第46話 傷だらけの反撃
「左の店」
謙信が言った。
刀の先が、道路沿いの古い金物店を示していた。
湊は先に戸口を覗いた。中に人影はない。棚の向こうには、奥へ続く通路が見える。
凛が謙信を支えて入ってくる。
床に、赤い足跡が残った。
湊は扉を閉めかけたが、途中でやめた。壊れたガラス越しに、道路から中が見える。閉めても、隠れたことにはならない。
「奥を確かめる」
凛へ言い、店の通路へ入った。
棚の端に左腕が触れた。痛みが走り、息が詰まる。それでも足は止めず、右手で奥の扉を押した。
狭い荷受け場だった。
木箱が積まれ、壁際には古い鉄棚が置かれていた。隣の建物との間へ抜ける戸が開いている。
「裏へ出られる」
湊が戻ると、謙信は棚に背を預けていた。
「追いつく前に、血を止める」
凛は頷き、裂けた上着の裾を両手で引いた。布がうまく切れず、謙信が刀の先を添えた。
彼女は目で礼を返し、切り取った布を渡す。
謙信は右腿の傷へ押し当てた。
指の間へ、すぐに赤いものがにじんだ。
湊は棚に残っていた布巾を見つけ、包装を破った。謙信がそれも重ねて押さえる。
「信長は」
湊が言いかけた。
謙信は顔を上げない。
「脚を取れば、私が追えぬと見た」
「殺すつもりじゃなかった?」
「避けねば死ぬ刃もあった」
湊は口を閉じた。
手加減されたから生きている、という話ではなかった。
外で、何か重いものが動いた。
謙信が顔を上げ、湊も入口を振り返る。
通りの向こうで、黒い糸が壁を掴んでいた。
*
『朝倉』
声が聞こえた。
蓮だった。
「聞こえる。こっちは三人」
『診療所の組は十六人。運んだ人もいる。それとは別に、聖域軍の二人も渡ってる』
湊は棚に手をついた。
数は、合っている。
「橋の脇の金物店。謙信が脚を怪我してる。今は歩くのが難しい」
『戻る道を――』
大地の声が割り込み、相馬がそれを止めた。
『道がないまま動いてはいけません。まず、位置を聞きましょう』
凛が湊を見た。
彼女も同じことを考えたのだろう。
無理をしてこちらへ来れば、助ける人数が増える。
「今は来ないで。裏から動く。次に止まった場所を知らせる」
湊は言った。
「道の情報が入ったら教えて。こっちも知らせる」
『分かった』
湊は入口へ目を戻した。
黒い腕は、店へ向かってこなかった。
巨体の片側が崩れた壁に引っかかり、残った手で瓦礫を押しのけている。失った腕はまだ戻らず、肩の切り口から糸が垂れていた。
倒したわけではない。
それでも、今はすぐに追えない。
湊は裏口までの通路から、倒れた空箱を足でどかした。謙信が引きずる脚に触れそうなものを、壁際へ寄せていく。
謙信が布を強く結び、立ち上がろうとした。右脚に体重が乗ったところで、口元が固くなる。
「左へ」
凛が自分の肩を差し入れる。
「傷のある方へ乗せないで」
謙信は言われた通りに身体を寄せた。
「世話になる」
湊が裏の扉を開いた。
荷受け場を抜ければ、隣の建物の脇へ出られる。
その戸口へ、一人の影が落ちた。
*
黒い外套だった。
湊は後ろへ下がった。
男の右手には、短い刃物があった。左手は腰の高さで開かれている。
店の表で、瓦礫を押していた音が止まった。
湊はその静けさで気づいた。
巨体から、人間の方へ切り替えた。
「その端末を置け」
男は湊の右手を見ていた。
「受付に貼ったのも、お前らだな」
湊はスマートフォンを身体へ寄せた。
「あの紙を見て、まだ誰かが来ると思う?」
「誰に顔を見せた」
男は答えを待たず、左手を湊へ向けた。
