第36話 父の時計
「俺、これ、誰にもらったんだっけ」
牧野壮真は、左腕の時計を見つめていた。
誰も、すぐには答えなかった。
父親からもらった時計だと、壮真はつい先ほど話していた。
その場面を、預けられた記憶として体験したのは佐伯真奈だった。
数秒前まで壮真自身の中にあった記憶が、今は彼の中から失われている。
「……本当に、思い出せないの?」
真奈が小さな声で聞いた。
「何を?」
「その時計」
壮真が腕時計へ目を落とした。
古い時計だった。
細かな傷や擦れがあり、何度も直した跡が残っている。
「持ってたのは分かる」
「いつから?」
壮真は考えた。
「……分からない」
「誰にもらった?」
「だから、それが分からない」
苦笑する壮真を見て、真奈の顔が固まった。
「そんな顔しないでよ」
「どんな顔」
「俺が死んだみたいな」
「縁起でもないこと言わないで」
「ごめん」
壮真は謝った。
だが、本人は思っていたほど取り乱していなかった。
何を失ったのか分からない。
だから、何を怖がればいいのかも分からないのだろう。
湊には、それが一番怖かった。
記憶を失うというのは、ただ穴が開くことではない。
そこに穴があることさえ、分からなくなる。
「壮真」
湊が呼んだ。
「親父さんのことは?」
「親父?」
壮真の目が動いた。
「いるよ」
「覚えてる?」
「そりゃ」
答えかけて、壮真は少し言葉を止めた。
「……覚えてる」
「何を?」
「何をって」
父親の顔も、声も、暮らしていた家も覚えている。
怒られたことも、笑ったことも残っていた。
だが、壮真は左腕を見て、眉を寄せた。
「この時計、親父と関係ある?」
真奈が息を止めた。
湊も黙った。
父親という人間を、丸ごと忘れたわけではなかった。
指定した一場面だけが切り取られている。
父親は覚えている。
時計も知っている。
それなのに、その二つがつながらなかった。
《MEMORY LINK STABLE》
端末に表示が現れた。
壮真と真奈の間に、細い白い光が伸びている。
「真奈さん」
「何?」
「俺、何て言って渡した?」
「私に?」
「記憶」
真奈は少し迷った。
「それ聞いて大丈夫なの?」
「何が?」
「思い出せないはずのことを、外から教えてもらったら」
全員が画面を見た。
MEMORIAからの説明はなかった。
「試さない方がいいかも」
湊が言うと、壮真は素直に引いた。
「だよな。戻るまで待つ」
その言い方に、真奈が少し顔を伏せた。
「……うん」
そのとき、街が振動した。
《FORMAL MEMORY LINK CONFIRMED》
《PAIR ACCESS GRANTED》
切断された道路の先で、白い橋の光が強まった。
《MAKINO SOMA ⇄ SAEKI MANA》
《CROSSING AUTHORIZED》
「行ける」
凛が言った。
さっきまでは、橋へ足を出そうとするだけで警告が出ていた。
今は、二人の渡航が許可されている。
「最初は俺たちか」
壮真が前へ出た。
「待って」
「何?」
「一緒に行く」
「そりゃペアなんだから」
「そうじゃなくて」
真奈は壮真の左腕を見た。
「離れないで」
壮真は一瞬笑おうとして、それをやめた。
「分かった」
二人は並んで光の橋へ足を乗せた。
揺れはなかった。
足裏には硬い感触がある。それでも、普通の地面とは違っていた。
白い光の下には、底の見えない闇が広がっている。
「下見ない方がいいね」
「言われたら見るでしょ」
「真奈さん」
「見てない」
「俺も」
二人は少しずつ進んだ。
間をつなぐ白い光が脈打つたび、真奈の頭に記憶が流れ込んできた。
全部ではない。
男の手、古い時計、夕方の窓。
オレンジ色の光が差し込んでいた。
『持っとけ』
父親の低い声がした。
『いらないって』
若い壮真が答える。
『いいから』
時計を押しつける手つきは、少し乱暴だった。
だが、その手が時計から離れるまでには、わずかな間があった。
『時間だけは』
ノイズが走った。
まだ、その先は聞こえなかった。
真奈の足が止まりかけた。
「どうした?」
壮真が振り向いた。
真奈は彼を見た。
この人は今、あの場面の声を思い出せない。
「何でもない」
「本当に?」
「うん」
再び歩き始めた。
真奈の胸は重かった。
預かるとは、こういうことなのだ。
ただ情報を保存するのではない。
誰かが大切にしていたものを、その人に代わって覚えている。
それを返す責任まで、預かっている。
「壮真」
「ん?」
「絶対、返すから」
壮真は少し不思議そうにした。
「さっきも言ってなかった?」
「言った」
「じゃあ信じる」
