第33話 72時間
戦争が終わったあとに残ったのは、勝利の実感ではなかった。
静けさだった。
耳がおかしくなったのかと思うほど、周囲は静まり返っていた。
砲声も怒号もない。誰かの能力が空気を裂く音も聞こえない。
朝倉湊は、ひび割れたスマートフォンを握ったまま、灰色の天井を見上げていた。
MEMORIAが与えた休息時間は、七十二時間。
WAR領域から街へ戻ったあと、生き残った参加者たちは、それぞれの軍に用意された待機領域へ移されていた。
無名軍に与えられた場所は、古い学校の体育館に似ていた。
バスケットゴールに木目の床、折り畳まれたステージ。
見慣れたものが揃っている。
だが、窓の外には何もなかった。
空さえ存在しない、白い空間が広がっていた。
「……三日も休ませてくれるなんて、意外と親切なんですね」
相馬源一郎が言った。
体育館の中央には、毛布や簡易ベッドが並べられていた。どれもMEMORIAが用意したものだった。
「親切?」
桐生大地が鼻で笑った。
「次に殺し合わせるために、壊れない程度に修理してるだけだろ」
「それもそうですね」
相馬は苦笑した。
少し離れたところでは、牧野壮真が右脇腹を押さえて座っていた。
「いてて……」
「動くなって言ってるでしょ」
佐伯真奈が壮真の服をめくった。
「おい、ちょっと待て」
「何よ」
「いや、こう……もう少し心の準備ってものが」
「肋骨折れてるかもしれない人間に心の準備も何もないでしょ」
「たぶん折れてない」
「じゃあ黙って」
「はい」
壮真は素直に口を閉じた。
肩の負傷に加え、戦場から戻ってからは脇腹にも痛みが残っていた。
MEMORIAによる最低限の治療は行われているらしい。
傷は塞がっている。
だが、痛みまで消えたわけではなかった。
「骨は大丈夫そう」
真奈が言った。
「でも、しばらく無茶しない方がいい」
「次の戦場までには治るかな」
「治ってなくても行くんでしょ」
「まあ」
「だったら聞かないで」
真奈は包帯を締め直した。
その横で、高瀬蓮が一人、右耳を押さえていた。
正確には、右耳に差し込んだ古いイヤホンを押さえている。
「……また聞こえるのか?」
湊が尋ねると、蓮は目を閉じたまま、小さく頷いた。
「うん」
「何が?」
「声」
湊の指が止まった。
蓮の遺想能力、《ECHO》。
残された音声や通信の記憶を拾う能力だ。
戦場では五軍をつなぐ通信網として機能した。だが、戦争が終わっても、完全には止まっていないらしかった。
「誰の声?」
「分からない」
蓮が眉間に皺を寄せた。
「言葉になってないんだ。ずっと……遠くで人がしゃべってるみたいな感じ」
「休んだ方がいい」
「休んでも聞こえる」
蓮はイヤホンを抜いた。
それでも、表情は変わらなかった。
「これ、イヤホンから聞こえてるわけじゃないみたい」
湊は何も言えなかった。
能力の影響が、身体にも残り始めているのかもしれない。
WARで変わったのは、能力だけではなかった。
自分たち自身も、少しずつ変わっている。
「でも、嫌じゃない」
蓮が言った。
「え?」
「変な話だけどさ」
床へ視線を落とす。
「聞こえなくなる方が怖い」
「誰の声か分からないのに?」
「分からないからだよ」
その答えだけで、湊には十分だった。
名前を知らない。顔も思い出せない。
それでも、そこに誰かがいた。
その可能性まで消えてしまう方が怖い。
湊は無意識にスマートフォンへ視線を落とした。
三十一人。
何度数えても、三十一人だった。
最初は三十二人いた。そのことだけは、スマートフォンに残る記録が示している。
だが、誰がいなくなったのかは思い出せない。
画像の端や人数、不自然な空白に、その痕跡だけが残っていた。
「朝倉」
声に振り向くと、黒瀬凛が立っていた。
「……何?」
「ご飯」
「あ」
「忘れてたでしょ」
「ちょっと」
「完全に忘れてた顔」
凛が紙皿を差し出した。
