第45話 譲れない一歩
刀が来る前に、足が来た。
信長の草履が、謙信の前足のすぐ外へ入る。踏まれたわけではない。だが、その位置に立たれるだけで、階段の前へ戻る一歩が狭くなる。
謙信の頭上に淡い光が灯った。
――《毘沙門陣》。
WARで、仲間を背にして戦った時と同じ光だった。守る対象がいる戦場で、戦闘判断と迎撃の精度を高める。
謙信は刀だけを見ていなかった。信長の足、階段の入口、後ろを進む診察台。その位置を確かめ、踵を浮かせた。
その動きを待っていたように、信長の切っ先が喉へ伸びた。
白い衣が翻る。謙信は刀の腹で突きを逸らし、振り向きざまに信長の手元を斬り上げた。
信長が腕を引く。
袖口が割れ、血が一滴、階段の手すりへ飛んだ。
湊は思わず息を止めた。
信長は傷を見なかった。視線が一度だけ、謙信の背後を進む診察台へ流れた。
「その術は残しておけ。後ろへ通すな」
湊は、龍馬の力まで揺らがせた黒金の光を思い出した。《天下布武》で謙信を抑えれば、巨影を受ける力も削ぐことになる。
信長が奪おうとしているのは、階段への一歩だった。
「そこから動かぬつもりか」
謙信の足は、既に階段の前へ戻っている。
「動かせるものなら」
言い終える前に、刃が重なった。
受けた刀を押しのける。押し返される前に引く。空いた場所へ踏み込み、膝を狙う。
湊には、打ち合う音と身体の動きが一致しなくなっていた。鋼が鳴った時には、二人はもう次の位置を取っている。
信長は、階段を見ていない。
それなのに、一度刃が交わるたび、そちらへ半歩ずつ寄っていく。
*
「前、下げないで!」
玲奈の声で、湊は振り向いた。
診察台が車の間へ入ってきた。運び手の一人が横向きになり、蓮が肘を畳む。台の脚と車のドアが擦れ、耳障りな音を立てた。
台の上の女性は、胸元へ寄せた毛布を握っている。
湊は車の隙間を覗いた。
「そのまま。あと少し、右」
凛が後ろの角を押さえて向きを直す。四人の足が揃い、台が隙間を抜けた。
「通った!」
相馬が先へ走り、橋の向こうで手を上げた。
大地も渡り始める。左手で運び手の背を支えようとして、やめた。揺らすより、先の道を空ける方がいいと判断したのだろう。
「そっち、退いてくれ! 台が来る!」
王冠軍の参加者が、座っていた人々を壁際へ寄せた。
湊はその動きを確かめ、凛へ顔を向けた。
「俺たちも」
凛が頷いた、その時だった。
橋の入口で、地面が跳ねた。
黒い指が車の屋根を潰していた。鉄板が折れ、窓が白く砕ける。
巨影は橋へ渡る前に、入口の車を掴んだのだ。
湊は凛の肩へ右手を伸ばし、二人で後ろへ下がった。今まで立っていた隙間へ、ひしゃげたドアが倒れる。
車体が持ち上がった。
橋を渡っている診察台が、その向こうに見えた。
「伏せて!」
湊の声に、運び手たちが台ごと腰を落とす。
投げられた車は、頭上を越えた。
向こう岸の路面に激突し、横滑りして壁へぶつかった。逃げた参加者が一人、尻餅をつく。誰かが襟を掴み、車体が倒れる前に引きずり出した。
信長の顔が変わった。
橋を渡られなくても、届く。
それでも接岸させなければ、向こうの人々を奥へ逃がす時間は作れる。
「壁の裏へ入れ! 橋の正面に残るな!」
王冠軍が動いた。
湊は砕けたガラスの上で立ち直った。車がなくなり、通路は空いている。だが、黒い腕が入口を横切っていた。
ここから渡るには、その下をくぐらなければならない。
*
信長が刀を左へ寝かせた。
謙信の視線が刃を追う。
違った。
信長は、踏み込まなかった。後ろへ下がり、階段から離れた。
謙信は追わない。
その背後を、巨影の指が這ってきた。車を投げた腕が戻り、今度は路面そのものへ爪を立てる。
謙信は刀を返した。
黒い指の、曲がりかけた節を斬る。
束になった糸が裂け、指先が路面へ落ちた。だが、切り口から糸が伸び、まだ腕とは離れきらない。
その一瞬に、信長が入った。
謙信が振り向く。
刃を戻すには遅い。肩を入れて突きを外し、そのまま信長へ身体をぶつけた。
信長の背が手すりを叩く。
謙信の腹の横で、白布が切れていた。皮膚まで届いたのか、赤い染みがじわりと広がる。
「背後まで守るか」
信長が言った。
謙信は答えず、刀を引いた。
その刃が、初めて信長の胸を真っ直ぐ狙った。
信長は受けた。鋼が軋む。手すりを背にしたままでは、押し返す場所がない。
謙信が一歩詰める。
信長の膝が曲がった。
