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『MEMORIA WAR ―記憶戦争― 信長・武蔵・ジャンヌ――歴史の英雄と名もなき者たち』  作者: 130
第3章 BOND

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第39話 白い線を狩る影

 白い線が切れた。


 都市の中心を横切っていた一本が、途中からほどけるように消えていく。光の残骸が闇へ落ち、その先に浮かんでいた街区が、ゆっくりと傾いた。


 朝倉湊はスマートフォンを握り直した。


「蓮。消えた声って、通信してた人?」


 高瀬蓮は片耳のイヤホンを押さえていた。聞き取ろうとしているのか、何かに耐えているのか、湊には分からなかった。


「……さっきまで、何人か話してた」

「何て?」

「橋を渡る順番。怪我してる人を先にって。それから、誰かが叫んで」


 蓮の指が、耳元で止まった。


「そこで切れた」


 死んだのか。


 その言葉を、湊は飲み込んだ。声が聞こえなくなっただけで、そこまで決めつけることはできない。


 黒瀬凛が遠くの街区を指した。


「朝倉。あれ」


 傾いた道路の端に、人がいた。


 一人ではない。何人もの影が身を寄せている。こちらから顔は見えないが、まだ動いていた。


「生きてる」


 湊が言うと、蓮はようやく息を吐いた。


 だが、その人々へ近づくものがあった。


 建物の陰から、黒い腕が現れる。道路に手をつき、指を曲げる。その指だけで、成人の背丈ほどもあった。


 続いて現れた胴体は、人間の形をしているようで、輪郭が定まらなかった。黒い糸が何重にも折り重なり、歩くたびに内側で位置を変えている。


 顔に当たる場所には、何もない。


「さっきの影……」


 湊はスマートフォンの録画を始め、画面を拡大した。


 黒い腕が持ち上がる。その下で、逃げ遅れた一人が道路に転んだ。別の一人が引き返し、倒れた人の脇へ腕を入れる。


「早く……」


 届かないと分かっていても、声が漏れた。


 腕が振り下ろされる。


 湊は反射的に端末を握り込んだ。


 黒い手は、人々の頭上を通過した。代わりに、その背後を走っていた白い線が弾ける。


 街区の端に残っていた光の道が消えた。


「人を狙ってない?」


 凛が言った。


 影は、転んだ人間には手を伸ばさなかった。次の白い線へ向かって、身体の向きを変えていく。


「逃げ道を切ってる」


 湊の言葉と同時に、蓮のイヤホンから鋭い音が漏れた。


『朝倉!』


 桐生大地の声だった。


『そっちから、こっち見えるか!』


 湊はカメラを振った。浮かぶ建物が視界を遮り、大地たちの街区がすぐには見つからない。


「何があったんですか!」

『道が消えた。負傷者を移してる途中だった!』


 凛が湊の肘を引き、斜め下を指した。


 崩れた高架道路に、大地がいた。再配置で街区が近づき、今は四十メートルほど先の、少し低い場所に見えている。


 大地は縁に片膝をつき、片腕を下へ伸ばしていた。


 その手から、人間がぶら下がっていた。


     *


 大地の左手が、コンクリートの縁を掴んでいた。


 ――《ANCHOR》。


 固定した身体は動かない。だが、右手で掴んでいる男の上着は別だった。


 肩口の布が裂け始めている。


「腕を上げろ!」


 男が顔を上げた。額から流れた血が片目を塞いでいた。


「無理……手が」

「動く方でいい!」


 瀬川玲奈が隣へ腹ばいになり、手を伸ばす。


「こっち! 私を見て!」


 男の左腕が上がった。玲奈がその手首を両手で掴み、もう一人の仲間が彼女の腰を支えた。


 これで引き上げられる。


 そう思った時、大地の背後で何かが擦れた。


 玲奈の目が見開かれる。


 BROKEN LINKが、片方の脚を引きずりながら近づいていた。壊れた膝を黒い糸で引き上げ、路面を蹴る。


「桐生さん!」

「離すな!」


 大地は上着を引き上げた。