記憶を預かっているからではない。今度は、自分たちが知らせたことを止めに来たのだ。
「もう、その端末だけじゃない」
湊が言うと、男の口元が歪んだ。
戸口の向こうは、店の脇へ続く細い路地だった。表から壁沿いに回れば、傷の処置で止まった三人を追い越せる。
男の視線が床の血へ落ち、次に謙信の脚へ移る。
凛は謙信を鉄棚へ寄せ、そばに立てかけられた箒を掴んだ。
男は戸口の外で左手を動かした。
糸が箒へ巻きつく。凛は引かれる前に手を放した。
男は入ってこなかった。奪った箒を横へ払い、次の糸を鉄棚の脚へかける。
棚が軋んだ。
謙信が預けていた左肩が、支えから離れる。
転ばせるつもりだ。
湊が右手を伸ばすより先に、謙信は腰を落とした。左脚を棚の手前に置き、背後の壁へ肩を移す。
頭上に、淡い光が戻った。
――《毘沙門陣》。
謙信の切っ先が、張った糸を断った。
棚は斜めに止まり、その下へ空箱が潰れる。
男は切れた糸を捨て、湊へ指を向け直した。
細い一本が、スマートフォンを持つ右手へ伸びる。
湊は手を引いた。糸が棚の縁へ当たり、金属を擦った。
男は身体を戸口の外に残し、棚を避ける角度へ左手を回した。
その手が、戸口の端からのぞいた。
謙信が刀を引き寄せる。湊には、先ほど信長を通してしまった時の右脚が見えた。
何歩も動けない。
だが、刀の届く先を見ている。
湊は光の記録を開いた。
「目を伏せて!」
凛が顔を背け、謙信の顎がわずかに引かれた。
湊は画面を押した。
――《REPLAY》。
白い光が荷受け場を満たした。
戸外の男が顔を隠す。右手は刃物を握ったまま頬へ上がり、左手の動きが止まった。
光が薄れるより早く、背にした壁を肩で押し返し、左足で一歩、踏み込んだ。
湊の目の前で、白い衣が伸びた。
刀を引いたのは、退くためではなかった。
狭い戸口へ、突きの長さを残していたのだ。
男が左手を引く。間に合わず、袖と腕の外側が裂けた。
右の刃物が謙信の顔へ向く。
謙信は刀を引き戻しながら、迫る刃物を外へ払った。鋼が戸口の枠を打つ。
男は刃物を握ったまま腕を引いたが、左腕から流れる血を見て、足元へ捨てた。空いた右手で傷を押さえる。
男は左腕を胸へ抱え、戸口から離れた。
謙信も追わなかった。踏み込んだ左脚を戻そうとして身体が傾き、凛が背へ腕を差し入れる。
右腿の布から、血が一筋落ちた。
「謙信!」
「支えてくれ。今の一歩で終いだ」
刀は下げない。戸外の男も、もう一度間合いへ入ろうとはしなかった。
男は右手で左腕を押さえていた。指から垂れた糸が、棚の脚へ落ちる。
湊は店の表へ目を向けた。
瓦礫を押しのける音は戻っていない。
細い糸も、巨体も止まっている。今なら、離れられる。
謙信が湊へ言った。
「表へ戻れ」
男に塞がれた裏口を捨てる。
湊は頷き、凛とともに謙信を店内へ戻した。
*
表へ出ると、巨影はまだ瓦礫のそばにいた。
先ほどより近かったが、手は止まっている。
湊は黒い指から目を離さず、凛へ尋ねた。
「黒瀬、来た道で曲がれるところは?」
「二軒先。そこから診療所の方へ戻れる」
「途中まででいい。大通りから外れたい」
凛はICカードへ手を伸ばしかけ、肩にかかった謙信の重みを受け直した。
「私だけなら《ROUTE》で戻れる。でも、三人一緒はまだ試してない」
「俺が乗れた時は、仮リンクが出てた」
「今ここで、謙信を支えたまま試すのは無理。歩いて曲がろう」
湊は頷いた。先に着く一人より、ここで肩を貸す一人が必要だった。
