第41話 誰かの朝を取り戻す
シャッターの陰から、女が出てきた。
「その人を放して」
黒い外套の人物は、女が近づいてくるのを待っていた。
「返してほしいか」
「私の記憶なの」
「なら、仲間を二人連れてこい。記憶を預けたままでな」
女の足が止まった。
「そんなことしたら、その人たちが……」
「お前のは戻る」
声は静かだった。
捕まっている男が、首を振った。
「来るな。誰も連れてくるな」
外套の人物は男を見た。
「膝を伸ばせ。まだ返してないだろ」
男の足が震えていた。身体が沈むほど、首に回った糸が締まる。
女は端末を握りしめた。
湊は二階の壁の陰で、スマートフォンを下ろした。
ただ捕まえるだけではない。
助かりたければ、次の誰かを差し出せと言っている。
凛が袖を引いた。
「下へ。出口を確かめる」
湊は撮影を止め、蓮へ場所と状況を伝えた。救援はまだ到着できないという相馬の返答を聞きながら、二人で階段を降りる。
一階の裏には、荷物を運び込むための通路があった。駅の正面まで抜けられる。裏通りとの境には太い柱と、半分下りた防火シャッターがあった。
凛が通路を往復して確かめる間、湊は柱の陰から外を覗いた。
人質まで七メートルほど。黒い身体は二棟のビルに挟まって屈み、胸元の男を路面近くへ押さえている。
男の踵が浮きかけた。
外套の人物が腰を持ち上げ、また足をつかせる。
湊は目を細めた。
生かすために、手をかけている。
凛が戻り、湊の隣で身をかがめた。
男が首の輪へ指を入れると、外套の人物が左手を上げた。二本の指が曲がり、脇を通る糸が引かれる。肩を後ろへ押さえつけられ、男は腕を下ろした。
その間、頭上を探っていた巨大な手は止まっていた。
左手が開くと、今度は巨体の肩が動く。脇の糸は張ったままだが、男が腕を動かしても、それ以上は引かれなかった。
湊は凛の袖に触れ、相手の左手を指した。
「今、あの指で糸を引いた」
「大きい方は止まってる」
二人はもう一度、男の手元を見た。
「正面まで通れる。大きいのは、ここに入れない」
柱の脇には、空の台車があった。
湊はそれと、男の首を見比べた。輪を引いているのは、脇を通る細い二本の糸だった。
「下から支えれば緩む。台車に乗せて、その二本を切る」
「近づく間は?」
「あいつは人質を生かしたい。そばまで入れば、大きい手でまとめては潰せない」
凛は外套の人物を見た。
「本人は、止めに来るよ」
「風で押し返す。その間に切ってもらう」
「左手も見て。糸を足されたら、抜けられなくなる」
「分かった。台車を挟んで、手を伸ばさせない」
湊はスマートフォンを握り直した。
「顔が撮れれば、他の人にも知らせられる。こいつに近づくなって」
「撮るために残らないで」
「助けたら一緒に戻る」
凛が頷いた。
湊は強風の動画を開いた。
彼女が台車を押し、二人は柱の陰を出た。
車輪の音に、外套の人物が振り向く。
「そいつらがお前の仲間か」
湊は返事をせず、人質へ駆け寄った。
頭上で黒い腕が持ち上がる。指の影が路面を横切った。
湊は男の肩へ左腕を回し、すぐ横に立った。
「この人まで潰したら、誰を脅すんだ」
黒い手が止まった。
外套の人物は湊を見た。それから、男の震える足へ目を落とす。
「じゃあ、お前が支えろ」
男の膝裏を蹴った。
体重が湊の腕へ落ちてくる。
首の糸が張る。
湊は歯を食いしばり、男の脇へ肩を入れた。持ち上げなければ窒息する。離れたら、目の前で死ぬ。
「凛!」
台車が足元へ入った。
凛が車輪を止め、二人で男を荷台へ立たせる。男は取っ手にしがみつき、激しく咳き込んだ。
外套の人物が左手を曲げた。
頭上の手が止まり、胸から伸びた糸が、相手の左指に絡んでから湊の足元を打った。湊は靴を引いた。車輪に絡んだ一本が台車を引き、男の身体が傾く。
凛が取っ手を押さえた。
「朝倉、左!」
湊は端末を相手へ向けた。外套の人物は指を開き、荷台の陰へ身を寄せる。糸の引く力が止まった。人質を間に置かれ、湊も画面を押せない。