 肩と腕に、焼けるような痛みが走る。身体を固定していても、持ち上げる力まで増えるわけではない。


 男の胸が道路の縁に乗った。


 大地は上着から手を離し、固定を解いて振り返った。


 異形の爪が、右の上腕を裂いた。


 熱いものが肘まで流れる。


 大地は後ろへ引かず、その腕を異形の肘の内側へ差し込んだ。肩で押し返しながら、左手で反対の手首を掴む。


 靴底が滑る。


 背後では、玲奈たちが男を引きずり上げていた。


 大地は足を開き、もう一度、自分を固定した。


 異形の身体だけが前へ折れる。


 黒い糸が軋んだ。肩から腕を伸ばして逃れようとする異形を、大地は離さなかった。


「三人とも、俺から離れろ!」


 玲奈が男の脇を抱え、もう一人と引きずっていく。


 異形が大地の肩へ噛みつこうとした。歯が作業着を裂く。


 大地は顎を引いたまま、相手の足元を見た。


 壊れているのは右膝。体重は左脚に寄っている。


 その左脚のすぐ先に、道路の縁があった。


「こっちまで来い」


 異形が前へ踏み込んだ。


 大地は固定を解いた。


 押し合っていた力が、一気にこちらへ流れ込む。耐えずに半歩横へ退き、掴んだ左手を自分の腰の方へ引いた。


 異形の左足が縁を越えた。


 右膝は踏ん張れなかった。


 大地は腕を離した。


 爪が足元を掻き、路面を白く削る。異形は道路の下へ消えた。


 大地もよろめいた。


 背中の服が強く引かれる。


 戻ってきた玲奈だった。


「落ちたいの!?」

「落ちてねえだろ」


 声は出たが、膝に力が入らなかった。


 下から爪の擦れる音がする。倒したわけではない。


 大地はすぐに立ち直り、男を支える仲間へ顎を向けた。


「離れるぞ。登ってくる前に」


     *


 湊は画面越しに、大地たちが縁から離れるのを見届けた。


 助けるための動画を探すより先に、大地は動いていた。


 湊は検索しかけた指を下ろし、カメラを構え直した。


「大地さん、腕は?」

『動く』


 答えになっていなかった。


 画面の中で、玲奈が大地の上腕へ布を押し当てていた。


 その背後を白い光が横切っている。二人を結ぶ、記憶の線。


 その光へ向かって、建物の陰が動いた。


「……来る」


 蓮の声に、湊は目を上げた。


 黒い影がビルの外壁に手をかけていた。身体を持ち上げ、屋上を越える。


 跳んでいるのではない。長い腕を次の建物へ伸ばし、街区の隙間を渡っているのだ。


「大地さん、そこから離れて!」

『どっちへ!』


 湊は答えられなかった。


 大地たちのいる道路は三方が途切れている。残る一方には、倒壊した建物が道を塞いでいた。


 黒い影は、その向こうから近づいてくる。


 相馬源一郎が、湊の画面を覗き込んだ。


「玲奈さんの記憶は、まだ桐生さんが?」


 湊ははっとした。


「戦う前に、記憶を返せますか!」


 玲奈が端末を取り出す。大地も血のついた手で画面を開いた。


『返却の表示はある』


 その時、黒い影の腕が倒壊したビルを越えた。


 開いた手のひらから黒い糸が垂れ、道路を探るように揺れる。


 玲奈が大地の服を掴んだ。


『動いて!』


 二人が横へ飛び退く。黒い糸が、二人のいた場所へ突き刺さった。


 アスファルトが細く裂け、大地の端末が手を離れて地面を滑った。


「大地さん!」

『生きてる!』


 湊はカメラの倍率を下げた。


 影は大地たちへ顔を向けていた。近くにいる負傷者には見向きもしない。


 玲奈が鉄パイプを構えて前へ出る。


 影の顔が動いた。


 玲奈を追ったのではなかった。端末を拾おうと身をかがめた、大地の方を向いた。


「大地さんを狙ってる?」


 凛が言った。


 大地が左へ移ると、腕も左へ向いた。白い線が、その動きを追うように伸びる。


 黒い腕が道路へ振り下ろされた。


 大地は玲奈の肩を押して離し、自分は後ろへ下がる。指先が地面を打ち、逃げ道を塞ぐように黒い糸が広がった。


 玲奈はしゃがんだ拍子に、靴の先へ滑ってきた大地の端末を拾い、上着へ押し込んだ。


