第43話 矢印の先へ行くな
荷物の受付には、まだ人がいた。
凛は曲がり角の手前で足を止めた。駅の東側に沿って伸びる道は、途中から建物の下へ潜り込んでいる。受付の小窓は、その先にあった。
顔を出す前に、背後へ手を上げる。
湊と玲奈が止まった。
診療所を出る前に、行き先と帰る経路を大地に伝えた。外套の男がいれば戻る。誰かが追ってきたら、診療所へ直行せず蓮へ知らせる。
大地と負傷者たちは診療所に残っている。湊も左腕を胸の前で支え、右手にスマートフォンを持つだけだった。
「見える?」
湊が小声で尋ねた。
「二人並んでる。窓の中に一人」
「黒い外套は?」
「いない。上も、今は動いてない」
凛は軒の切れ目を見上げた。遠くの建物までは見通せない。
巨影がいないとまでは、言えなかった。
駅の外周を回る経路は、案内の紙をもらった男から聞いたものだった。湊たちは光の橋を使わず、診療所側から陸続きの道をたどってきている。
来る途中、凛は角ごとに足を止め、帰り道を確かめていた。
「まず並んでる人に話す。揉めたら離れる」
玲奈が言った。
湊は頷いた。
駅での救出の後、また何かを庇えば済むとは思っていなかった。包帯の下では、歩くたびに傷が脈打っている。
窓口から紙が一枚、差し出された。
「こっちの橋を使ってください。受け取った方が先です」
声は若かった。
玲奈が通路へ出た。
「ちょっと待って。その先へ行く前に、見てもらいたいものがある」
並んでいた男女が振り返る。
湊がスマートフォンを差し出した。
画面の顔を見た女性が、窓口へ目を戻した。
「この人、さっきいた」
「ここで案内していましたか」
「うん。あっちへ行ったけど」
駅の裏へ続く道を指す。
窓の中で、椅子が鳴った。
若い男が立ち上がっていた。二十歳前後に見える。膝に落ちた紙を拾おうとして、逆に何枚も床へ散らした。
「何ですか」
湊は画面を若い男へ向けた。
「この人が、橋を渡った人を捕まえていました」
男の目が、顔から湊の包帯へ動いた。
「知らない」
「まだ何も聞いてない」
凛が言った。
男は黙った。
玲奈が並んでいた二人へ、診療所の場所を説明した。
「そこに、実際に捕まった人がいる。私たちの話だけで決めなくてもいいから、先に聞いて」
女性は受け取った紙を見下ろし、隣の男性と顔を見合わせた。
二人は紙を窓の下へ置いた。
若い男は、引き止めなかった。
*
「名前は」
玲奈が尋ねた。
男は答えなかった。
窓口の横には、半開きの小さな扉があった。その隙間から見える左足が、何度も奥へ動く。
凛は扉の前を空けたまま、男を見た。
「逃げるなら、紙は置いていって」
男の足が止まった。
湊は凛を見た。
彼女は男から目を離さなかった。
「追いかけない。でも、また誰かに渡すのはやめて」
「……俺が考えたんじゃない」
男が言った。
「道も、順番も。渡してくれって言われただけだ」
「誰に」
玲奈の問いに、男は湊の画面を指した。
「その人」
「名前は?」
「聞いてない」
「何のために配ってたの」
男が唇を噛んだ。
湊はスマートフォンを下ろした。
「あなたも、大切な記憶を誰かに預けたままなんですか」
そうなら、ここで責めても動けなくなるだけかもしれない。
男は首を振った。
「違う」
短い沈黙が落ちた。
「紙を配れば、連れていってくれるって。次の場所まで。俺には、ペアがいないから」
窓口の中の端末は暗かった。
湊は、候補に一人だけ空白が出ていた時の大地を思い出した。玲奈の名前が出なければ、彼も道の前で足を止めたままだったかもしれない。
「叫び声は?」
凛が尋ねた。
男の目が、廊下の奥へ逃げた。
「聞いた。でも、敵も出てるし」
「その後も配ったの」
男は答えなかった。窓の下に置かれた紙へ手を伸ばし、途中で引っ込める。
玲奈が窓の縁へ手を置いた。
「橋の先を確かめた?」