「こっちへ来て!」
凛が女を呼んだ。
女が走り、男の腰を支える。凛は金属片を渡し、首の輪につながる二本を示した。
「ここを切って。私たちが止めるから」
外套の人物が短い刃物を抜いた。
女の手が止まる。
「今なら、その二人を置いて行けば返してやる」
女は男を見た。
彼は息を切らせながら、首を振った。
女は金属片を糸へ押し当てた。
外套の人物が人質の脇から踏み込み、台車へ左手をかけた。引き倒すつもりだった。
身体が荷台の横へ出る。
湊は待ち構えていた指で、画面を押した。
「《REPLAY》!」
風が吹きつけた。
相手の外套が膨らみ、頭巾が後ろへ剥がれた。取っ手から手が離れ、その身体が脇の壁へぶつかる。
胸元から端末が落ちた。
凛が足で女の側へ弾いた。女は男に取っ手を掴ませたまま端末を拾い、自分のポケットへ入れると、すぐに腰を支え直した。
相手の左手が上がりかけた。
凛は台車と相手の左手を結ぶ糸を掴み、身体ごと後ろへ引いた。壁際の身体がつんのめる。糸が指からほどけて落ちた。
湊はカメラへ切り替えた。
むき出しになった男の顔を捉え、録画を始める。
頬に古い傷が一本。薄い唇が引き結ばれていた。
その目が、レンズを見た。
湊は撮影を続けたまま、スマートフォンを胸ポケットへ差し込んだ。上端のレンズを外へ出し、空いた右手で取っ手を掴む。
もう、カメラの方は見なかった。
男が戻ってくる。
女は歯を食いしばり、糸を擦っていた。一本が切れると、人質の男性が自分の襟元へ指を入れた。
刃物が女へ向いた。
凛が取っ手の陰から腕を伸ばし、女の肩を引いた。刃が金属を叩いた。
男はすぐに手首を返した。
凛の上着の脇が裂ける。
彼女の足元に白い道が走った。
――《ROUTE》。
今、台車を押してきた経路を後ろへ滑り、凛は柱の手前まで退いた。
相手は追わなかった。
女の方へ向き直る。
湊は取っ手を引き寄せ、その間へ身体を入れた。
金属の横から回り込んだ刃が、左前腕を裂いた。
手から力が抜けそうになる。
それでも右手は離さなかった。
「そのまま、切って!」
女は下を向いたまま、金属片を動かした。
目の前で、血が荷台へ落ちた。
湊の血だった。
女の手が一度止まり、次に、もっと強く動いた。
相手が刃を引き、左手を胸の前へ出す。
柱から駆け戻った凛が、その左腕を両手で掴んだ。手のひらを取っ手へ押しつけ、指を曲げさせまいと身体を預ける。
相手が刃物を持つ右腕を返した。
凛は身を低くした。刃が髪の上を通る。長くは押さえていられない。
「切れた!?」
女は答える代わりに、金属片を引いた。
細い音がした。
男性が首の輪へ顎を押し込み、頭を抜く。背中を引き剥がすと、シャツが裂けた。
女が彼を抱え、荷台から降ろした。
凛は左腕を放し、取っ手の陰へ退いた。
黒い腕が振り上がった。
人質が外れた途端、その動きから迷いが消えた。
「朝倉、戻る!」
凛の声に、湊は足を動かした。
台車の固定を外して相手へ押し出し、自分も柱へ走る。背後で荷台が潰れ、金属の破片が背中を打った。
振り返らなかった。
凛が女と一緒に男性を通路へ入れ、その後へ湊が飛び込んだ。
黒い指が柱を掻いた。コンクリートが砕ける。
四人が抜けたところで、凛と湊はシャッターの下端へ手をかけた。
外で、壁の崩れる音がした。黒い腕が柱の向こうへ引き抜かれ、駅の屋根が軋む。
巨体は二棟の間で屈んだまま、肩を起こそうとしていた。軒に引っかかった糸の束が、外壁ごと剥がれていく。
抜けてくる。
湊は凛と一緒にシャッターを引き下ろした。直後、向こう側から刃物が板を叩く。
凛が湊の手首を掴む。
湊はそのまま走った。
*
「四人。駅の正面へ向かってる」
湊は蓮へ伝えた。
通路の先に、改札と外の光が見える。背後では、まだ金属を打つ音がしていた。
相馬の声が返った。
『玲奈さんたちが正面へ回っています。駅の西側が、桐生さんたちのいた道路につながっていました』
通信に玲奈の声が入った。