『こっちにも道を出せるか!』


 遠くの屋上で、小さな光が灯った。


 ハリエット・タブマンの《NORTH STAR》。


 光が示したのは、大地たちの右手にある、建物と外壁の隙間だった。


『右の壁沿い! そこを抜ければ、裏へ出られる!』


 ハリエットの声が通信に混じる。


 玲奈が負傷者を支える仲間へ指示を飛ばした。大地も後へ続こうとする。


 黒い影の腕が、その前へ回り込んだ。


 湊は歯を食いしばった。


 ここから衝撃を届かせることはできない。凛の道も、通ったことのない街区へは伸ばせない。


 だが、壁には割れた窓が並んでいる。


「大地さん、そのまま壁沿いに! 玲奈さんたちは先へ!」


 大地が走り出す。


 影の頭が、その動きを追った。


 湊は撮影を止め、以前にも使った閃光の記録を開いた。


「凛、目を閉じて」


 画面へ指を置く。


「《REPLAY》!」


 白い光が湊の目の前で弾け、向かいの窓に反射した。


 影が止まった。


 わずかだった。だが、大地はその間に壁の角を曲がった。


 黒い腕が彼の背後を叩き、窓枠ごと外壁を砕いた。


『抜けた。全員いる』


 大地の荒い呼吸が聞こえた。


 凛がゆっくり目を開ける。


「……光に反応したね」

「うん」


 何もない顔だから、目もないと思っていた。そんなことさえ、まだ分かっていない。


 湊はすぐにカメラへ戻し、録画を再開した。


 影は砕いた壁へ手を差し入れ、大地たちが逃げた方向を探っている。


「相馬さん。さっき、負傷者の方が近くにいたんです」

「ええ」

「玲奈さんが前に出ても、大地さんを追った」

「預かった側を狙っている、と?」

「まだ分かりません。でも、もしそうなら」


 大地が死ねば、玲奈の記憶まで戻らなくなるかもしれない。


 その時、通信の向こうで大地が言った。


『玲奈、拾ってくれたのか。……返すぞ、今のうちに』


 短いやり取りの後、建物の陰から白い光が漏れた。


 大地と玲奈を結んでいた線が、ゆっくりと縮む。


 瓦礫を探っていた影の指が止まった。


『……思い出した』


 玲奈の声が聞こえた。


『校門の前。写真撮る時、私、泣いてて』

『戻ったか』

『うん』


 大地が長く息を吐いた。


 影は建物から手を抜き、別の街区へ顔を向けた。その先には、まだ何本もの白い線があった。


「返したら、やめた」


 凛が低く言った。


 湊は録画を続けた。


 大地だけを追い、返却した途端に離れた。まだ偶然の可能性はある。今の動きは、後でもう一度見直せるように残しておきたかった。


「蓮。つながる人に伝えて。黒い影が近くにいたら、記憶を受け取った人を一人にしないでって」

「全部返せってこと?」

「そこまでは言えない。返したら渡れなくなる道もある。安全な場所で返せるなら、戻して」


 蓮が頷き、イヤホンへ指を添えた。


 相馬が遠ざかる影を見つめる。


「つながらなければ進めない。つながれば、狙われる可能性がある」


 凛の端末には、まだ同じ表示が残っていた。


《ASAKURA MINATO ⇄ KUROSE RIN》

《PAIR ACCESS PENDING》


 湊はその名前を見た。


 凛が記憶を預ければ、自分が追われるかもしれない。自分が預ければ、凛が。


 彼女も同じことを考えているのだと、黙っている横顔で分かった。


 その時、黒い影が腕を止めた。


 頭だけを、こちらへ向ける。


 顔も、目もない。それでも、今度は確かに視線が合った気がした。


 影の胸元で、何かが光った。


 黒い糸の隙間にある、小さな四角い光。


 湊はカメラを拡大した。糸が重なり、すぐに見えなくなる。


 だが、その直前に映っていた。


 光る画面を握る、人間の指が。


「凛」

「見えた」


 湊は画面の赤い録画表示を確かめ、黒い影を見上げた。


 あの中にいるのは、誰だ。





 白い線が切れた。


 都市の中心を横切っていた一本が、途中からほどけるように消えていく。光の残骸が闇へ落ち、その先に浮かんでいた街区が、ゆっくりと傾いた。


