9.契約召喚②
ステラの葬儀とソルとの再会
ソルは自らの命をかけて、禁断の術を行う決心をする。
(ベリアルは猫舌である。それでも「大紅袍」を淹れる時は、熱湯がよい)
にわかには信じられないまま墓地へ到着すると、蓋をする前の棺を前に、ステラの父親が膝をついてうなだれていた。棺を覗くと、花が添えられた見覚えのある身体。しかしその身体には首が無かった。
「……どうしてこんなことに……」
パトリアのつぶやきに、声が出せない父親に変わって、側にいた黒服の聖職者が答えた。
「ステラは賢く、教会の教えを正しく理解していた。しかしこの世でもっとも、神から遠い存在と対話し、彼らを正しい道へ教え導くには、彼女もまた未熟だったのだ。彼らを召喚するのは尚早だった。しかし、有望な候補者は彼女だけではない。次こそは、成功させる。人類から対話を拒まれ続け、地獄に隔離されてきた者たちを救えるのは、我々だけであり、すべての存在の救済こそ、神が下された我々の使命だからな」
幼馴染の亡骸を前に膝を落としてしまったパトリアの肩に、誰かが手を置いた。見上げると、懐かしいガタイの良い男が立っていた。ソルである。
「俺は彼女をひきずってでも、教会から離すべきだった。彼女の側にいながら、守れなかった俺の罪だ」
「……どうして……こんなことに……」
ソルは、幼馴染の腕を引っ張り、墓地から無理やり連れ出し、町を抜けて、自分が寝起きしている兵舎まで連れていった。
兵舎は、町外れの暗い湿った場所に建っていた。使わなくなった馬小屋を改造した代物で、黒く腐ったような木造の小屋の中に汚い布団が丸まって並べられていた。
二人は、布団の間に腰を下ろした。ソルは床を見つめたまま、口を開いた。
「……ステラは、教会に唆されて悪魔召喚に関わった。そして悪魔に殺された」
「……悪魔……そんなまさか……」
「本当だ。教会の信念は『言葉による世界統一と恒久平和』だ。しかし最近は、先鋭化しすぎた。世界統一すら夢想にすぎないのに、自分たちの『言葉』とやらによる『和解』を地獄にまで広げようとしている。そしてついに、悪魔をこの世に現出させる技術を開発してしまった。しかし現れた悪魔を懐柔することはできず、聖職者を目指す若い女性が、悪魔の贄として捧げられ続けている」
「……そんなことが……」
「……パトリア……おまえが見てきた外国はどうだ……どこの国もこんななんだろうか」
そこではっとした彼は、帰郷の本来の目的を幼馴染に語った。
パトリアが語り終わると、ソルは黙った。昔から肝が座っている幼馴染の顔色が変わることは無かったので、パトリアは彼の考えを計りかねた。
「……俺達はこの国を守ることができると思うか……」
ソルは胡座をかいた両膝を両手で押さえつけたまま、しばらく黙って眉間にしわを寄せていたが、やがて重い口を開いた。
「できない」
「おまえが結成している『国軍』は……」
「相手は五万の兵隊なんだろ、俺たちは何人だと思う」
「千人くらい……」
「二十人だ」
パトリアの自信なさげな声に被せるように、ソルの声がした。
しばしの沈黙。
「あ、違う。俺を入れて二十一人だ」
再び沈黙。パトリアはなんとか希望を見出そうとたずねた。
「そもそもイグニス国がこの国をとろうとしているのは、ヴェンタス国と戦争するためなんだ。ヴェンタス国からも、こちらに援軍が派遣されるだろう?」
「それは望めない」
「どうして?」
「ヴェンタス国は、必ずこの国を見捨てる。いくら同盟国だからといって、ろくな軍隊も持たず、国民の誰も自分の手を汚そうとしないこの国に、どこの国も、自国の大事な兵隊を送りたくはないだろう。戦いの最中に、いつ裏切って勝手に降伏しないとも限らないしな。ヴェンタス国は、ここの隣国、アウルム国でイグニス軍を迎え撃つ判断をするだろう……少なくとも、俺が指揮官ならそうする」
「そんな……俺たちはもう助からないのか……」
軍人は一層、眉間に皺を深くして、しばらく考えていたが、やがてつぶやいた。
「いや……この国を守る方法が一つだけある」
パトリアは思わず顔を上げて、友人を見た。打開策を思いついている割には、険しい表情である。
「……俺達も悪魔を召喚すればいい」
パトリアは驚き、すぐにステラの変わり果てた姿を思い出した。
「何を言っているんだ。教会ですら悪魔を制御することはできないんだろう」
「教会がやっているように『言葉』による懐柔ではな。俺は違う。武力で拘束し、無理やりいうことを聞かせる」
「危険過ぎる。失敗したら悪魔に殺されるんだろ」
「俺が結成した『国軍』は、この国に命を捧げることを誓っている。長の俺が、範を示せないでどうする。教会がどうやって悪魔を召喚していたのか、やり方はすでに探ってある。準備ができしだい、決行する」
