第47話 剥がされなかった警告
坂の下で謙信を座らせると、凛は肩に回されていた腕をゆっくり外した。
白い袖が、指に張りついた。
湊はスマートフォンの明かりを床へ向けた。壁際に水が溜まっている。そこを避け、乾いた場所へ自分の上着を畳んで置いた。
「背中に」
「お前が冷える」
「今は暑いです」
嘘ではなかった。歩いてきただけなのに、額から汗が落ちる。
謙信は上着を受け取り、壁との間へ挟んだ。右腿を押さえた手は離さない。帯の脇に差した布も、赤く濡れていた。
湊が蓮を呼ぶと、返事に雑音が混じった。
『……聞こえる。少し遠い』
「坂の下。ここまでは届く」
『分かった。こっちから呼んで返事がなかったら、入口へ戻った凛の声を待つ』
確認はそれだけにした。
曲がり角の先は、荷物を運ぶための通路だった。天井から外れた配管が一本、斜めに垂れている。その下をくぐれば人は通れそうだが、先の床は暗くて見えない。
「見てくる」
凛が言った。
「私が戻るまで、二人ともここ」
湊は頷き、スマートフォンを差し出しかけた。
凛は自分の端末を上げた。
「明かりならある」
「あ、そうか」
「あなたのは、持ってて」
湊は画面を下ろした。
彼女が暗がりへ入る。小さな光が配管の下を抜け、床を左右に確かめながら進んでいった。
謙信が刀を鞘へ収めた。
「抜いたまま待たないんですか」
「ここで刃を見せていても、足は戻らん」
短く答えて、傷を押さえ直す。
湊はそれ以上尋ねなかった。
あの階段では、何度も信長の前へ戻っていた足だった。今は少し角度を変えるだけで、謙信の呼吸が止まる。
スマートフォンを開き、駅で撮った映像を選んだ。
胸ポケットに入れてからの画面は、ほとんど何も見えなかった。服と壁と、揺れる取っ手。自分の息だけが大きい。
だが、風を使った直後には男の顔がある。
撮れているのは、風で押し返した後からだ。その前の攻防は映っていない。
それでも、レンズを睨む顔を見ていると、撮影を始める前の動きが思い出された。
人質を盾にされ、画面を押せなかった。男はそこから踏み出し、台車を倒そうとした。
次に、金物店での動きを思い返した。
端末を狙われた。棚が邪魔をすると、左手の位置を変えた。距離を取っていても、欲しいものへ手を届かせようとはする。
強いだけではない。
こちらが何を守るかを見て、攻める場所を選んでいた。
「何が見えた」
謙信が尋ねた。
「俺たちが、何を手放せないか見てます。人質も、スマホも」
「お前も、見ればよい」
「何をですか」
「あれが、傷を負ってまで取り返しに来たものを」
湊は画面を見下ろした。
顔の画像。
それだけではない。あの男は、受付に貼った紙のことを尋ねた。
紙を剥がすだけなら、湊を追う必要はなかった。
「誰に見せたか、聞かれました」
謙信は黙って聞いていた。
「自分の顔を知らない人がいないと、あのやり方は続けられない」
湊は録画を閉じた。
逃げるだけでも、隠れるだけでもない。既に一度、あの男を困らせることはできていた。
*
戻ってきた凛の靴には、灰色の泥がついていた。
「階段は十一段。上の扉は開く。赤い庇も見えた」
「外は?」
「二人いる。こっちは見られてない。軍章は確認できなかった」
彼女はしゃがみ、指で床へ通路の形を描いた。
一本道の途中に荷物用の小さな昇降機があるが、動かない。さらに進むと階段。上がった先に短い廊下があり、外扉へ続く。
「階段を上がった先。廊下の右側に、横へ開く鉄格子がある。奥は物置で行き止まり。扉の外に鎖が掛かってた」
「戻る道は同じ?」
「うん。さっき通ったところは、能力で戻れた」
湊は謙信の脚を見た。
十一段なら簡単だとは言えなかった。ここまで来るのにも、二人の肩が必要だった。
「外の二人に、話せないかな」
凛はすぐには頷かなかった。
「誰か分からない」
「だから、先に顔を見せる。あの男の」
湊は保存した画像を開いた。
「敵の仲間だったら、戻る。こっちの人数も、謙信のことも言わない」
凛は画像を見た。
「私が持っていく?」
「一緒に。話している間、もう一人を見ててほしい」
謙信が壁から背を離した。
「行け。ここへ通じる道は、私が見ている」
「戦わないでください」
「そのために、先を確かめるのだろう」
湊は頷いた。
凛が通路へ入り、湊も後へ続いた。配管の下では左腕を胸へ寄せ、右手を壁へついて身体を沈める。
階段を上がると、廊下の先から風が入ってきた。階段口には腰の高さのコンクリート壁があり、数段下がって身をかがめれば、その陰へ全身を隠せそうだった。
凛は外扉へ進む前に、右側の物置を指した。鉄格子は開いており、外の柱に長い鎖が掛かっている。その輪には、留め具に使っていたらしい短い鉄棒が通されていた。
「中は行き止まり。戻るなら階段の方」
湊は頷いた。入口の脇には、人一人が身を寄せられる壁のくぼみがあった。その向かいの壁は平らで、外扉から階段まで見通せる。
凛は物置へ入らず、そのまま廊下を歩いた。
外扉の手前で足を止める。
外から声がした。
「剥がすなよ」
「でも、道が違うって」
「さっき、あの人が言ってた。顔も同じだった」
湊は凛と目を合わせた。
壁に貼った警告の話だった。
*
扉の隙間から見えたのは、赤い庇の端と、向かいの壁だった。
そこに紙が一枚、貼られている。
受付に貼った二枚とは違った。大きさも、字も違う。
黒い外套の男に注意。
記憶を預かった人を、一人で渡らせないこと。
湊は、その文字から目を離せなかった。
自分の書いたものが、誰かの字で書き直されていた。
扉から少し離れたところに、中年の女性と、片方の靴紐を結び直している若い男性がいた。二人とも武器は手にしていない。
湊は扉を少し開けた。
「その紙、誰から聞いたんですか」
二人が振り返る。
凛は湊の斜め後ろで、両方の手が見える位置に立った。
女性が湊の包帯へ目をやった。
「駅の西側。画面を見せてくれた人がいたの。ここでも案内してる男がいるから、顔を確かめろって」
湊は画像を向けた。
「この人ですか」
女性の表情が変わった。
「そう。少し前に、戻ってきた」
湊は端末を握り直した。
「どっちへ?」
彼女が指したのは、貨物口の正面ではなかった。
壁沿いの小さな受付。その庇の陰だ。
「あそこ。私たちに、ここから出ろって。通れなくするからって言ってた」
凛が受付の窓を見た。
内側で、黒い布が動いた。
湊はすぐ扉の陰へ戻った。
男が左腕を胸へ抱え、窓口の紙を片手で引き剥がしていた。
先ほど見失った敵が、そこにいた。
湊は画像を閉じなかった。
「その人について行かないで。俺たちは、その男に捕まっていた人を助けてきました」
女性が壁の警告へ手を伸ばした。
剥がすためではなかった。
浮いていた端を、もう一度押さえた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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