『先に助けた人は、西口の待合室。仲間に見てもらってる。そこを通って一緒に出るから!』
柱の向こうから、玲奈と革命軍の男が現れた。
男が被害者の男性を引き受けると、湊はようやく壁へ手をついた。
玲奈が左腕へ布を押し当てた。
「押さえて。歩ける?」
「はい」
言ってから、膝が震えていることに気づいた。
凛が右側へ回り、肩を貸した。
「ゆっくりでいいから」
入口を出た先では、大地が右腕を吊り、通りを見張っていた。
「西口へ。駅から見える通りは使うな!」
背後で、屋根の縁に黒い指がかかった。まだ上半身は上がってこない。
凛が湊を促し、大地が全員を建物の脇へ通した。壁際の低い庇の下を抜け、狭い通路を折れる。背後から人間の足音が追ってこないか、湊は耳を澄ませた。
西口の待合室では、額に布を巻いた負傷者を、革命軍の別の参加者が支えていた。玲奈が声をかけ、二人も列へ加わる。
玲奈が先へ立った。
助けた女が、ポケットから取り返した端末を出す。
「返せる?」
男性は支えられたまま頷いた。女が画面を持ち、彼が動く左手で返却を選ぶ。
白い光が女へ戻った。
それでも、歩みは止めなかった。
駅の壁が背後へ遠ざかる。
女が何か言いかけ、口元を押さえた。
「……卵、焦げてた」
男性が顔を上げる。
「息子が初めて朝ご飯を作ってくれた時。黒くなったところ、裏にして隠してて」
女は鼻をすすった。
「その時の顔、思い出せた」
男性は小さく息を吐いた。
「よかった」
湊は二人から目を逸らした。
忘れていたのは、誰かの朝だった。
世界を動かす秘密でも、英雄の戦いでもない。
それを返さないだけで、人をあんな場所へ呼び出せる。
凛が肩を持ち直した。
「痛い?」
「痛い」
強がる余裕はなかった。
彼女は歩調を落とした。
「戻ってきたね」
湊は凛を見た。
駅の中で交わした約束。
思い出して、頷いた。
「うん」
その先の言葉は、うまく出なかった。
玲奈が二つ目の角を曲がり、低い連絡通路の陰から手招きした。
大地は最後尾で足を止め、今来た道を見た。遠くで壁が崩れている。だが、角の向こうに外套の男も、黒い指も現れなかった。
「少しだけだ。腕を巻いたら動くぞ」
玲奈が湊の腕の布を結び直す。その間も大地は通りから目を離さなかった。
いったん立ち止まると、湊は凛に肩を預けたまま、胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
録画を止め、風を使った直後の場面を開く。
顔が映っていた。
古い頬の傷。こちらを見た目。
湊はその一枚を保存した。
大地が一瞬だけ画面を覗き、すぐ通りへ目を戻した。
「こいつか」
「はい」
助けた女も画面を見た。
「最初は、道を教えてくれたの」
声が小さくなる。
「受け取った人から渡れば安全だって。向こうで待ってるからって……」
男性が壁へ背中を預けた。
「渡ったところで捕まった。後ろへ知らせる前に、首へ糸が来た」
女は彼の左手を握った。
大地は通りを警戒したまま、黙って顎を引いた。
玲奈は何も言わなかった。
二人も、少し前まで記憶を預けていた。
「蓮。顔が撮れた」
湊はスマートフォンを持ち直した。
「知ってる人がいないか、会える人から見てもらいたい」
返事を聞きながら、画像をもう一度見た。
こんな顔で、道を案内していたのか。
助けを求めた人に、手を差し出して。
湊は画面を閉じた。
まず、怪我人を安全な場所へ運ぶ。
次は、こちらから見つける。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。
少しでも続きが気になった方は、ぜひ次話もお読みいただけるとうれしいです。
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小説とはまた違った形で描かれる、湊たちの物語も楽しんでいただけたら嬉しいです。
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