第40話 君から預かる一瞬
画面の中の手を、湊は何度も見直した。
黒い糸の隙間から出ていたのは、人間の右手だった。白い袖が手首に引っかかり、指先だけが端末を握っている。
「中の人が動かしてるの?」
凛の問いに、湊は答えなかった。
映像を戻す。
親指が画面へ近づく。すると肩が後ろへ引かれ、端末を取り落としかけた。
「操作しようとして、止められてない?」
凛が顔を近づけた。
もう一度、同じ場面を再生する。
糸は男の脇を通り、胸の束へ続いている。画面へ指を伸ばそうとすると糸が張り、肩ごと引き戻されていた。
「……捕まってる?」
湊は遠くへ目を向けた。
影は駅の向こうへ移っていた。建物の間に屈み込んだらしく、肩に当たる膨らみだけが屋根の上に見える。
「蓮。あの中から、人の声は聞こえる?」
「今は、分からない」
蓮は眉間を押さえた。
「いろんな音が重なってる。どれがどこから来るのか……」
相馬が、その肩へ手を置いた。
「一度、外してください」
「でも」
「声を拾えなくなるまで続けないで」
蓮は唇を噛み、イヤホンを耳から離した。
凛が道路の先へ歩いた。
切断面の向こうに駅舎がある。再配置で入口がこちらを向き、その脇には二階へ上がる階段が見えていた。
高い場所からなら、建物の裏を見下ろせる。
湊は彼女の隣に立った。
《PAIR ACCESS PENDING》
二人の端末には、まだその表示が残っている。
「俺が受け取れば――」
「朝倉」
凛が遮った。
「自分が追われる役になるって、もう決めないで」
湊は口を閉じた。
考えていた。
受け取った方が狙われるなら、自分が受け取ればいい。凛を逃がして、自分が引きつければいい。
その先を、彼女と相談していなかった。
「まず、何をしに行くのか決めよう」
凛は駅の向こうを見た。
「中の人を確かめる。それとも、あれを倒す?」
「確かめたい。捕まってるなら、助ける方法を探したい」
「じゃあ、倒すために追いかけ回さない」
湊は頷いた。
「私が戻るって言ったら、一緒に戻って」
「分かった。俺が言った時も」
「うん」
相馬が二人に追いついた。
「渡ってからリンクを解除した場合、帰りはどうしますか」
湊は足元を見た。
向こうへ行けても、解除すればこの道を使えなくなるかもしれない。
「再接続できるかは、向こうで確認します。駄目なら、駅の中に退避できる場所を探す。勢いで奥には入りません」
相馬は駅舎を見て、それから頷いた。
「こちらでも別の経路を探します。連絡が切れたら、まず入口へ戻ってください」
蓮がイヤホンを耳に戻した。
「二人の声を優先する。場所だけ、ときどき教えて」
凛が短く答え、ICカードへ目を落とした。
「私から預ける」
湊はすぐには頷かなかった。
「何を?」
「最初のBROKEN LINKを、あなたと倒した時」
二人で狙った胸の糸。重なった衝撃。
湊は彼女を見た。
「あの時ので、いいの?」
「よくなかったら、言わない」
凛は少しだけ考えた。
「一人じゃどうにもならなかったのに、あなたが同じところを見てた。……それが、嬉しかったんだと思う」
湊はスマートフォンを握り直した。
もっと昔の、失うのが怖い記憶を探さなければならないと思っていた。
自分といた時間も、その一つになる。
「受け取るよ」
双方の同意を終え、凛が記憶を選ぶと、有効の表示が出た。
最後の確認に、彼女の指が触れた。
白い光が渡ってくる。
湊の目の前に、あの道路が現れた。
右手に金属片を握っている。
自分の手ではない。
視界の端には、スマートフォンを構えた自分がいた。肩が強張り、唇を噛み、異形の胸を見ている。
『合わせる!』
外から聞く自分の声は、思っていたより頼りなかった。
それでも、この時の凛は振り下ろした。
横から衝撃が重なる。
黒い糸が弾けた瞬間、胸の奥がほどけた。
助かったという安堵に、もう一つの感情が混じっていた。
隣を確かめたくなる気持ち。
その顔を見る前に、景色が消えた。
湊は息を吸った。
目の前の凛は、自分の手を見ていた。
《FORMAL MEMORY LINK ESTABLISHED》
「……預けるって決めたのは覚えてる」
凛は顔を上げた。
「でも、倒した瞬間が出てこない」
湊は頷いた。
自分にも同じ出来事の記憶はある。だが、今預かったものは、自分の知っていた戦いとは少し違った。
「返すまで、持ってる」
凛は一度だけ頷いた。
二人は現れた光の橋を渡った。
湊は何度も駅の屋根へ目を向けた。影は動かない。白い線が脈打つたび、自分たちの場所を知らせているような気がした。
駅へ着くと、凛は入口脇の柱を確かめた。湊は端末を開く。
返却が可能になっている。
「戻すよ」
光が凛へ帰った。
彼女は目を閉じ、それから湊を見た。
「……ちゃんと、合わせてくれた」
返ってきた記憶の話だと分かるまで、少しかかった。
湊が頷くと、凛は先に駅舎へ目を向けた。
端末には再びペアの名前と、接続待ちの表示があった。湊はその項目を開いたが、同じ橋を戻れるという案内は見つからなかった。
湊は蓮へ到着を伝えた。
「帰りの橋は、まだ確認できない。入口には隠れられる柱がある。まず二階から裏を見る」
『分かりました。こちらは別の道を探します。降りる前に状況を知らせてください』
相馬の返答を聞き、湊は入口の位置をもう一度伝えた。
凛が先に階段を上がった。
*
二階の連絡通路には、片側の壁がなかった。
身を低くして近づくと、駅の裏通りが見えた。
黒い影は、二棟のビルに挟まるように膝をついていた。腕を畳み、胴を深く折っている。胸の下端が道路すれすれまで下がっていた。
そこに、男が縛りつけられていた。
足は地面に届いている。だが、脇と首を囲む細い糸に引かれ、背中を胸の束へ押しつけられていた。
男は端末へ指を伸ばした。
別の手が、その手首を掴む。
黒い外套を着た人物が、男の前に立っていた。
湊は録画を始めた。
「返すなと言っただろ」
外套の人物が手首をひねり上げる。端末が奪われ、男の喉から短い悲鳴が漏れた。
その拍子に男の踵が浮いた。
黒い糸が喉へ食い込む。
外套の人物はすぐに男の腰を持ち上げ、足を地面へ戻した。糸がわずかに緩み、咳が続いた。
湊は、その手つきを見た。
傷つける。
でも、殺しはしない。
外套の人物は奪った端末を胸の内側へしまい、通りの向こうへ顔を向けた。
「出てこい。こいつが持っているんだろう。お前の記憶」
半分潰れた店のシャッターが、小さく揺れた。
人質だった。
あの男だけではない。
彼に大切なものを預けた誰かまで、逃がさないために。




