったのか、あるいは、葉山の狂気に気圧されたのか、葉山は望み通り車から降りる事ができた。
車に戻るつもりはなかった。
一度建物の中に入って、いつもカバンの中に入れている変装用の眼鏡をかけ、反対側から外へ出ると駐車場へと走った。昼間なら喪服姿で目立ったかもしれないが、日が落ちたことで目立つことなくまぎれることができた。
なりふり構っていられなかった。芸能人である自分が、不自然にこんな場所にいて、いくら無骨なメガネで変装しているといえ、演技力だけで乗り越えられるかは正直なところ自信がなかった。
「あのっ、すみませんっ。みんなに置いてかれちゃって、高速おりるところまで、乗せてくれませんか!」
目に入った一瞬の判断で缶コーヒーを手に持った、中年の男に声をかけた。賭けだった。出来るだけ自分のことを知らない人間。若い女性だと、気づかれる可能性があった。
「……ふぅん。いいよ、乗りなよ」
「ありがとうございます」
車がサービスエリアを無事に出たところで、助手席で息を吐く。
「にしても、ひどい友達だね。サービスエリアに置いていくなんて」
「その、喧嘩しちゃって、俺が悪いんですけどぉ」
「そっかぁ、大変だったね」
「ところで、さ。――このあとなんだけど」
安堵したのもつかの間。
横目で見た男の気味の悪い笑顔に、そう簡単に全てが上手くいくことなんてないよな、と少しの諦めを感じていた。




