嫌いが好きな人-2-
動けなかったから、その場に留まっていただけ。
岬が助けてくれるのを期待して、待っていたわけじゃない。
だから数分後、言葉通りに岬が葉山の前に現れたとき、ひどく戸惑った。ありがとうでも悪態をつくでも、なんでもいいから普段演じている葉山真幸としての言葉を返せば良かったのに。何もできなかった。
「大人しく待ってて偉かったね」
岬の思い通りにならない葉山が、今回に限って想像通りで嬉しかったのか、岬は機嫌がいいように見えた。
「いや、反応して。そんなに気分悪い?」
以前、岬の車に乗った時は、助手席に座るように言われた。けれど今回は荷物のように後部座席に放り込まれ、葉山が何か言う前に車を出された。
通りすがりの人が見たら良くて誘拐犯か、悪くて死体遺棄現場に見えただろう。幸い近くに人はいなかった。
「とりあえず、酒は飲んで無いんだな」
「……車で吐かれると困るから?」
「違う。ホント、葉山くんさ、わざと俺にだけ空気読めない機能標準装備してんの?」
さっきまで岬が着ていたトレンチコートは、葉山の荷物と共に助手席へ無操作に置かれていた。気障ったらしい細身のグレーのジャケットを着た岬と目があった。ミラーの向こうで岬は眉を寄せる。さっきまで機嫌がよかったのに、少し不機嫌になった。
「少しくらい飲んだって、酔ったりしないですよ」
昔、飲みたくも無い酒を無理矢理に飲まされていた。だから、ある程度の耐性があった。考えてみればあれも養父が自分にしていた虐待だった。冷静にそのことを思い出せている自分は、もう全てを過去にできている気がした。
見たくないものが見えなくなった。
「悪い子だなぁ、ダメだよ?」
「……慣れてるから、無理やり飲まされるの。でも今日は飲んでない」
自分が望む役者の仕事ができていて、岬も同じ仕事をしていて、全てが望み通りになった。
けれど、ずっと焦燥感に駆られて不安が消えない。だから来た仕事を片っ端から全て受けて、スケジュールをいっぱいにした。HIROTOに言われた通り、周りからは生き急いでるように見えていたかもしれない。
「――そんなもの慣れなくていいよ」
「岬さん?」
「葉山くんってさ、異世界で生きてたの? ここ日本、未成年の飲酒喫煙は法律で禁止されてるよ」
「未成年の横で、好きにタバコ吸う人に言われても」
「大御所俳優に同じこといってみろよ。俺じゃ無かったら、芸能界干されるよ」
車が交差点で止まり会話が途切れる。車が止まっているときに話せばいいのに、岬は走ってるときに喋る。
「言わないですよ。けど俺が干されたら、岬さんは嬉しいでしょ」
「今ところは、君が干されたら嫌かな」
「……今のところは?」
「うん、今のところは、ね」
先のことは分からないよと岬は続ける。まだ岬に役者として興味を持たれていることに安心して、今日まで胸を渦巻いていた焦燥感が少しだけ薄れる。
「で、酔ってないなら、なんで、さっき喋れなかったんだよ。気持ち悪かったんだろ」
「人に酔ったんです。最近朝から晩まで、人だけじゃなくて犬の相手もしてたし、限界で頭痛くて」
「犬って、あー朝番組? 葉山くん働き過ぎだよ。にしても人酔いって、葉山くんとはテーマパーク行けないな」
岬が唐突にありえない話をしてきたので、葉山は面食らった。想像力を働かせたところで、少しもイメージできない。どうしてそんなことを岬が考えたのかも分からない。
「行きたいんですか? 俺と」
「君が付き合ってくれるならね。耳つけてよ、ネズミの。似合うだろねぇ」
「――芸能界干されたら、一緒に行けますね。けど行く気なんてないでしょう」
「確かに、プライベートは一生ねーな。葉山くんも俺も役者やめる気ないし、残念」
「残念とか……」
「半分は、思ってるよ」
はっきりと告げた岬の声。
言っても仕方のない仮定の話だった。やり直せない過去とありえない未来だと、どちらを考えるのがマシか。つまらない話だった。
「で、葉山くん今からどこ行きたい?」
「……どこに連れてかれるんですか?」
そもそも岬がどういう意図で、葉山を車に乗せたのか知らない。
「葉山くんが行きたいところ? 言ってみてよ。ネズミの国はもう閉まるけど」
「静かなところで、一人になりたい」
岬が良心で葉山をあの場から連れ出してくれたのなら、家まで送ってくれるかもしれない。けれど、そうじゃないなら。――もう、どこだっていい。
「静かなところねぇ、どこだろ。まぁいいや。寝とけば、着いたら起こすから」
「寝て起きたら、山奥に捨てられてそうだから、嫌です」