「行ったら、俺だって」
「だから、他の人を行かせたの?」
男は顔を背けた。
湊は何も言えなかった。
駅の向こうで声が消えた時、自分もすぐには動けなかった。あの時と同じだとは思わない。それでも、恐怖を理由にした言葉を、簡単に切り捨てることはできなかった。
凛が、窓の下に置かれた紙を拾った。
「これは預かる」
男の手が動いた。
一瞬、取り返そうとしたように見えた。だが、その手は窓へ届く前に止まった。
「どうすればいいんだよ」
男は湊を見た。
「ここに残ったら、あの人が戻ってくる。ついていったら、お前ら、俺をどうするんだ」
湊は玲奈へ目を向けた。
彼女もすぐには答えなかった。
「診療所に来るなら、何をしていたかは話してもらう」
玲奈が言った。
「なかったことにはできない。けど、あの男に渡すために連れていくんじゃない」
男は扉を見た。
湊は窓から一歩下がり、通路を空けた。
待つしかなかった。
*
男が外へ出てきた時、持っていたのは端末と、残りの紙だけだった。
凛が紙を受け取る。その束は、思っていたより薄かった。
「何組に渡したか、覚えてる?」
「……数えてない」
玲奈の口元が引き結ばれた。
湊は束を見た。減った枚数を数えても、誰がどこへ行ったかは分からない。
「他にも配ってる人は?」
「知らない。本当に。俺は、ここにいろって言われた」
男は自分の手をこすった。
「ここに来る前は、あの人が配ってた。皆、あの人の方へ行くから、こっちは空けるなって」
湊は駅の裏へ続く道を見た。
巨影だけを追っても、ここでは別の人が次の参加者へ紙を渡していた。
受付の壁には、太い矢印が描かれている。
湊は男に尋ねた。
「書くもの、ありますか」
男が窓口へ戻り、太いペンを持ってきた。
湊は右手で受け取った。余った紙の裏へ、ゆっくり文字を書く。
この先で参加者を拘束する人物を確認。
橋の先を確かめず、一人ずつ進まないでください。
凛が読んだ。
「通行禁止にはしないんだ」
「俺たちが知らない道もあるかもしれない。それに、向こうに仲間がいる人も」
「うん」
玲奈が受付の中から見つけたテープで、紙を矢印の上へ貼った。
その隣に、男がもう一枚を貼る。
こちらは玲奈が書いたものだった。
頬に長い傷。黒い外套。記憶の受取人を先に渡らせ、返却を止める。
顔の画像は、受付に残せなかった。誰の端末も置いていくわけにはいかない。
だから、目印と手口を文字で残した。
湊はその二枚を撮影した。後で見返せるよう、受付の建物も一緒に収める。
「これで全部止まる?」
若い男が尋ねた。
「分からない」
湊は端末を下ろした。
「少なくとも、今ここで次の人に渡すのは止められた」
玲奈がペンを返した。男は受け取ったそれをしばらく見つめ、窓口の内側へ置いた。
*
戻り道で、男は一度だけ立ち止まった。
駅の裏から、何かを引きずる音が聞こえた。
凛が手を上げる。全員が壁へ寄った。
屋根の向こうで、黒い糸の束が立ち上がっていた。人の形を作りかけているが、頭はまだ見えない。
湊はスマートフォンを握った。
撮れる。
そう思った直後、左腕が痛んだ。
前へ出る理由はなかった。顔も、手口も、もう持っている。
玲奈が来た道を指した。
湊は頷き、壁沿いに歩いた。
凛が最後尾に残り、男がついてくるのを待つ。湊は蓮を呼び、帰ることと、駅裏で黒い影を見たことを伝えた。
若い男は、受付の方を見た。
「あれ、剥がしたら」
「後から来た人には、分からなくなる」
湊は答えた。
「だから、ここだけで終わらせない。配ってた紙と、あなたの話を持って帰る」
男は唇を結び、前を向いた。
走らずに、角を曲がる。
次の角でも足を止め、背後を確かめた。人影はなく、追いかけてくる足音もなかった。
*
診療所へ戻ると、大地が入口に立っていた。
若い男を見る。玲奈が短く事情を説明すると、大地は扉の前から横へ退いた。
