第4話 二本の木刀
歴史上の偉人たちと、名もなき人々が“記憶”を武器に戦う物語です。
※本作には戦闘・死亡・一部残酷な描写があります。
――交戦を推奨しません。
その言葉だけが、妙にはっきりと頭に残った。
朝倉湊は、路地の向こうに立つ男から目を離せなかった。
宮本武蔵。
名前を知らない日本人の方が少ないだろう。歴史の授業だけではない。小説や漫画、映画でも、何百年もの間、剣豪として語り継がれてきた人物だ。
その男が今、二本の木刀を腰に差し、こちらを見ている。
本物なのかどうかは分からない。システムが教えたのは、《歴史記憶体》という分類名だけだった。
それでも、目の前の男が危険であることだけは、嫌というほど分かった。
――遺想能力強度、LEVEL 5。
――危険度、S。
――希少度、LEGEND。
そして、あの警告。
――交戦を推奨しません。
壮真が小さな声で言った。
「なあ……逃げる?」
「さっき本人に聞かれたでしょ」
凛も武蔵から目を離さない。
「だから相談してんだよ」
「逃げるに決まってる」
湊は即答した。
武蔵の口元が、わずかに上がる。
「聞こえておるぞ」
三人とも黙った。
「……ですよね」
壮真が気まずそうに答えた。
武蔵は笑っていた。怒っている様子はない。それが、逆に怖かった。
「逃げることは悪くない」
思ってもいなかった言葉に、湊は眉をひそめた。
「追わないんですか?」
「追ってほしいのか?」
「いや、全然」
「ならば好きに行け」
武蔵はあっさりと言った。
拍子抜けしていると、壮真が顔を寄せてきた。
「行こう」
「うん」
凛も頷いた。
三人は武蔵から距離を取りながら、ゆっくり歩き始めた。
背中を向けるのは怖かった。かといって、いつまでもここにいる理由もない。
五歩、十歩と離れても、武蔵は動かなかった。
本当に追ってこないらしい。
壮真が小さく息を吐いた。
「何だったんだよ……」
「待て」
三人の足が同時に止まった。
壮真が目を閉じる。
「ほらぁ……」
湊も心の中で同じことを思いながら、恐る恐る振り返った。
武蔵は湊を見ていた。
正確には、その手にあるスマートフォンを見つめている。
「それは何だ?」
「……スマホですけど」
「すまほ?」
そこからか。
一瞬だけ、恐怖を忘れそうになった。
「遠くの人と話したり、写真とか動画を撮ったりする道具です」
「動画?」
「……動く絵みたいなものです」
武蔵が興味深そうにスマートフォンを見た。
「先ほど雨を降らせたのは、それか?」
湊の表情が変わった。
「見てたんですか?」
「ああ」
「どこから?」
「少し離れたところからだ」
まったく気づかなかった。
あのときは、革命軍との戦いだけで精一杯だった。
「《REPLAY》っていう能力らしいです」
「りぷれい」
武蔵が、聞き慣れない言葉を確かめるように繰り返した。
「俺もさっき使えるようになったばかりで、詳しくは分かってません」
「そうか」
武蔵は少し考えるように目を細めた。
「ならば、もう一度見せてみろ」
「嫌です」
湊は即答した。
壮真と凛が、そろってこちらを見る。武蔵まで、少しだけ意外そうな顔をした。
「嫌か」
「何回使えるかも分からないし、見せてもこっちに何の得もないですよね」
言ってから、少し後悔した。
相手は危険度Sだ。もっと柔らかい言い方があったかもしれない。
だが、武蔵は怒らなかった。
むしろ、声を上げて笑った。
「なるほど」
何がなるほどなのか、分からない。
「お主、弱いな」
「……知ってます」
「だが、馬鹿ではないらしい」
褒められているのか。やはり、よく分からなかった。
壮真が一歩前へ出た。
「一個聞いていい?」
「何だ」
「未所属ってどういうこと?」
壮真は武蔵を見た。
「俺たちは全員、どこかの軍に振り分けられた。でもあんたのアラートは未所属って言った」