「ほんと、口が減らねぇなぁ。いいから寝てろよ」
それきり岬は何も話さなかった。眠るつもりはなかったのに、一瞬だけ意識の途切れる瞬間があった。
感覚的には数分だった。次に目を開けたとき、葉山は暗闇の中で横になっていた。
周りからは何も音がしない。エンジンの止まった車の中。運転席にいたはずの岬もいない。
静かで、一人だった。
さっき葉山が自分で言った通りの場所にいた。
そして体を起こして窓の外を見ると、そこは山の中だった。
(……そんな)
葉山は恐ろしさに震えた。一人になりたいと言って、山奥に置いてかれそうだと葉山が言ったから。岬が本当に、やったんだと思った。
ほんの一瞬、狂気を感じた。
「あ、起きた?」
「ッ、みさ……」
後部座席のドアが開いて、缶ジュースを手にした岬が乗り込んできた。
よくよく周りをみれば、山奥でも、どこかの登山口の駐車場のようなところだった。遠くにポツリと自動販売機の明かりが見える。ただ深夜なので周囲に人は見当たらない。
「そんな驚く? 幽霊でも見た?」
目が覚めて、一番最初に今いる場所を確かめて安心する癖。
そんな染み付いた癖を岬に消されてしまったと気づいた。一人でよかったとは少しも思えなかった。葉山は目が覚めた瞬間、岬を探していた。
そんなに自分は弱くない。一人、山に置いていかれたって、それでよかったと思えたはずなのに。岬が車の扉を開けて隣に座って、胸をなでおろし息を吐いている自分が怖かった。
「はい、葉山くんミルクティーでいい?」
岬に手渡された缶はホットで手がじわりと温かくなる。静かな山の中には、岬と葉山しかいない。なんだか夢の中にいるみたいで現実味がなかった。
「……山に捨てられたんだと思いました」
「急に可愛いこと言うなぁ。どうしたの? 置いてかれて寂しかった?」
岬は葉山の隣で缶コーヒーに口をつけた。
「腹が立ちました」
怖かった。
口にはせず、心の中で答えた。
「はは、だろうね。けど、実際、葉山くんをここに一人置いて帰ろうと最初は、思ってたよ」
「え」
「あ、引いた?」
「普通にやばい人だし、冗談でなく?」
「別に信じなくてもいいけど。葉山くんが、この先ずっと撮影行けなくなればいいって思いながら運転してた」
「……まだ、降板させるの諦めてなかったんですね」
「『青の鬼火』? あー違う違う。……いや、まぁ、それもあるか。健康害してまで役者の仕事してる葉山くん見てんのツラいから」
狭い車内の後部座席に並んで座っている。当たり前のように心配されて、また怖くなる。
「……そんなの、困る」
「人の心配をするのが、そんなに駄目か? 俺のことなんだと思ってるの」
「でも、そんなこと、岬さんには、言われたくない。困るから」
「困らせるつもりで言ってるから、いいや」
岬は葉山の左の手を握った。まるで幸せな恋人同士のように指を絡める。
「ま、けど、樹海は抜きにしても、どこに君を置いてきたところで、得意の笑顔で車捕まえて、時間通りに明日の撮影に顔出すんだろうなと思ったら、腹立つからやめたよ」
「岬さんの、腹立つ基準がわからない」
「そ? 俺は、分かるよ葉山くんの沸点。俺にこうやって優しくされる度、自分のやったこと責めて泣きそうになるし。仕事やめさせようとしたら、怒って自分の体のことなんか、どうでもいいみたいに無茶するし」
握られた左手が痛い。
「さて、葉山くん起きたし、帰ろ」
「え……」
岬は唐突に話を切り上げて、後部座席の扉を開け運転席に戻る。今までの話を全て煙に巻くように。
「え、って俺、葉山くんのマンションの場所知らないよ。明日仕事早いし、さっさと寝たかったのになぁ」
車のエンジンをかけて、岬は芝居がかった声でそう愚痴をこぼす。
「だったら、岬さんのマンションに」
面倒ならマンションに帰ってそこで葉山を起こしタクシーを呼べば良かった話だ。
「それは駄目。葉山くん部屋に連れて帰ったら、抱きたくなる」
「……そんなに、よかったんですか」
もう全て終わった話を蒸し返した。
「どうかな、好きな方選んでよ」
どこからが、嘘でどこからが本当か分からない。だから。
「渋谷」
「なにそれ、葉山くんのマンションが俺のマンションのご近所ってこと? それとも」
今度は岬が、選べばいいと思った。
「――好きな方選んでよ」
ただの嫌がらせだった。
さっきまでの岬の演技をコピーした。空気を、音を、感情の動きを。車の中で、ずっと岬のことを考えていたから簡単に役が自分の中に降りてきた。心を読めた。正解はわからないけれど、いまここで、岬に向けて演じたい役があった。岬は、いつだって、こうやって人を翻弄する。同じことをしてみたかった。
