9.契約召喚⑤
黒曜石は火山のマグマが急速冷却されることで生まれた天然のガラスです
地獄の門、地獄側。
グラシアラボラスが正式に召喚されて門番の仕事が一人になったナベリウスは、地獄の門の近くにある小屋に、日中の居場所を移した。門番としては、門の前に座っているべきなのだろうが、そこで一人体育座りをしていると、自分が世界で一番孤独のような気がして滅入ってしまったのである。(ベッドに入って眠りにつく前の余暇をつぶすために始めていた翻訳の副業を、門の前に持ち込んでみたのも、むなしさを紛らわせるためだった。)
この小屋を彼は事務所と呼んでいて、ナベリウスにとってすでに自宅も同然だった。彼はもうずっとここに寝泊まりしており、本来の自宅に帰っていない。自宅のある居住区に戻れば、いやでも近所付き合いが発生するからである。近所に住んでいる悪魔連中なんて、ここ何百年もあいさつぐらいしかしたことがなかったから、何を話していいか分からなかった。
ナベリウスは、過多の人付き合いは、わずらわしくて嫌いだった。なんなら友達なんて一人もいなくても全然平気だと自分では思っていた。それにも関わらず、いざ唯一の親しい友人であるグラシアがいなくなると、心の空虚さは隠しようがなかった。
――グラシアのやつ、あんなに泣いていたが、仕えるべき人間ができてなんだか生き生きしているように見えた。きっと、すぐに自力で解決策を見つけて、当分ここへも戻らないだろう。
ふと、ナベリウスは存在しないはずの心臓を掴まれたような気になった。彼は首を振って、気を紛らわせるため、翻訳作業の続きをやろうと辞書を手にとった。
その瞬間、彼は背中に何か大きくて重いものがのしかかるような衝撃を受け、椅子から床に落ちた。
床に這いつくばったナベリウスが顔を上げると、人間の男性が自分を見下ろしていた。気がつけばここは見知った事務所ではない。知らない部屋。人間の世界、おそらくヨーロッパのどこかである。
「貴様がナベリウスか。神の名の下に、おまえに契約を提案する。応じなければ、おまえは神の目覚めの日まで、この場に這いつくばることになるだろう。しかし、契約に応じ、私の願いを叶えれば、ただちに地獄への帰還を許可する」
日常会話くらいはできるヨーロッパのとある言語。内容に聞き覚えがある。自分がさっきまで翻訳していた本に出てくる文句と同じだと気付いた。床にチョークで書かれた逆五芒星。その脇に皿に乗ったビスケット六枚と一杯のぶどうジュース。あの本の通りの儀式である。
「私の願いは、この国の防衛だ。おまえの力を持って、外国が侵攻を諦めるまで、他国の人間がこの国の土を踏むのを、一人足りとも許すな」
男の背後から、見覚えのある横顔が見える。親友のグラシアである。グラシアは身を隠すように立ったまま、こちらから目を反らしたまま小声でつぶやいた。
「……ナベリウス……ごめん……」
人間の男性は後ろに従えた悪魔を気にすることなく、ナベリウスを睨み続けた。
「おまえはこの後、自分が何をすべきか知っているな」
人間は裸足の左足を、床に寝ているナベリウスの顔の前に差し出した。悪魔がなんとか頭を動かしてその足に口をつけると、足の甲に血が滲み、この悪魔の印章の形に浮かび上がった。パトリアが痛みに耐えかねて、思わず顔を歪めて転がったと同時に、ナベリウスは背中の重しから解放された。
人間は倒れてうずくまったまま動揺を隠すように、立ち上がった悪魔を見上げた。
「これで契約は成立した。さっそく仕事にかかれ」
こうしてナベリウスは、名無し国の国防を一任された。それは彼にしてみれば簡単なことだった。この国の領土をすべて覆う結界を張り、国民以外の人間の出入りを完全に遮断するだけである。ただこの術に必要なものを手にいれるのに少しだけ手こずった。この術には、黒曜石の塊が五個必要だったが、これがこの辺りでは産出が無い。あたりをつけて探した結果、うまいことデンマーク領になっている火山島(現在のアイスランド)で見つかり、ようやく儀式を行うことができた。
この国の地図を広げ、領土をすっぽり覆うように逆五芒星を書く。それから、その頂点にあたる場所を、規定の順番に辿りながら、黒曜石にたっぷり砂糖をまぶしたものを埋めていく。五箇所すべて終わったら、この国の中心近くにある高い建物の屋根に上って、呪文を唱える。これで完了する。しかし術の発動中、ナベリウスは呪文を唱えた屋根の上を離れることができなかった。
彼の左側にそびえる大聖堂が午前十時を知らせる鐘を鳴らした。本来ならこの大聖堂の屋根の上のほうが位置的には、術に都合が良かった。しかし悪魔特有の宗教アレルギーのため、教会の敷地には入れなかったので、その横の議事堂の上で妥協したのだった。
――あれ以来、グラシアに会っていない。グラシア……おまえの判断で、おまえの召喚者が大事なものを失うことがなければいいが……
眼下に広がる平和な町。本当の恐怖を知らなさそうな人々の日常は、悪魔の目には、不吉な前兆のように見えた。グラシアの召喚者には、この方法で悪魔を呼び出すのはこれきりにしてほしい、他の人間には、くれぐれもやり方を漏らさないでくれと言い含めておいた。しかしそんなことは、しょせん自分の気休めでしかないということを、ナベリウスは知っていた。