簡素なパンとスープだった。
口にしてみると、普通の味がした。
MEMORIAが作っていると考えると、その普通さがかえって気味悪く感じられた。
「ありがとう」
「うん」
凛はそれだけ言い、湊の隣へ座った。
近い。
戦争前なら、何も思わなかった距離だった。
なのに今は、妙に意識してしまう。
理由は分かっていた。
最後の六十秒。
敵も味方も武器を下ろし、戦わないことを選んだ時間。
凛が、湊の手を握った。
ほんの一瞬だったようにも思える。
だが、湊には長く感じられた。
そして、自分も握り返した。
二人とも黙っていた。
パンを噛む音だけがする。
「何」
凛が正面を向いたまま言った。
「いや」
「さっきからこっち見てる」
「見てない」
「見てた」
「見てないって」
「三回見た」
「数えてたの?」
「視界に入っただけ」
「じゃあ数えてるじゃん」
「うるさい」
凛がスープを飲んだ。
耳が少し赤くなっていた。
湊は見なかったことにしようとした。
だが、そうしたくない自分にも気づいた。
慌ててパンを口へ押し込む。
「朝倉」
「んぐ」
「死なないでよ」
湊の動きが止まった。
凛は、まだ正面を向いていた。
「次も」
それ以上、言葉は続かなかった。
湊はパンを飲み込んだ。
「黒瀬も」
「うん」
「……死ぬなよ」
「分かってる」
それだけのやり取りだった。
それでも、胸の奥に残った。
七十二時間のうち、最初の二十四時間は、ほとんどの者が眠って過ごした。
次の二十四時間で身体の状態を確かめ、最後の二十四時間で道具や能力を確認した。
大地は《ANCHOR》の発動を何度も試していた。
自分自身を、その場へ固定する能力。
だが、WARの終盤から変化が出ている。
大地が床へ手をついた。
「……ANCHOR」
足元に淡い光が走った。
以前なら、光は大地自身にとどまっていた。
今は、触れた床の一部へも広がっている。
「俺が触れてる間だけだ」
大地が手を離すと、床の光が消えた。
もう一度触れる。
同じ場所に、光が戻った。
「対象が広がっているんでしょうか」
相馬が尋ねた。
「たぶんな」
「どこまで固定できるか、確認が必要ですね」
「ああ。戦場で初めて知るよりはマシだ」
一方、壮真も時計を見つめていた。
傷が痛むため、大きな動きはできない。
それでも、手のひらから硬貨を落とし、時計へ触れた。
「BACK SECOND」
カチ、と秒針が逆へ跳ねた。
床へ落ちた硬貨が、掌へ戻る。
一秒。
短くても、確実に時間を戻していた。
「やっぱり一秒だな」
壮真が呟いた。
「増えてない?」
真奈が聞いた。
「増えてない」
「よかったじゃない」
「何で?」
「三秒とか十秒とか戻せるようになったら、絶対無茶するから」
「……俺ってそんな信用ない?」
「ない」
即答だった。
壮真が肩を落とした。
その様子を見ながら、湊も自分のスマートフォンを操作していた。
《REPLAY》。
能力そのものに、大きな変化はなかった。
写真や動画に残された雨、光、音、衝撃、風。
再現できるのは、記録に残った物理現象や状態だけだ。
人そのものは再現できない。
能力も再現できない。
その境界は変わっていなかった。
だが、スマートフォンには気になるものがあった。
湊は画面を凝視した。
《BOND_00》
「……なんだ、これ」
開こうとしたが、ロックされていた。
もう一度試しても開かない。
三度目に触れたとき、画面が一瞬乱れた。
《ACCESS DENIED》
《DOMAIN NOT ACTIVE》
「DOMAIN……?」
領域のことだろうか。
湊は指を止めた。
小さなサムネイルが表示されている。
ノイズだらけの画像だった。
拡大すると、中央に少女らしき人影が見えた。
髪が長い。
だが、こちらを向いているのか、背を向けているのかさえ分からなかった。
隣には、もう一人の人影があった。
こちらはさらにひどかった。