「俺も協力する」
「おまえは俺が守ると誓った、国民の一人だ。最初に、命をかける必要は無い。ひょっとして、俺が失敗して悪魔に殺されたことで、やつらを安全に使役するヒントが得られるかもしれない。その時にこそ、俺が一番信頼している、おまえが必要になる」
「ソル……」
長年の付き合いで幼馴染の頑固さを知り、その判断が常に合理的であることを知っていたパトリアは、思わず掴んでいた彼の袖をゆっくり離した。
「……フリード国……」
ふと、ソルがつぶやいた。
「……何?」
「この国が自ら捨て、忘れてしまったこの国の名だ。この国の人間はそろいもそろって、世間知らずで、理想ばかり追いかけている馬鹿ばかりだ。馬鹿でどうしようもないが、俺を育ててくれた故郷でもある。俺にとって、いい思い出も、悪い思い出もすべてこの土地に由来し、俺を育ててくれた人たちも、俺を蔑んでるやつらもみんなこの土地の人間だ。どんなに嫌いになっても、すでにこの国は俺の一部なんだよ。捨てたくても捨てられない。俺は俺の一部を守るために、命をかける。
どうせなら、地獄で最凶の悪魔を呼ぶ。五十年以上前、極東にある小島を、たった数日で壊滅に追い込んだ悪魔がいるという。名はベリアル。こいつを召喚する」
こうして、ソルが決死の覚悟で悪魔召喚の準備をし、いよいよ儀式を始めようという頃、「地獄で最凶」の悪魔ベリアルは、自宅でアップルパイを作っていた。
いい発酵バターを使い、生地も手作りした。生地を寝かせている間に、煮リンゴを作る。リンゴの自然な甘さを生かし、砂糖は控えめにして、シナモンを多くした。鍋から食欲をそそる甘い香りがしたが、後の楽しみにとっておくため味見は、煮汁を少しだけにとどめた。
寝かせ終わった生地を、伸ばしてはたたむを繰り返し、七百二十九層に仕上げる。パイ皿に生地を敷いて、煮リンゴをたっぷり乗せる。少しだけ残しておいた生地を短冊に切って、パイの上に逆五芒星の飾りをつけ、艶出しの卵黄を塗った。
温めたかまどに慎重にパイを入れる。落ち着かない気持ちで、かまどの前を行ったり来たりしてしまう。
そうだ。お茶を用意しなくちゃ。最近、中国で出回りはじめた新しいお茶があったはず。熱すぎると飲めないから、早めに準備しておこう。
なかなかの焼き上がり。卵黄のおかげで、きれいな茶色に仕上がった。逆五芒星の角が一つ黒っぽくなってしまったが許容範囲。
パイに慎重にナイフを入れ、大き目のひと切れを、皿に乗せる。お茶も適温になった。この瞬間をどれだけ待ったことか。いただきます!
ベリアルが人間の世界に呼び出されたのは、まさにこの瞬間だった。
アップルパイを手に取ろうとした瞬間、完全に油断していた彼は両手首を何かにとらえられ、上に引っ張られた。気づくと鎖付きの手枷によって天井から吊るされ、床から宙に浮いた足にも枷がはめられていた。
驚いて吊るされたまま顔を上げると、黒ずんだ汚い小屋にいた。部屋の端に積み上げられた粗末な布団。足の下の地面には、まずまずきれいに書かれてはいるが完全ではない魔三角。目の前に自分を捕えたガタイのいい男性と、その後ろに十数人ほどの人間。目の前のなんだか怖い顔をしている男の手には、飾り付きの短剣が握られていたので、こいつこそが自分をここへ呼んだ術者であり、焼き立てアップルパイから引き離した元凶であることが分かった。
ソルは最初、一人で召喚の儀式を行うつもりだった。しかし、事情を聞いた部下たちは、自分も司令官と運命をともにするといって聞かなかった。結局、ソルは彼らの熱意に折れた。そして部下たちを二つに分け、片方は万一の時の保険として、参加しないよう説得し、もう片方を引き連れて兵舎にこもり、儀式を行ったのである。
ソルは、飾り付きの短剣の先を悪魔に向けた。
「悪魔ベリアル。俺達の頼みを聞け。それが叶えばすぐにでもおまえを解放する。おまえが望むなら俺の魂もくれてやる」
ベリアルはあらためて自分の手首を見上げた。彼を捉える鎖や枷は、ソルたちが駆け回って集めた鍋だの農具だのの金属を溶かして鍛え直し、馬が十頭で引っ張っても切れない程、丈夫に作ったものだった。しかし、悪魔の中でも力が強い方のベリアルが、ちょっと引っ張った感じでは、簡単に千切れそうだった。
しかし完全に状況を理解しつつあった彼は、このわずらわしい罠から抜け出して、目の前の男の首を落としてただ帰還するだけでは、すでに腹の虫が収まらなくなっていた。
――最初の一口を台無しにしやがって! この場の全員の命で賠償させてやる。
「おい」
ベリアルは少しだけ咳払いをして声を作った。自分の言葉による呪いを使うことに決めたのである。