「入口の部屋で話せ。怪我人のいる奥には入るなよ」
男は小さく頷いた。
大地が入口の見張りに事情を伝えた。若い男は戸口に近い椅子へ案内され、玲奈がその隣についた。救い出した二人のいる部屋とは、廊下を隔てている。
待合室で、灰色のパーカーの男が顔を上げる。
「あんた」
若い男の足が止まった。
玲奈が隣に立ったまま言った。
「今から、聞いたことを話してもらう」
湊は廊下の椅子へ座った。膝から力が抜け、思っていたより大きな音がした。
湊は処置をしてくれた女を呼び、包帯を見せた。
「歩いたので、もう一度お願いします」
凛は隣の椅子に座り、回収した紙を膝の上で揃えた。湊の腕へ一度目をやったが、何も言わず、書き込みの違う紙を選り分け始めた。
待合室から、若い男の声が聞こえる。
最初の一言が出るまで、長かった。
「俺が、紙を渡しました」
誰かが椅子を動かす音がした。
玲奈の声が続く。
「最後まで聞いて。それから確認しよう」
湊は右手に残った黒いインクを見た。
風も、衝撃も、使わなかった。
次の二人が橋へ向かうのを止め、紙を配っていた一人を連れ出した。
あの男が戻れば、すぐに気づく。紙がなくなり、人がいなくなり、自分の手口が貼り出されている。
次に何をするかは分からない。
警告を剥がし、別の誰かに紙を持たせれば、受付はまた使えてしまう。
湊は凛から一枚を受け取り、手口の分かる部分を撮った。顔だけでなく、これも知らせる必要があった。
廊下の奥で、蓮の声が聞こえた。
イヤホン越しではなかった。
「朝倉」
振り返ると、相馬と蓮が裏口に立っていた。案内してきた革命軍の参加者に、相馬が頭を下げている。
湊は座ったまま、空いた椅子を右手で示した。
「二人とも、座ってください」
蓮は椅子のそばまで来て、湊の包帯へ目を落とした。
「また増えた?」
「これはさっきの」
「なら、いいけど」
蓮は腰を下ろし、イヤホンを片方外した。耳の周りが赤くなっている。
「壮真たちとは、ここからつながる?」
「今は届かない。移動してから、声を拾えてない」
湊は頷いた。別の街区にいる二人の様子は、こちらから見えない。
「こっちが動く時、もう一度だけ試して。それまでは休んで」
相馬が壁に背を預けた。歩き続けてきたのか、呼吸が少し乱れていた。
「駅の反対側で、王冠軍が人を集めています」
「避難ですか」
湊が尋ねる。
「そのようです。ただ、通れる道を絞ると言っていました。黒いものを街区の内側へ入れないために」
大地が廊下へ顔を出した。
「入口を塞ぐってことか」
「まだ、作業を始めたところでした。こちら側にも人がいると伝えてきましたが」
相馬はそこで言葉を切った。
湊は膝の上のスマートフォンを見た。
敵が人を捕まえるために切った道。
今度は、人を守るために閉じようとしている。
診療室では、誰かが咳き込んでいた。自分の足で歩けない人もいる。
大地が入口の外を見た。
「話、通じる相手なんだろうな」
相馬はすぐには答えなかった。
湊は画面を開いた。記録した敵の顔と、貼り出した警告。その二枚を順に見る。
何から逃げているかは、説明できる。
誰を通してほしいかも。
「まず、ここに何人いるか確かめましょう」
今度は、知らないまま決められたくなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。
少しでも続きが気になった方は、ぜひ次話もお読みいただけるとうれしいです。
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小説とはまた違った形で描かれる、湊たちの物語も楽しんでいただけたら嬉しいです。
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