頭部も身体もノイズに埋もれ、男か女か、年齢すら判別できない。
「……誰だよ」
胸がざわついた。
知らないはずだった。
それなのに、画面から目を離したくなかった。
「朝倉?」
凛の声がした。
湊は反射的にスマートフォンを伏せた。
「何見てたの?」
「いや……」
言うべきか迷った。
だが、隠す理由もなかった。
「変なファイルがある」
「また?」
「またって言うなよ」
「あなたのスマホ、変なことしか起きないじゃん」
「まあ……否定できないけど」
湊は画面を見せた。
凛が覗き込む。
《BOND_00》
「BOND」
「このファイル、何か分かる?」
「分からない」
凛はサムネイルを指で拡大した。
「この人は?」
「分からない」
「こっちは?」
「もっと分からない」
凛が黙った。
数秒後、画面ではなく湊を見た。
「でも」
「何?」
「朝倉、この女の子見てるとき、変な顔してた」
「変な顔?」
「悲しそうな」
湊は答えられなかった。
悲しいのか。
知らない人間を見ているだけなのに。
「そんなわけないだろ」
「ならいいけど」
凛は、それ以上追及しなかった。
そのとき、体育館全体が振動した。
全員が立ち上がった。
白かった窓の外に、黒い線が走る。
「何だ!?」
大地が叫んだ。
天井に文字が浮かんだ。
《REST PERIOD COMPLETE》
《NEXT DOMAIN CONNECTING》
七十二時間が終わった。
壮真が腕時計を見た。
「ぴったりだ」
相馬が立ち上がった。
「皆さん、準備を」
空間が軋んだ。
体育館の壁に亀裂が入る。
だが、壊れているのではなかった。
別の風景が、向こう側から侵食してきていた。
信号機、ビル、歩道橋、駅のホーム、住宅街。
現代の都市だった。
「……おかしい」
真奈が呟いた。
道路が途中で切れていた。
橋は空中で断ち切られ、ビルの半分が数十メートル離れた場所に浮かんでいる。
線路は途中から垂直に立ち上がり、空へ伸びていた。
一つの都市を巨大な何者かが切断し、ばらばらのまま並べ直したような光景だった。
スマートフォンが震えた。
湊は画面を見た。
《THIRD DOMAIN》
《LINKAGE CITY》
続いて、文字が現れる。
《CORE ATTRIBUTE BOND》
「BOND……」
湊はスマートフォンの中に残る《BOND_00》を思い出した。
偶然ではない。
その瞬間、画面が勝手に切り替わった。
《DOMAIN RULE》
《CONNECTION REQUIRED》
《ONE MEMORY CANNOT CROSS ALONE》
「……何だよ、それ」
凛も自分の端末を見ていた。
「朝倉」
「うん」
「たぶん次は」
言いかけたところで、都市の向こう側で何かが動いた。
人の形に近い。
だが、人ではなかった。
二つの身体が途中で引き裂かれ、黒い糸だけで無理やりつなぎ合わされたような異形。
一体、二体、三体。
切断された道路の向こうから、次々と姿を現した。
《BROKEN LINK》
《DANGER:B》
大地が前へ出た。
「休憩終わった瞬間これかよ」
蓮がイヤホンを耳に入れた。
壮真が時計へ指を置き、真奈が荷物をつかむ。
相馬が全員を見回した。
凛は湊の隣へ立った。
異形が走り出した。
その瞬間、凛の端末と湊のスマートフォンが、同時に震えた。
《MEMORY LINK TARGET DETECTED》
《ASAKURA MINATO》
《KUROSE RIN》
《PAIRING CANDIDATE》
二人は顔を見合わせた。
「……また一緒?」
湊が言った。
凛は前を向いた。
「嫌なの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ行くよ」
凛が走り出した。
湊も、その背を追った。
切断された都市。
つながらない道。
そして、一人では渡れない記憶。
第三の戦場が、始まった。