簡単に言った。
「……何で」
「何が?」
「そんな簡単に信じるの」
壮真は少し考えた。
「候補だから?」
「MEMORIAが決めたから?」
「それは嫌だな」
「じゃあ何」
壮真は前を向いた。
「今まで見てたから」
「何を」
「真奈さん」
真奈が黙った。
「怪我してるやついたら最初に見るし」
「普通でしょ」
「食い物足りなきゃ自分の分減らすし」
「別に」
「俺が無茶したら怒るし」
「それは腹立つから」
「そういうとこ、信用できる」
壮真が笑った。
真奈は何も返さなかった。
数歩進んでから、小さく言った。
「……馬鹿」
「何で」
「知らない」
橋の中ほどまで来たとき、前方の光が揺らいだ。
「止まって!」
真奈の声に、二人が足を止めた。
向こう側の道路から黒い糸が伸びている。
それに引かれるように、一体のBROKEN LINKが橋へ這い上がってきた。
《BROKEN LINK》
《DANGER:B》
「橋の上で?」
壮真が呟いた。
「趣味悪いなあ」
異形が走り出した。
一本道だった。
横へ大きく避ける場所はない。
壮真が時計へ手を伸ばした。
「BACK SECOND」
「待って!」
「何?」
「傷」
「あ」
「忘れないで!」
「こっちは覚えてる」
「なら無茶しない!」
BROKEN LINKの腕が伸びた。
黒い糸が蛇のように橋を這い、二人へ迫る。
壮真が真奈をかばうように前へ出た。
「後ろ!」
「だから!」
真奈が壮真の服をつかみ、引いた。
爪が胸のすぐ前を通り抜ける。
「危な」
「前だけ見ない!」
「はい!」
異形が次の攻撃へ移った。
真奈には武器がなかった。
足元も橋の縁も、白い光だけだ。使えそうな物は落ちていない。
「俺が止める」
「一人じゃ無効!」
「分かってる」
壮真が端末を見た。
《LINKED DAMAGE REQUIRED》
「二人でやる」
「私、能力ないけど」
「能力じゃなくてもいいんじゃない?」
「根拠は?」
壮真が笑った。
「この世界、そういうの多いから」
「最悪の根拠」
BROKEN LINKが跳んだ。
「来る!」
壮真が踏み込み、振られた拳をかわす。
その動きで脇腹に痛みが走った。
「くっ」
顔をゆがめた隙に、黒い糸が真奈へ向かった。
「真奈さん!」
壮真が時計を押した。
「BACK SECOND!」
カチ、と音がした。
一秒。
伸びた糸が戻り、真奈の身体も壮真自身も、一秒前の位置へ戻った。
今度は、次に何が来るか分かっている。
「しゃがんで!」
真奈がすぐに身を低くした。
黒い糸が頭上を通過する。
「記憶を預けても、能力は使えるんだ」
真奈が壮真の時計へ目を向けた。
「……みたいだな」
時計をもらった日のことは、まだ思い出せない。
それでも、秒針は一秒を戻した。
預けた記憶を思い出せないことと、遺想具の力を失うことは、同じではないらしかった。
真奈は異形へ視線を戻した。
胸元で、左右の身体をつなぐ糸が伸び縮みしていた。
「壮真!」
「何!」
「胸の糸!」
「見えてる!」
「違う!」
真奈が指さした。
「一本だけ、動きが遅い!」
壮真には違いが分からなかった。
だが、真奈には見えていた。
壮真の記憶を受け取ったときにも感じた、わずかな遅れ。
何かと何かがつながる、その瞬間に似ていた。
「そこ!」
真奈が走り出した。
「え!?」
異形が真奈へ向き直る。
「待って!」
壮真が追った。
真奈は、まだ避けなかった。
異形の腕が上がる。
その直前に叫んだ。
「今!」
壮真の指が腕時計へ触れた。
だが、能力は使わなかった。
一秒戻す必要はない。
真奈のタイミングを信じて、踏み込んだ。
異形が腕を振るう。
真奈は身体を沈めて、その下へ入った。
もう一方の手を伸ばし、動きの遅れた胸の糸をつかむ。
糸を横へ引き、張らせた。
その上を越えるように、壮真が跳んだ。
「うおっ!」
拳が、張った糸の中心へ向かう。
真奈は糸を引く手を緩めず、空いている手で壮真の手首を支えた。
二人を結ぶ白い光が強くなる。
《MEMORY LINK SYNCHRONIZATION》
真奈が糸を引く力と、壮真の拳が叩き込まれる瞬間が重なった。
黒い糸が弾けた。
《LINKED DAMAGE:ACCEPTED》
BROKEN LINKの左右が離れ、橋の上を転がった。
新しい糸は伸びてこない。
《BROKEN LINK:DISCONNECTED》
「……倒した?」
真奈が聞いた。
「多分」
「多分禁止」
「じゃあ倒した」
異形が黒い粒になって消え、その光が橋へ吸収されていった。
揺らいでいた白い道が安定した。
《PAIR SYNCHRONIZATION:17%》