凛が謙信の腕を肩へ掛け直した。
湊は謙信の右側に立ち、右手を背へ添えた。左腕は胸の前に寄せたままだった。身体を持ち上げるのではなく、傷のある方へ倒れないよう支える。
三人で、道を横切った。
足音は遅い。
謙信が左脚で進み、右脚を引き寄せる。その一歩に、湊も凛も合わせなければならなかった。
裏の路地から、男の低い罵声が聞こえた。
湊は振り返らなかった。
曲がり角まで、あと数歩。
「ここ」
凛が身体を左へ向けた。
三人が建物の陰へ入ると、謙信の身体が重く沈んだ。
「一度、止めて」
凛の声に、湊も足を止めた。謙信は壁へ背をつけ、腿の布を押さえる。
湊は角から店の方を見た。
外套の男が表へ出てきていた。口と右手で左腕へ布を巻き、締め直している。
こちらを見つけた。
湊は身を引きかけた。だが、男は追ってこなかった。
男は店内へ戻った。しばらくして、再び表へ出てくる。右手には先ほどの刃物が戻っていた。左腕を胸へ抱えたまま、三人とは反対側の路地へ消えた。
巨影の腕は動かなかった。
「退いた?」
凛が尋ねた。
「見えなくなっただけ。こっちへ来るのは、やめた」
湊は男が消えた場所を見た。
さっきまでと違う方角だった。傷を巻く間に、次の攻め方を考えているのかもしれない。
「今のうちに離れよう」
湊たちは謙信を支え直した。
追い立てられる足音はない。それでも、足を止めて待つ理由にはならなかった。
凛が次の角を選び、三人は店から見えない通路へ入った。
「追手が来れば、見える場所を」
謙信が言った。
「背を壁につけられればよい」
凛は前を見た。
通路の先に、取り壊された建物の跡があった。片側には壁が残り、もう片側は低い瓦礫に埋まっている。通りからこちらへ来るには、その手前の細い隙間を抜けなければならない。
「あそこなら」
謙信が頷いた。
湊たちは残った壁まで進み、謙信を座らせた。
刀は、膝の上へ横に置かれた。
凛はすぐには腰を下ろさなかった。通路へ戻り、今来た角を確かめる。
湊はスマートフォンを出した。
「蓮。場所を変えた」
声が届くまでに、少し時間がかかった。
*
『こっちは建物に入れた。診察台の人も、看護師さんが見てる』
蓮の声の後ろから、謙信を呼ぶ声がした。台を運んだ聖域軍の一人だった。
「二人とも、そちらの負傷者を頼む。戻る道が見つかるまでは動くな」
謙信は短く命じ、腿の布を押し直した。血はまだにじんでいる。脇腹にも畳んだ布を挟み、帯で押さえていた。
「お前たちも通すつもりだった」
湊を見る。
「そこまでは、守りきれなかった」
通路から戻った凛が、その前へしゃがんだ。
「まだ終わってない。ここから三人で戻ればいい」
謙信は頷き、刀を膝へ戻した。
湊は蓮へ、金物店から曲がった角と、今いる建物跡を伝えた。相馬が聞き取り、紙へ書いているという。
「謙信の傷に当てる布も足りません。合流する時、包帯をお願いします」
『用意します。受付の青年が、その辺りを通ったと言っています。先に、地下へ降りる車路はありませんか』
相馬の声だった。
『駅の貨物口へ出る道だそうです。橋のこちら側には渡れませんが』
「貨物口……」
凛が顔を上げた。
「あいつが人を集めてた場所じゃない」
「出口も安全とは限らないね」
湊は、診療所で聞いた女性の声を思い出した。疑ったのに、急がなければと思って相手を先へ行かせた。その判断を、今なら自分もしてしまいそうだった。
「青年が自分で歩いたところだけ教えてください。あの男から聞いた道とは分けて」