湊も気になっていたことだった。
武蔵は二本の木刀へ軽く手を置く。
「知らん」
「知らない?」
「目を覚ましたときから一人だった。頭の中の声とやらも、俺には軍を告げなんだ」
「じゃあ、COREは?」
「興味がない」
三人とも、一瞬黙った。
壮真が信じられないという顔をする。
「勝てば帰れるんだぞ?」
「どこへ?」
「どこって……現実に」
「俺の現実とはどこだ?」
その一言に、誰も答えられなくなった。
武蔵は歴史記憶体だ。それが何を意味するのかさえ、まだ誰も知らない。
帰る場所が自分たちと同じなのか。そもそも、帰る場所が存在するのか。
武蔵自身にも分からないのだろう。
「俺には帰る場所など分からん」
武蔵は静かに言った。
「ならば今ここで、俺が何者かを確かめればよい」
「戦って?」
湊が聞いた。
「他に何がある」
即答だった。
壮真が小声で言う。
「やっぱ危ない人だな」
「聞こえておるぞ」
「すみません」
そのとき、路地の奥から複数の足音が聞こえた。
振り向くと、五人の参加者が近づいてきていた。頭上には、王冠の紋章が浮かんでいる。
《王冠軍》。
向こうも湊たちに気づき、足を止めた。
先頭の男が武蔵を視界に入れた瞬間、その顔色が変わる。彼らにも、同じアラートが聞こえたのだろう。
「……宮本武蔵?」
武蔵は特に反応しなかった。
王冠軍の男は一瞬迷ったあと、一歩前へ出た。
「王冠軍へ来ないか?」
「いきなり勧誘するんだ」
壮真が小声で呟く。
「静かに」
凛が言った。
男は続ける。
「危険度S、それにLEVEL 5。あんたほどの力があるなら、王冠軍でも相応の扱いを受けられる」
武蔵は答えなかった。
「王冠軍は強い者を歓迎する。勝つつもりなら――」
「断る」
武蔵が言葉を遮った。
男の表情が固まる。
「理由を聞いても?」
「知らぬ者の下につく理由がない」
「……王冠軍なら、この戦争で有利に――」
「興味がないと言った」
空気が変わった。
先頭の男は表情を硬くしたが、それ以上は言い返さなかった。
ところが、後ろにいた若い男が一歩前へ出た。
「随分偉そうだな」
その手に、細身の剣が現れた。
先頭の男が振り返る。
「やめろ」
「名前が有名なだけだろ」
「やめろと言ってる」
若い男は聞かなかった。手にした剣が、青白く光り始める。
――MEMORIA ALERT
――敵性遺想能力の発動を確認。
――遺想能力強度、LEVEL 3。
――危険度、C。
湊たちにもアラートが届いた。
壮真が息を呑む。
「LEVEL 3……」
先ほど戦った革命軍の、光の槍を使う男より一つ上だった。
若い男が武蔵へ剣を向ける。
「ここじゃ昔の肩書きなんて関係ないだろ」
武蔵は腰へ手を伸ばした。
だが、新しいアラートは聞こえなかった。能力発動を知らせる音もない。
武蔵は、ただ一本の木刀を抜き、構えただけだった。
湊はそこに気づいた。
少なくとも、能力を使ったようには見えない。
若い男が剣を振った。
青白い斬撃が三本、武蔵へ飛ぶ。
湊には、避けられるように見えなかった。
武蔵が半歩動いた。
一撃目を身体をずらしてかわし、二撃目には木刀をわずかに傾ける。乾いた音が響き、斬撃の軌道が逸れた。
三撃目が迫ると、武蔵は頭を少し下げた。
光は髪の上を通り過ぎ、背後の壁へ突き刺さった。
誰も、すぐには声を出さなかった。
湊は瞬きをした。
「……能力、使った?」
凛が小声で聞いた。
「分からない」
だが、システムから能力発動の通知がなかったことだけは確かだった。
武蔵は木刀を肩へ乗せた。
「今ので終わりか?」
若い男の顔が赤くなる。
「ふざけるな!」
再び剣が光った。
今度は五本の斬撃だった。先ほどとは軌道も違う。左右から、上から、正面から、時間差をつけて武蔵へ迫った。
「やめろ!」
先頭の男が叫んだが、もう遅かった。
武蔵は一歩踏み出した。
木刀を一度振り、身体を半回転させる。