「十七?」
壮真が表示を見た。
「低い」
「初回ならそんなもんじゃない?」
「何の基準」
「知らない」
「本当に知らないこと多いね」
「この世界で知ったかぶりする方が怖いって」
「それはそう」
二人は再び歩き始めた。
後方では、湊たちがその様子を見守っていた。
「意外とやるな」
大地が言った。
「真奈さんが」
凛が付け加える。
「俺も!」
橋の上から、壮真の声が返ってきた。
蓮の《ECHO》はつながったままだった。
『全部聞こえてます』
「切って!」
『必要だから無理です』
「蓮まで冷たくなってきた!」
真奈が少し笑った。
壮真も笑った。
だが、その笑顔を見ながらも、真奈の中には父親の声が残っていた。
『時間だけは――』
今度は、その先が聞こえた。
『時間だけは、誰にでも同じだけあると思うな』
若い壮真が答えた。
『どういう意味だよ』
『なくしてから気づくなってことだ』
『分かんねえ』
『今はそれでいい』
父親が笑った。
『そのうち分かる』
真奈の歩みが、また止まりかけた。
「また?」
壮真が顔を向けた。
「……何でもない」
「それ絶対何かあるやつ」
「あとで」
「記憶の?」
真奈は彼を見た。
「うん」
壮真が少し寂しそうに時計を見た。
「俺には分からないんだよな」
「今は」
「変な感じ」
「怖い?」
壮真は少し考えた。
「怖い」
今度は、はっきり言った。
「何がなくなったか分からないのが、一番怖い」
二人を結ぶ白い光が、静かに伸びていた。
「だから、ちゃんと覚えてて」
「覚えてる」
「絶対?」
「絶対」
壮真が頷いた。
「じゃあ大丈夫」
橋の終わりが見えた。
二人は並んで、向こう側の道路へ足をついた。
《PAIR CROSSING COMPLETE》
《MEMORY LINK RELEASE AVAILABLE》
YES / NO。
「戻せる」
真奈が言った。
「やっと」
「嫌だった?」
「想像より、かなり」
壮真が時計を見た。
真奈は迷わず《YES》を押した。
《RETURN DEPOSITED MEMORY?》
《WARNING:LINK WILL BE RELEASED》
壮真へ顔を向ける。
「返すよ」
「お願いします」
真奈が《RETURN》を選んだ。
胸元から白い光が流れ出した。
細い糸を伝い、壮真の左腕にある時計へ入っていく。
「――っ」
壮真が目を閉じた。
夕方の家が浮かんだ。
父親がいて、時計を差し出している。
『持っとけ』
『いらないって』
『いいから』
忘れていた場面が、声とともに戻ってきた。
『時間だけは、誰にでも同じだけあると思うな』
『どういう意味だよ』
『なくしてから気づくなってことだ』
その先のやり取りも、父親の笑い方も思い出した。
「……親父」
壮真が呟いた。
目を開き、左腕の時計を見た。
二人を結んでいた白い光がほどけ、消えていった。
真奈は何も言わずに待っていた。
壮真はしばらく時計を見つめてから、ようやく顔を上げた。
「戻った」
真奈が息を吐いた。
「全部?」
「多分」
「多分禁止」
「全部」
「誰にもらった?」
壮真が笑った。
「親父」
「何て言われた?」
「時間だけは、誰にでも同じだけあると思うな」
真奈が頷いた。
「同じ」
「見た?」
「少し」
「恥ずかしいな」
「別に」
「俺、若かった?」
「今も若いでしょ」
「そういう意味じゃなくて」
「うるさい」
端末に結果が表示された。
《MEMORY RETURN CONFIRMED》
《NO DATA LOSS DETECTED》
こちら側に残っていた湊も、その表示を確かめた。
記憶は戻った。
今回は、何も失わなかった。
だが、ほんの数分とはいえ、壮真は本当に、父親から時計をもらったことを忘れた。
その事実が、湊の胸をざわつかせていた。
何か、嫌なことが起こる気がした。
理由は分からなかった。
「朝倉」
凛が隣から呼んだ。
「ん?」
「次」
端末を示す。
《ASAKURA MINATO ⇄ KUROSE RIN》
《PAIR ACCESS PENDING》
湊も画面を見た。
「俺たちか」
「みたい」
「何預ける?」
「それを今から考えるんでしょ」
「ですよね」
向こう側から、壮真が叫んだ。
「大丈夫!」
「本当に!?」
「戻った!」
「全部!?」
壮真が左腕を高く持ち上げた。
「親父にもらった!」
その言葉に、真奈が少し笑った。
湊も、ようやく安心した。
今は、まだ誰も知らない。
いつか壮真が、この時計を見ながら、同じ質問をもう一度口にするかもしれないことを。
今度は、誰にも返せない形で。