「……なんだよ、急に葉山くん本気出してくるし。怖いなぁ」
暗い山道を下っていく。行きも同じ道を通ったはずなのに、まったく記憶がない。いつの間にこんな遠くまで来たのか。車の時計を見ると、夜中の二時だった。
岬が黙り込んだので、窓の外の景色をみていた。明かりも少なく視界は車のライトだけの道が続く。
ふと、道なりにあった看板の住所が目に入った。
ドライブをするにしても距離を考えて欲しい。一体何考えているんだろうと思った。
ここから都内に戻っても明け方だ。岬のことをバカじゃないかと思った。思った瞬間、ミラーに目を向けると岬と目があった。岬は、恨みがましい目で葉山を見ていた。それは、役者の目ではない。岬自身の目だった。
「ホント……葉山くんさ、嫌い。大嫌い」
あの朝、岬に好きって言われた。でも、同時に、信じられないと思った。岬の好きが。
岬の薄っぺらな好きって感情に、大嫌いが増えた。
否定的な言葉なのに、何一つ悲しいと思わなかった。岬の「好き」は、信用できないのに、岬に視線を合わせて言われた「大嫌い」だけは信用出来る。岬には好きがいっぱいあって、けれど嫌いがない人だったから。余計に、すとんと胸の中に岬の心が落ちてきた。
「なに、俺の真似してくれちゃってんの」
「わかりました?」
「いくら上手に演技できてても、腹立つからダメ」
「どうしてですか」
「どうしてって訊くとこもダメ。てかさ、俺が選べない質問をなんで今するかなぁ。葉山くんは分かっててそういうこと平気でするよね」
「はい。でも、それは岬さんもです」
「あーはいはい! そーですね。ほんと、急に昔みたいに演技の調子戻してくるし。それだよ、葉山くんの、俺が大嫌いなとこ」
余裕のない岬の顔を見て、自分の思惑通りに進んで、胸のすく思いがした。岬が自分にすることを真似しただけだ。そうやって好きに相手の心を操って、楽しんでいる。酷い人だと思っている。
酷いと思いながらも、葉山も同じように岬のような酷い人になりたいと思っている。手に入らない相手の心を、せめて演技の世界だけは自分の思い通りにしたい。
「さっきの、答えなくていいですよ。俺の家『ASKET』のリーダーが住んでるマンションです」
「え、代官山の? あそこなの? 近所だし、じゃあ、家も聞いたし今度遊びに行く」
「……俺のこと、大嫌いなのに?」
「大嫌いだから」
岬は、大嫌いなのに、手を繋いでくれて、頭を撫でてくれて、優しくしてくれる。
「……知ってる」
「知ってるって言うところも、嫌いだよ」
「岬さんだって、言ったじゃないですか、知ってるって。俺は、同じ言葉返しただけです」
葉山が岬を好きだったこと。
葉山も知った。岬が葉山を大嫌いなこと。
お互いのことを、好きだから信じられない、嫌いだから信じられない。
「葉山くんさ、俺、明日朝から仕事だって言っただろ。嫌がらせだよね? 俺には最初から、葉山くんを家に送って帰る以外の選択肢ないし」
岬がそういう人だって知っている。優先順位は、仕事が一番で、それが一番好き。邪魔されることが大嫌い。
岬の大嫌いが欲しくなったから、岬の嫌がることをした。
大嫌いを知るたびに浮き上がる、岬の優しさ。それが欲しくなる。こんな形で岬の心を確かめようとした自分が嫌いだった。ずるくて、酷くて、大嫌いだ。
「葉山くんの山に行きたいなんて希望聞かないでさ、最初から、俺の家連れて帰れば良かったなぁ」
「山行きたいなんて言ってない」
「言ったよ。山に置いてきて欲しいって」
「曲解です」
「知ってるだろ、俺が、そういう人だって」
「……今、知りました」
「それは、良かったね」
岬はくつくつと笑った。
「……岬さん」
「何?」
「もし、山、行ってなかったら」
「さっきの、続きしたかったよ。キスして、君を抱きたかった」
手を繋いで、頭を撫でて、キスが出来た。
そうすれば、互いが返せない気持ちの分、渡せない言葉の分、理解できない相手の心の分だけ、体を重ねることくらいは出来た。寂しさと不安を今夜だけは埋められた。不毛なことだと分かっていても岬の全部が欲しかった。
「……やっぱり、俺とのセックス、良かったんじゃないですか、忘れられないくらい」
そういって、また岬のことを傷つけた。
「だから大嫌いだって言ってんの、葉山くん、どんだけ俺のこと最低な男にしたいの?」
岬の望んでいない、お互いを傷つけるだけのセックスを望んだ。
――これでも駄目?