『確認します』
謙信は来た通路へ目を向けた。追手の姿はない。湊は返答を待つ間、端末を膝へ下ろした。
凛が通路の見える位置で、湊の隣へしゃがんだ。
上着の裾は短く裂け、肩には血がついている。
湊は、その血を見た。
「黒瀬のじゃない?」
「謙信の」
彼女は答え、自分の肩を見下ろした。
「朝倉は」
「腕は痛い。新しい傷は、たぶんない」
凛は包帯へ目を向け、頷いた。
今回は、何も付け足さなかった。
湊は右手を開いた。
さっきまで誰かを支えていた指が、少し震えている。
凛がその手を見た。
「私も」
彼女は自分の手を膝へ乗せた。
指先が、小さく揺れていた。
湊は笑わなかった。
手を伸ばし、彼女の指へ触れた。
白い線も、端末の音も出なかった。
凛は手を引かなかった。
数秒だけ、そのままでいた。
やがて凛が顔を上げた。
「坂を見てくる。最初の曲がり角か段差まで。そこからは戻る」
「俺はここで話を聞く」
湊が答えると、謙信は刀を持ち直した。
「帰るまで、ここを見ている」
指が離れた。
凛の足音が、角の向こうへ遠ざかる。
*
相馬から聞けたのは、赤い庇のある搬入口へ出ることと、途中に上り階段があることだった。青年は段数を覚えていない。橋が落ちた後の地下を見た者もいなかった。
湊はスマートフォンへ目印を打ち込んだ。
受付で青年を置いてきていたら、この道の存在すら分からなかった。だが、連れてきたからといって、その言葉だけで進めるわけではない。
通路へ白い線が伸びた。
湊が顔を上げると、凛が今歩いた道を滑るように戻ってきた。建物跡の手前で足を止め、ICカードを下ろす。
「坂の下までは行ける。車一台分の幅があって、段差もない」
彼女は膝をつき、地面へ短い線を引いた。
「降りたところで右に曲がる。その先は見てない。手前に、壁へ寄せて座れる場所がある。入口からは脇の壁に隠れる」
「出口までは?」
「分からない。約束したところで戻った」
湊は頷いた。
謙信の右脚を見る。三人で地上を歩き続けるにも、見えない階段へ進むにも、無理がある。
「坂の下まで移ろう。そこから先は、謙信を動かす前に確かめる」
凛が顔を上げた。
「地下へ入ったら、戻るのは上りだよ」
「分かってる。だから、出口へ向かって歩き続けない。まず、今見てきた場所まで」
湊は言葉を切り、謙信を見た。
「そこまで、肩を貸します」
謙信は鞘を地面へ立て、左脚で身体を起こした。
「頼む」
凛が左側へ入り、湊は右手を背へ添えた。
「蓮。地下へ降りる。入口で一度呼ぶから、声が届くか確かめて」
『届かなかったら?』
「凛が地上へ戻って伝える。こっちの場所が分からないまま、探しに来ないで」
凛が頷いた。
三人は通路を進んだ。角を曲がると、開いたシャッターの下に緩い坂が見えた。光は途中まで届き、その先で右へ折れている。
湊は入口から蓮を呼んだ。返事を聞いてから、凛と足を揃える。
坂を下りるたび、謙信の重みが右手へかかった。
「ゆっくりでいい」
凛が言った。
湊は頷いた。まだ見ていない出口へ急ぐのをやめ、彼女が確かめて戻ってきた曲がり角へ向かった。
今度は、そこまで行くと自分たちで決めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。
少しでも続きが気になった方は、ぜひ次話もお読みいただけるとうれしいです。
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