「そこのおまえ、おまえのリーダーの心臓を刺せ」
皆、悪魔が何を言い出したのか分からない中、彼に視線を捉えられた一人の兵士は、憑かれたように腰の剣を抜き、ソルの背中を刺した。
自分たちの司令官が血を吐いて膝をつき、そのまま前のめりで倒れるまでの間、あまりの突拍子も無いできごとに、兵士たちの抜刀は一瞬遅れた。
その隙をついて、悪魔は再び号令を出した。
「今からこの場にいる全員に、殺し合いを命じる。最後に残った一人には、自決の栄誉を与える」
その後に起こったことは、詳述するに忍びない現象だった。全員が悪魔のために抜いた刃を翻し、寝食を共にし、お互いに命を預けたはずの仲間に斬り掛かった。最後に残った兵士が正気にもどった時にはすでに、足元に斃れた仲間の死体が転がっていた。彼は、一番最初にソルを刺した人物で、儀式に参加した中ではソルの次に年長者だった。彼の手に握られた剣からはいつの間にか、血が滴っていた。一体誰の血なのか。なぜ皆、倒れているのか。彼は、自分が何をしたのか理解するにつれて、何かをつぶやき始め、顔が別人のように白くなっていった。
悪魔が見守っていると、男は突然、身体を引き釣らせて何かを叫んだ。そして、最も尊敬する上司と仲間たちの血糊付きの剣を、自分の開いた口に突き差し、そのまま仰向けに倒れた。
一人になったベリアルは、天井から吊るされたまま、しばらく腹いせがすんだ満足感に陶酔した。しかしふと、とんでもないことに気づいて、足元から寒気に襲われた。
――そうか、術者がただ死んだだけでは、悪魔は地獄に帰れないんだな……悪魔自ら手をくださないと……俺がまだここにいるのが、何よりの証拠だ……
嫌な予感を抱えながら、悪魔は手枷足枷をちぎって地面に降りた。呪文を唱えて自分の刀を地獄から呼び寄せる。そしてソルの遺体にゆっくり近づき、祈るような気持ちで首を落としてみた。
十秒たち、三十秒たち、一分経った。相変わらずベリアルは、人間の世界のどこにあるかも分からない汚い小屋にいた。
――やっぱり! 死体の首を切っても、地獄に帰れないんだ!
悪魔は力なく両腕を垂らし、なすすべ無く天井を見上げた。
――どうやって帰ろう……俺のアップルパイ……
その頃、パトリアとソルの残された部下達は、悪魔召喚が行なわれている兵舎の閉じられた入口の前で、儀式の成功を祈っていた。
ドアを強く叩く音。隊長だろうか。しかし、外から鍵を開けてほしい場合の合図は、ドアを二度叩くだったはずだ。ドアの音は、まだ一度だけ。兵たちはどちらにでも対応できるように、剣を構えてドアの音を待った。
全員が固唾を飲む中、内側から蹴飛ばしたような衝撃音があり、鍵と蝶番が壊されて、ドアがこちら側に倒された。
そこに立っていたのは、一人の少年だった。東洋風の着物を着流し、目付きが悪いが端正な容姿である。成長途上の身体付きで、攻撃性はあまり感じない。しかし手にしている細い剣からは、血が滴っていた。彼は自分を囲む人間を、興味が無さそうに見渡した。それから、もう片方の手にぶらさげていた丸いものを彼らの前に放りなげた。ソルの首である。
その瞬間、少年が何者で何をしたのか理解した全員が、一斉に襲いかかった。その一秒後、全員が少年の剣によって首と胴体が離され、地面に転がった。
少年の姿をした悪魔が現れてから十秒にも満たない時間、パトリアは一歩も動けなかった。十秒たって、何が起こったのか分かった後も、その場に縛り付けられたように、動けなかった。悪魔は、立ち尽くすだけの男なんて、まったく眼中に無い様子で、聞いたことのない言語で何かを罵りながら、どこかへ去ってしまった。
少年の悪魔の姿が見えなくなって、ようやく金縛りから解かれたパトリアは、膝から崩れて四つん這いになり、声を上げて泣いた。親友を失った絶望。故郷を失う絶望。なにより、大事な時に一歩も動けない、臆病で卑怯な自分に対する絶望。
俺は死時を失った。もうどうしようもない。俺にできることは何もない。ソルも彼の部下たちも、自分のすべきことをはっきりと理解し、一切ブレずにそれに従った。おれはどうだ。いつも、ただ逃げるだけ。ステラに対する恋心から逃げ、ソルに対する劣等感から逃げ、命をかけるべき使命からも逃げた。いまさらどうすることもできない。もう正気を失ってしまいたい。だめだ、この後に及んで俺はまだ、逃げることを考えている。せめてソルに顔向けできる死に様を考えるんだ。俺は弱くて卑怯で最低だ。悪魔の方がまだましだ。悪魔よ、出てこい。俺のみっともない魂をおまえにくれてやる。かわりにソルが守ろうとした、この国の人々を救ってくれ! 悪魔! 俺の呼びかけに答えろ!