 朝倉湊はスマートフォンを握り直した。


「蓮。消えた声って、通信してた人?」


 高瀬蓮は片耳のイヤホンを押さえていた。聞き取ろうとしているのか、何かに耐えているのか、湊には分からなかった。


「……さっきまで、何人か話してた」

「何て?」

「橋を渡る順番。怪我してる人を先にって。それから、誰かが叫んで」


 蓮の指が、耳元で止まった。


「そこで切れた」


 死んだのか。


 その言葉を、湊は飲み込んだ。声が聞こえなくなっただけで、そこまで決めつけることはできない。


 黒瀬凛が遠くの街区を指した。


「朝倉。あれ」


 傾いた道路の端に、人がいた。


 一人ではない。何人もの影が身を寄せている。こちらから顔は見えないが、まだ動いていた。


「生きてる」


 湊が言うと、蓮はようやく息を吐いた。


 だが、その人々へ近づくものがあった。


 建物の陰から、黒い腕が現れる。道路に手をつき、指を曲げる。その指だけで、成人の背丈ほどもあった。


 続いて現れた胴体は、人間の形をしているようで、輪郭が定まらなかった。黒い糸が何重にも折り重なり、歩くたびに内側で位置を変えている。


 顔に当たる場所には、何もない。


「さっきの影……」


 湊はスマートフォンの録画を始め、画面を拡大した。


 黒い腕が持ち上がる。その下で、逃げ遅れた一人が道路に転んだ。別の一人が引き返し、倒れた人の脇へ腕を入れる。


「早く……」


 届かないと分かっていても、声が漏れた。


 腕が振り下ろされる。


 湊は反射的に端末を握り込んだ。


 黒い手は、人々の頭上を通過した。代わりに、その背後を走っていた白い線が弾ける。


 街区の端に残っていた光の道が消えた。


「人を狙ってない?」


 凛が言った。


 影は、転んだ人間には手を伸ばさなかった。次の白い線へ向かって、身体の向きを変えていく。


「逃げ道を切ってる」


 湊の言葉と同時に、蓮のイヤホンから鋭い音が漏れた。


『朝倉!』


 桐生大地の声だった。


『そっちから、こっち見えるか!』


 湊はカメラを振った。浮かぶ建物が視界を遮り、大地たちの街区がすぐには見つからない。


「何があったんですか!」

『道が消えた。負傷者を移してる途中だった!』


 凛が湊の肘を引き、斜め下を指した。


 崩れた高架道路に、大地がいた。再配置で街区が近づき、今は四十メートルほど先の、少し低い場所に見えている。


 大地は縁に片膝をつき、片腕を下へ伸ばしていた。


 その手から、人間がぶら下がっていた。


     *


 大地の左手が、コンクリートの縁を掴んでいた。


 ――《ANCHOR》。


 固定した身体は動かない。だが、右手で掴んでいる男の上着は別だった。


 肩口の布が裂け始めている。


「腕を上げろ!」


 男が顔を上げた。額から流れた血が片目を塞いでいた。


「無理……手が」

「動く方でいい!」


 瀬川玲奈が隣へ腹ばいになり、手を伸ばす。


「こっち! 私を見て!」


 男の左腕が上がった。玲奈がその手首を両手で掴み、もう一人の仲間が彼女の腰を支えた。


 これで引き上げられる。


 そう思った時、大地の背後で何かが擦れた。


 玲奈の目が見開かれる。


 BROKEN LINKが、片方の脚を引きずりながら近づいていた。壊れた膝を黒い糸で引き上げ、路面を蹴る。


「桐生さん!」

「離すな!」


 大地は上着を引き上げた。


 肩と腕に、焼けるような痛みが走る。身体を固定していても、持ち上げる力まで増えるわけではない。


 男の胸が道路の縁に乗った。


 大地は上着から手を離し、固定を解いて振り返った。


 異形の爪が、右の上腕を裂いた。


 熱いものが肘まで流れる。


 大地は後ろへ引かず、その腕を異形の肘の内側へ差し込んだ。肩で押し返しながら、左手で反対の手首を掴む。


 靴底が滑る。


 背後では、玲奈たちが男を引きずり上げていた。


 大地は足を開き、もう一度、自分を固定した。


 異形の身体だけが前へ折れる。


