第5話 バラのジャム。
「なんだ?ハインリヒ、耳が赤いぞ?」
「え?」
馬車に乗っていた殿下にそう言われて、慌てて左耳を押さえる。
あいつは相変わらず、子供みたいなマネをする。エルナの吐息がまだ残っている気がして…なんだかいい匂いもした。
俺は…子供じゃない。ハインリヒは気を取り直して、背筋を伸ばした。
「なんでもありません」
「そーお?お前の可愛い仔犬ちゃんはお留守番なわけ?散歩は誰かに頼んできたのかい?」
「あれは…もう家に戻ります。ケガをして預かっていただけですので」
「そうなんだ。寂しくなるね」
「そんなことも…ありません」
昨日は…いつも玄関先で俺の帰りを待っているエルナがいなかったので、驚いた。
まさか…誘拐?
慌てて走りこんだ部屋で、あいつは何もなかったかのように笑っていた。
そう言えば…
出がけに渡された包みをポケットから取り出して、開いてみる。
…魚をくわえた猫…何で猫?しかも黒猫?
「おや、幸運の黒猫かい?ぷぷぷっ、可愛らしい刺繡だね?」
のぞき込んだ殿下に笑われてしまった。俺はそっと上着のポケットにそのハンカチをしまい込んだ。
***
公務を終えて帰路に就く途中、殿下が王妃陛下にお土産を買うと言うので、フール国の物なら何でもそろう、という大きな店に寄った。あちこち殿下に付き合って見学して…バラの花のジャムの小瓶を見つけた。聞いてはいたが、本当にあるんだな。
「ハインリヒ、それ買うの?紅茶に入っているのを飲んだけど…そんなに美味しいもんじゃなかったよ?」
手に取って眺めていた俺に、殿下がこっそり教えてくれた。思わず笑ってしまった。
屋敷に着くと、執事が迎えに出ている。
エレナはまた何かに夢中になって、俺が帰ったのに気が付かないのか?そう思ってから…そうか…そうだよな。あいつはもういないんだった。そう気が付いた。
ハインリヒは上着のポケットに忍ばせた小瓶を触ってみる。綺麗なリボンもつけてもらったんだ。
「おかえりなさいませ」
「ああ」
留守にしている間、随分と中庭の花も咲いた。生垣の向こうにふわふわの金髪が見える気がして…ハインリヒはため息をつく。
…なんだ。元に戻っただけじゃないか。いつもの静かな屋敷だ。
体の弱かった母は俺の幼いころ亡くなった。
父は仕事が忙しくほとんど家に寄り付かなかった。
ハインリヒは使用人に囲まれて育った。
何人もの家庭教師がついた。いくら勉強しても父に認められることはなかった。
「そんなことができるのは、あたりまえのことだ」
いつもそう言われてきた。いつまでも追いつけない、父の背中にさえ。
「はい。父上」
父の言葉は絶対だった。
この屋敷の静寂には慣れたものだ。物心ついた時から静かだった。
綺麗に整えられた、静かな、飾り物の様な屋敷。
時折おばさまが訪ねてきて、世話を焼いてくれた。
…あいつが居る時は、騒々しかったな。
コトリッ、と小瓶を自分の机に置く。
これを入れて、あいつと一緒に紅茶を飲もうかと思った。そんなことを考えた自分がおかしくて、ハインリヒは少し自分に呆れた。