それだけで、五本の斬撃はすべて外れた。
「……え?」
攻撃した本人が声を漏らした。
湊も同じだった。
一度目より、明らかに簡単に避けている。
「もう一回だ!」
男がさらに能力を使った。
今度は八本。青白い光が複雑に交差しながら飛んでくる。
だが、武蔵は男が剣を振り切るより先に動いていた。
右へ一歩ずれ、木刀を上げ、身を低くする。
八本の斬撃が、武蔵のいた場所を通り過ぎた。
「何で……」
若い男が呟いた。
湊は武蔵を見つめていた。
速くなったわけではない。
たぶん、もっと別の何かだ。
「……違う」
「何が?」
凛が聞いた。
湊は答えられなかった。
武蔵は、攻撃が来てから避けているのではない。来る前に動いている。
まるで、次に何が起きるか知っているように。
「覚えてる……?」
湊が呟くと、凛がこちらを見た。
「何を?」
「分からない。でも、一回目より二回目、二回目より三回目の方が、明らかに楽に避けてる」
壮真も武蔵を見た。
「相手の攻撃を?」
湊は頷けなかった。まだ、確信はない。
若い男は、その変化に気づいていないようだった。
「まだだ!」
剣の光が、さらに強くなった。
――MEMORIA WARNING
――遺想能力出力の上昇を確認。
――危険度、Bへ更新。
壮真が顔を引きつらせる。
「危険度って途中で変わるのかよ」
湊も初めて知った。
LEVELは3のまま変わっていない。だが、危険度だけがCからBへ上がっていた。
今は、その意味まで考える余裕がなかった。
若い男が剣を両手で握る。
無数の光が集まり、一つの巨大な刃へ変わっていった。
「消えろ!」
男が剣を振り下ろした。
路地そのものを切り裂くような、巨大な光の斬撃が迫る。
今までとは威力が違った。
湊は反射的に後退した。
武蔵は、動かなかった。
斬撃が迫っても、その場に立ち続けている。
そして、ぎりぎりのところで一歩だけ動いた。
巨大な光が武蔵の横を通り過ぎ、背後の建物を切り裂く。轟音とともに壁が崩れた。
若い男が呆然とする。
「嘘だろ……」
武蔵は木刀を下げたまま言った。
「力はある」
男が顔を上げる。
「だが、毎度同じところを見る」
「何……?」
「肩」
武蔵は自分の右肩を指した。
「技を出す前に上がる」
次に、男の足元へ視線を向けた。
「右足」
さらに、剣を見る。
「握りも変わる」
若い男の顔から、血の気が引いていった。
武蔵は話しながら近づいていく。
「一度目ならともかく」
一歩、距離を詰める。
「二度」
さらに一歩。
「三度」
男の目の前で、足を止めた。
「同じ癖を見せるな」
男が反射的に剣を振った。
武蔵の方が早かった。
木刀が男の手首を軽く叩き、剣が地面へ落ちる。
次の瞬間には、木刀の先端が男の喉元で止まっていた。
誰も動けなかった。
武蔵は、本当に殺せた。
だが、殺さなかった。
「もうよい」
武蔵が木刀を引くと、若い男はその場へ膝をついた。
先頭にいた王冠軍の男が駆け寄り、仲間を支える。
「……失礼した」
武蔵はその言葉には答えず、短く告げた。
「行け」
王冠軍の五人は湊たちを一度見ると、その場から離れていった。
足音が完全に遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
最初に息を吐いたのは壮真だった。
「……なあ」
「何」
「今の、能力なの?」
湊は武蔵を見た。
「分からない」
少なくとも、青白い斬撃や時間を戻す腕時計、道を作るICカード、雨を再現するスマートフォンとは違って見えた。
武蔵は自分の目で見て、考え、自分の身体を動かして避けていた。
もし、それだけなのだとしたら。
LEVEL 5という数字とは別のところにも、この男の強さがある。
湊は初めて、そんなことを考えた。
武蔵がこちらを向いた。
「先ほどの雨」
湊の身体が固まる。