 黒い糸が軋んだ。肩から腕を伸ばして逃れようとする異形を、大地は離さなかった。


「三人とも、俺から離れろ!」


 玲奈が男の脇を抱え、もう一人と引きずっていく。


 異形が大地の肩へ噛みつこうとした。歯が作業着を裂く。


 大地は顎を引いたまま、相手の足元を見た。


 壊れているのは右膝。体重は左脚に寄っている。


 その左脚のすぐ先に、道路の縁があった。


「こっちまで来い」


 異形が前へ踏み込んだ。


 大地は固定を解いた。


 押し合っていた力が、一気にこちらへ流れ込む。耐えずに半歩横へ退き、掴んだ左手を自分の腰の方へ引いた。


 異形の左足が縁を越えた。


 右膝は踏ん張れなかった。


 大地は腕を離した。


 爪が足元を掻き、路面を白く削る。異形は道路の下へ消えた。


 大地もよろめいた。


 背中の服が強く引かれる。


 戻ってきた玲奈だった。


「落ちたいの!?」

「落ちてねえだろ」


 声は出たが、膝に力が入らなかった。


 下から爪の擦れる音がする。倒したわけではない。


 大地はすぐに立ち直り、男を支える仲間へ顎を向けた。


「離れるぞ。登ってくる前に」


     *


 湊は画面越しに、大地たちが縁から離れるのを見届けた。


 助けるための動画を探すより先に、大地は動いていた。


 湊は検索しかけた指を下ろし、カメラを構え直した。


「大地さん、腕は?」

『動く』


 答えになっていなかった。


 画面の中で、玲奈が大地の上腕へ布を押し当てていた。


 その背後を白い光が横切っている。二人を結ぶ、記憶の線。


 その光へ向かって、建物の陰が動いた。


「……来る」


 蓮の声に、湊は目を上げた。


 黒い影がビルの外壁に手をかけていた。身体を持ち上げ、屋上を越える。


 跳んでいるのではない。長い腕を次の建物へ伸ばし、街区の隙間を渡っているのだ。


「大地さん、そこから離れて!」

『どっちへ!』


 湊は答えられなかった。


 大地たちのいる道路は三方が途切れている。残る一方には、倒壊した建物が道を塞いでいた。


 黒い影は、その向こうから近づいてくる。


 相馬源一郎が、湊の画面を覗き込んだ。


「玲奈さんの記憶は、まだ桐生さんが?」


 湊ははっとした。


「戦う前に、記憶を返せますか!」


 玲奈が端末を取り出す。大地も血のついた手で画面を開いた。


『返却の表示はある』


 その時、黒い影の腕が倒壊したビルを越えた。


 開いた手のひらから黒い糸が垂れ、道路を探るように揺れる。


 玲奈が大地の服を掴んだ。


『動いて!』


 二人が横へ飛び退く。黒い糸が、二人のいた場所へ突き刺さった。


 アスファルトが細く裂け、大地の端末が手を離れて地面を滑った。


「大地さん!」

『生きてる!』


 湊はカメラの倍率を下げた。


 影は大地たちへ顔を向けていた。近くにいる負傷者には見向きもしない。


 玲奈が鉄パイプを構えて前へ出る。


 影の顔が動いた。


 玲奈を追ったのではなかった。端末を拾おうと身をかがめた、大地の方を向いた。


「大地さんを狙ってる?」


 凛が言った。


 大地が左へ移ると、腕も左へ向いた。白い線が、その動きを追うように伸びる。


 黒い腕が道路へ振り下ろされた。


 大地は玲奈の肩を押して離し、自分は後ろへ下がる。指先が地面を打ち、逃げ道を塞ぐように黒い糸が広がった。


 玲奈はしゃがんだ拍子に、靴の先へ滑ってきた大地の端末を拾い、上着へ押し込んだ。


『こっちにも道を出せるか!』


 遠くの屋上で、小さな光が灯った。


 ハリエット・タブマンの《NORTH STAR》。


 光が示したのは、大地たちの右手にある、建物と外壁の隙間だった。


『右の壁沿い! そこを抜ければ、裏へ出られる!』


 ハリエットの声が通信に混じる。


 玲奈が負傷者を支える仲間へ指示を飛ばした。大地も後へ続こうとする。


 黒い影の腕が、その前へ回り込んだ。


 湊は歯を食いしばった。


 ここから衝撃を届かせることはできない。凛の道も、通ったことのない街区へは伸ばせない。