倒れるのではない。
自分から、低く沈んだ。
押し込む力が抜け、謙信の刀が前へ流れる。その下で、信長の刃が横に走った。
布を裂く音がした。
謙信の右膝が崩れかけた。
それでも、地面にはつかなかった。左足で踏みとどまり、切っ先を下げて信長の追撃を止める。
だが、階段の前に置いていた身体は、半歩だけ横へずれていた。
踏み込みを見抜いても、傷ついた脚では元の位置へ戻れない。
信長は、その半歩を通った。
謙信の刃が背を追いかける。信長は振り向かず、手すりの下へ身を滑らせた。切っ先が肩の布を掠め、白い壁へ細い傷を刻む。
信長は階段の口で刀を返し、追撃を牽制した。
「ここからは橋へ術を放つな。支えを断つ」
信長は刀を構えたまま、一段ずつ下がった。謙信の切っ先が届かなくなったところで身を返す。
靴音が、階段を下りていった。
謙信が右脚を引きずり、一段目へ足をかける。
橋の上から、玲奈の声がした。
「着いた!」
診察台が向こう岸へ下ろされた。
蓮と聖域軍の二人も、橋から離れる。操作者を追っていた弓手も、屋上から降りて橋を走り抜けた。
「見失った! 壁沿いに隠れてる!」
王冠軍の仲間が弓手を受け入れ、橋の上から最後の人影が消えた。
相馬が湊を呼んだ。
「十六人! 朝倉さん、黒瀬さん!」
あと二人。
謙信まで入れれば、三人だった。
*
湊は動画を開いた。
強風。これなら黒い腕をわずかに浮かせられるかもしれない。その下を抜けるだけなら。
親指が再生の位置へ触れかけた。
黒い指が路面を掴み直す。その重さだけで、橋の亀裂から砂がこぼれた。
「信長!」
声が裏返った。
返事はない。階段の下から、鉄を打つ音がした。
湊は橋の亀裂を見た。
さっきの車の衝撃で、隙間が広がっている。指が食い込んだまま腕を押し上げれば、路面まで剥がれるかもしれない。
湊は親指を離した。
自分たちがくぐる、その足場を壊すわけにはいかなかった。
信長は、もう切断に入っている。
こちらが渡ることを、判断の中から外して。
謙信は階段を下りなかった。
頭上の光を消し、足を引きずって戻ってきた。湊の胸元を掴む。
「退くぞ」
「まだ――」
「橋が落ちる!」
凛が湊の右腕を引いた。
鉄が断ち切られる音がした。
一度。
少し遅れて、もう一度。
路面の亀裂から粉塵が噴き上がった。
巨影の腕が橋へ伸びる。だが、掴んだ場所が既に沈んでいた。
黒い指がコンクリートへ食い込み、そのまま重い橋桁に引かれる。
信長が、残る側の階段を駆け上がってきた。
足をかけた直後、背後の手すりが根元から抜けた。信長は地面へ片手をつき、身体を向こう岸へ滑り込ませる。
落ちていく橋の端で、黒い腕が張った。
巨影の上体が前へ倒れる。
逃れようとする肩と、橋に食い込んだ指。その間で糸が伸び、一本ずつ弾けた。
謙信が湊を押し、凛が反対側から引いた。
三人が道路の縁を離れた直後、コンクリートの塊が闇へ消えた。
腕を引きちぎられた巨影が、建物の壁へ激突する。
窓が上から順に割れた。
湊は膝をつき、咳き込んだ。
白い粉塵の向こうに、信長が立っていた。
血のついた刀を握り、こちらを見ている。
謙信も、見返していた。
右脚の布が赤く濡れ、足元へ血が落ちる。
あの階段を守りきることはできなかった。
それでも、診察台は向こうにある。
「朝倉!」
大地の声がした。
湊が顔を上げると、大地は橋のなくなった縁まで来ていた。玲奈が上着を掴んで止めている。
「そこにいるか!」
「いる!」
湊は右手を上げた。
「黒瀬も! 謙信も!」
信長が刀を下ろした。
湊の手の中では、選んだ動画が開いたままだった。
再現できる風があっても、渡る道はもうなかった。
後ろで瓦礫が崩れた。
凛が湊の肩へ触れる。
「立って」
巨影は、まだ消えていない。
片腕のない身体が、壁を押して起き上がろうとしていた。
湊は立ち上がり、謙信を見た。
謙信は右脚へ体重をかけた。その膝が崩れ、左手が壁を掴む。
凛がすぐ、その脇へ入った。
「肩、使って」
謙信は一度だけ橋の向こうを見た。
そして、凛の肩へ腕を回した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。
少しでも続きが気になった方は、ぜひ次話もお読みいただけるとうれしいです。
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