「まだ気になってるんですか?」
「ああ」
「嫌だって言いましたよね」
「聞いた」
「じゃあ――」
「だから頼むのはやめた」
嫌な言い方だった。
壮真が一歩下がり、凛もICカードを握り直した。
「何する気です?」
湊が聞く。
武蔵は手にしていた木刀を腰へ戻した。
そして改めて、二本とも抜いた。
頭の中へ警告音が響く。
――MEMORIA WARNING
――歴史記憶体《宮本武蔵》。
――戦闘行動への移行を確認。
――危険度、S。
――交戦を推奨しません。
湊の心臓が大きく跳ねた。
「だから、それはもう分かってるって……」
思わず呟くと、武蔵は楽しそうに笑った。
「安心せい。殺す気はない」
「その言葉、全然安心できないんだけど」
「一つだけ確かめたい」
「何を」
武蔵の視線が、湊のスマートフォンへ向いた。
「お主のその妙な技が、俺に何度通じるのか」
「……は?」
凛が前へ出ようとした。
「待って」
湊は凛を止めた。
自分でも、なぜそうしたのか分からない。
怖い。逃げたい。
だが、さっきの戦いを見たせいで理解してしまった。
普通に背を向けて走っても、恐らく追いつかれる。
武蔵は二本の木刀を手に、自然に立っていた。構えと呼べるほど大げさなものではない。
なのに、先ほどLEVEL 3の能力が発動したときよりも、遥かに怖かった。
壮真が腕時計へ触れる。
凛がICカードを握る。
湊もスマートフォンを起動した。
《REPLAY》
保存された写真と動画が表示される。
雨、花火、海、車。
昔撮った、どうでもいいものばかりだった。
「三人まとめて来い」
武蔵が言った。
壮真が引きつった笑いを浮かべる。
「これ、本当に歴史に残ってる宮本武蔵と同じ性格なのか?」
「知らない」
凛が答えた。
武蔵は意味が分からないのか、特に反応しなかった。
湊はスマートフォンを握りしめた。
真正面から勝てる気なんてしない。数字で教えてもらわなくても、それくらいは分かる。
だったら、勝つ必要はない。
三人でここから逃げ、生き残ればいい。
「壮真」
「何?」
「一秒、使える?」
壮真が腕時計を見た。
「ああ。たぶん」
「凛」
「逃げ道を作ればいいんでしょ」
湊は頷いた。
武蔵が少し笑う。
「相談は終わったか?」
湊は画面を操作し、一本の動画を選んだ。
「一つだけ聞いていいですか」
「何だ」
「俺たちが逃げ切ったら?」
武蔵は考えることもなく答えた。
「追わん」
「本当に?」
「二度は言わん」
条件は決まった。
湊は息を吐き、画面へ指を置いた。
「じゃあ――逃げます」
次の瞬間、武蔵が消えた。
少なくとも、湊にはそう見えた。
「湊!」
凛の声が聞こえたときには、もう木刀が目の前にあった。
間に合わない。
カチッ。
壮真の腕時計が鳴り、世界が一秒、巻き戻った。
武蔵は、まだ数歩先にいた。
「来る!」
壮真が叫んだ。
今度は分かる。
湊は身体を横へ投げ出した。
直後、さっきまで首があった場所を木刀が通り過ぎる。
「……っ!」
たった一秒。
それがなければ、何が起きたのかすら分からなかった。
武蔵が足を止めた。
壮真を見て、次に湊へ視線を移す。
ほんの少し目を細めると、笑った。
「面白い」
湊は地面へ転がったまま、武蔵を見上げた。
勝てない。
それでいい。
この戦いの目的は、勝つことではない。
三人で、生きて帰る。
武蔵が二本の木刀を構えた。
「さて」
一歩、こちらへ進む。
「どう逃げる?」
湊はスマートフォンを握り直した。
そしてこのとき、まだ三人は知らなかった。
目の前の男が持つ本当の恐ろしさは、剣の腕だけではないことを。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。
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