 だが、壁には割れた窓が並んでいる。


「大地さん、そのまま壁沿いに! 玲奈さんたちは先へ!」


 大地が走り出す。


 影の頭が、その動きを追った。


 湊は撮影を止め、以前にも使った閃光の記録を開いた。


「凛、目を閉じて」


 画面へ指を置く。


「《REPLAY》!」


 白い光が湊の目の前で弾け、向かいの窓に反射した。


 影が止まった。


 わずかだった。だが、大地はその間に壁の角を曲がった。


 黒い腕が彼の背後を叩き、窓枠ごと外壁を砕いた。


『抜けた。全員いる』


 大地の荒い呼吸が聞こえた。


 凛がゆっくり目を開ける。


「……光に反応したね」

「うん」


 何もない顔だから、目もないと思っていた。そんなことさえ、まだ分かっていない。


 湊はすぐにカメラへ戻し、録画を再開した。


 影は砕いた壁へ手を差し入れ、大地たちが逃げた方向を探っている。


「相馬さん。さっき、負傷者の方が近くにいたんです」

「ええ」

「玲奈さんが前に出ても、大地さんを追った」

「預かった側を狙っている、と?」

「まだ分かりません。でも、もしそうなら」


 大地が死ねば、玲奈の記憶まで戻らなくなるかもしれない。


 その時、通信の向こうで大地が言った。


『玲奈、拾ってくれたのか。……返すぞ、今のうちに』


 短いやり取りの後、建物の陰から白い光が漏れた。


 大地と玲奈を結んでいた線が、ゆっくりと縮む。


 瓦礫を探っていた影の指が止まった。


『……思い出した』


 玲奈の声が聞こえた。


『校門の前。写真撮る時、私、泣いてて』

『戻ったか』

『うん』


 大地が長く息を吐いた。


 影は建物から手を抜き、別の街区へ顔を向けた。その先には、まだ何本もの白い線があった。


「返したら、やめた」


 凛が低く言った。


 湊は録画を続けた。


 大地だけを追い、返却した途端に離れた。まだ偶然の可能性はある。今の動きは、後でもう一度見直せるように残しておきたかった。


「蓮。つながる人に伝えて。黒い影が近くにいたら、記憶を受け取った人を一人にしないでって」

「全部返せってこと?」

「そこまでは言えない。返したら渡れなくなる道もある。安全な場所で返せるなら、戻して」


 蓮が頷き、イヤホンへ指を添えた。


 相馬が遠ざかる影を見つめる。


「つながらなければ進めない。つながれば、狙われる可能性がある」


 凛の端末には、まだ同じ表示が残っていた。


《ASAKURA MINATO ⇄ KUROSE RIN》

《PAIR ACCESS PENDING》


 湊はその名前を見た。


 凛が記憶を預ければ、自分が追われるかもしれない。自分が預ければ、凛が。


 彼女も同じことを考えているのだと、黙っている横顔で分かった。


 その時、黒い影が腕を止めた。


 頭だけを、こちらへ向ける。


 顔も、目もない。それでも、今度は確かに視線が合った気がした。


 影の胸元で、何かが光った。


 黒い糸の隙間にある、小さな四角い光。


 湊はカメラを拡大した。糸が重なり、すぐに見えなくなる。


 だが、その直前に映っていた。


 光る画面を握る、人間の指が。


「凛」

「見えた」


 湊は画面の赤い録画表示を確かめ、黒い影を見上げた。


 あの中にいるのは、誰だ。




ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。


少しでも続きが気になった方は、ぜひ次話もお読みいただけるとうれしいです。


『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』の漫画版をaimangaで公開しています。

小説とはまた違った形で描かれる、湊たちの物語も楽しんでいただけたら嬉しいです。


漫画版はこちら:

【https://a-i-manga.com/series/T0sv47QH】

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