葉山の凄惨な過去を消すためにした岬の恋人の演技。
葉山の心に何も届かなかったことに岬は傷ついて、悲しかったのかもしれない。
岬に優しく抱かれて、途中から分かっていたのに、岬の心は自分にちゃんと伝わっていたのに、役が、欲しかった。岬より。
葉山は知らなかった人を愛する心を知りたかったから、やめられなかった。
優しくしたい、愛したい。ごく普通の当たり前の気持ちを葉山にあげたかった岬の心を踏みにじった。
岬の心を知った上で利用した。心を天秤にかけた。自分のために、役のために岬の体を欲しがって、岬の心を傷つけた。
「……うん、ごめんなさい。岬さんがしたくないこと、お願いしたから、傷つけたから」
「そうだね。反省してよ。俺、繊細なんだから」
葉山は何も言えなかった。もう、全て終わったことだ。
「おーいスルーするなよ。俺の神経が図太いから何言っても大丈夫とか思ってんの? んなわけねーだろ、傷つくよ俺だって」
「ごめん、な、さい」
「葉山くんの方が図太いんだからな、俺なんかより、強くて、かっこよくて、可愛いくせに、可愛くないし、俺のこと隙あらば食おうとか思ってるだろ。そういうところ、腹たってしかたねーの、ほんっと、大嫌いだ」
「それも、知ってる」
もう、分かってる。
「葉山くんさ、最初から普通に、抱けって言えよ……上書きしてとか、消してとか、忘れてとか、酷いこと言うなよ。君のこと、許せなくなる」
もう何もかも遅いと思った。気持ちを伝えるには。
「じゃあ、抱いて……岬さん、キスして、頭撫でて、飽きるまででいいから」
思ってもない言葉を重ねていた。
「また、そんな悲しいこと言うし。やっぱり、葉山くん、俺のこと大嫌いだろ」
大嫌いって、気持ちが伝わった。
それきり車の中は静かだった。何も言葉を交わさなかった。何も言えなかった。
そうして夜が明ける少し前、葉山のマンションの前で車を降ろされた。
「じゃあね、また撮影で」
「はい」
扉を閉めると車の中で話した言葉が泡のように儚く消えてしまった。互いの熱を帯びた言葉も全て嘘だったような気がする。
岬には、たくさんの好きがあって、簡単にその優先順位は入れ替わる。お互いの軽薄さは体を重ねたことで嫌という程に知っている。
だから、相手の「好き」だけは、信用できないのに、大嫌いだけは信じられた。
どんな形でもいいから、そばにいたい。
願ったら最後、毒を体へ打たれたように動けなくなる。
岬のことが欲しかった。願ったところで相手の全ては一生手に入りはしないのに。自分だって何一つ返せる気がしないし、これ以上に岬を傷つけたくなかった。
岬は、葉山が、他人にいちばん知られたくないことを知っている。養父に望んで抱かれていたこと。
岬への気持ちを肯定しようとする度に、好きになった人が、その事を知っている事実に、心が壊れそうになる。
苦しくなって、我慢できなくなって。
壊れてもいいから、壊して欲しいと岬へ手を伸ばしたくなる。そんな愛し方を、岬は望んでいないのに。
(……ごめんなさい)
もう一度、手を繋いでくれて、嬉しかった。
嘘でも、もう一度、抱きたいって言われて、嬉しかった。
岬は何度もあの日、葉山を抱いたことを思い出して、悲しい顔をして傷つくのだろう。そんな顔をさせている自分のことが一番許せない。
徐々に白んでいく空の色が目に刺さって痛かった。




