第27話 同じ三十分
歴史上の偉人たちと、名もなき人々が“記憶”を武器に戦う物語です。
※本作には戦闘・死亡・一部残酷な描写があります。
残り時間、29:31。
黒い空間の中で、朝倉湊、黒瀬凛、桐生大地の三人は、黒いノートを持つ男と向かい合っていた。
「一回、ちゃんと殴りたかった」
湊の言葉に、男は少し目を丸くした。
それから、笑った。
「意外」
「何が」
「君、もっと逃げる人だと思ってた」
湊は一瞬だけ黙った。
間違ってはいなかった。
最初は逃げたかった。宮本武蔵からも、織田信長からも。危険な場所から、死から、何も分からないこの世界そのものから。
だが、今ここで引き返せば、《FINAL WAR PROTOCOL》が止まる。
五軍の代表が中央へ辿り着かなければ、戦争は終わらない。
何より、目の前の男は、また誰かを殺す。
そして、殺された人は誰にも覚えてもらえなくなる。
「前なら逃げてたかもな」
湊はスマートフォンを構えた。
「今は?」
「邪魔だからどいてほしい」
「嫌だって言ったら?」
「どかす」
男が笑った。
「やっぱり変わった」
その瞬間、男が動いた。
速かった。湊の視界から、一瞬だけ姿が消える。
「右!」
凛の声とともに、白い光が走った。
――《ROUTE》。
足元に示された経路へ、湊は身体を動かした。
刃が頬のすぐ横を通り抜けた。
「近っ!」
湊が後退すると、大地が前へ出た。
「俺が止める!」
革手袋が光る。
――《ANCHOR》。
両足を固定した大地が、正面から来る男の腕を受け止めた。
「うおっ!」
刃そのものを、革手袋だけで完全に防げるわけではない。
それでも大地は下がらなかった。動かない身体にぶつかった男の方が弾かれ、後ろへ跳んだ。
「へえ」
男が着地した。
「動かないんだ」
「お前が軽いだけだ」
「傷つくなあ」
そう言いながら、男は黒いノートを開いた。
「何する気だ」
「記録」
男はページに一本、横線を引いた。
その瞬間、MEMORIAの警告が響いた。
――遺想具反応を検出。
「遺想具?」
凛がノートを見た。
黒い表紙が光り、湊のスマートフォンに情報が現れる。
――所有者情報、取得不能。
――遺想能力強度LEVEL2。
――危険度A。
「LEVEL2で……A?」
湊が目を細めると、男は笑った。
「能力自体は大したことないよ」
危険度は、能力の出力だけを示すものではない。
この男が、その力を使って何をするのか。そこまで含めた評価なのだろう。
表示が続いた。
――遺想能力。
《TALLY》
――記録補助型遺想能力。
――所有者が認識不能となった行為について、件数情報のみを保持します。
「件数……だけ?」
凛の顔が強張った。
男はノートを軽く叩いた。
「名前は残らない」
開かれたページに、大量の線が並んでいた。
「顔も」
ページをめくる。
「誰だったかも」
その先にも、線があった。
「でも、何人減らしたかだけは残る」
湊の胃が冷たくなった。
このノートは、死者を覚えているわけではない。名前も、顔も、その人がどんな人だったのかも保存できない。
残るのは、数だけだった。
人間を、一、二、三という数字に変えていた。
「最低だな」
湊が言うと、男は笑った。
「便利だよ」
「人を数にするための能力だろ」
「死んだら誰か分からないんだから」
男は首を傾げた。
「最初から数でよくない?」
湊の中で、何かが切れた。
走り出す。
だが、今度は拳だけで飛び込むつもりはなかった。
「凛!」
「分かってる!」
《ROUTE》の白い経路が、男の左へ伸びた。
湊はその道へ踏み込んだ。男の視線が、こちらを追う。
そこで湊は、駅前の動画を選んだ。
――《REPLAY》。
何百人もの話し声に、信号の音、車の走行音、アナウンスが重なった。
黒い空間に、ありえない雑踏が響く。
男の注意が、わずかにそれた。
「おら!」
大地が正面から体当たりした。
男の身体が飛ぶ。だが、空中で身をひねり、足から着地した。
「三人だと面倒だな」
凛が男の背後へ回った。
男は振り向いたが、凛は攻撃しなかった。
彼女が通った経路に、白い光が走る。
「そっち!」
その道を使って、大地が男の背後へ回り込んだ。
大地の拳を、男がかわす。
そこへ、湊がスマートフォンを向けた。
先ほど撮った、武蔵と沖田の激突。
――《REPLAY》。
キィンッ!
再現できるのは、0.8秒。
二つの武器が衝突した際の音と、空気の振動、衝撃だけだった。
人物でも、剣技でもない。戦いの結果として生じた物理現象が、男のそばで弾けた。
その身体が、わずかに横へずれた。
「何だ、それ」
初めて、湊は男の懐へ入った。
拳を腹へ叩き込む。
「っ!」
男が二歩後退した。
湊は自分の拳を押さえた。
「痛っ!」
「殴った方が痛がらないで!」
凛が叫んだ。
「人殴るの慣れてないんだよ!」
男は腹を押さえ、少し驚いた顔をしていた。
やがて笑った。
「本当に殴った」
「言っただろ」
「君、面白くなってきた」
男が刃を構え直した。
残り時間、27:48。
湊は画面を見た。
「遊んでる暇ない」
「俺はあるよ」
男はノートを閉じた。
「君たちが間に合わなければ、戦争が続く」
次の瞬間、男は大地を避け、凛へ向かって走った。
「凛!」
凛は《ROUTE》で後方へ退いた。
男が追う。
湊は花火の動画を選んだ。
「目閉じろ!」
――《REPLAY》。
白い閃光が弾けた。
男の動きが一瞬止まり、その間に凛が横へ逃れた。
だが、男も目を閉じていた。
「何回も見てるから」
湊の表情が変わった。
「対策した?」
「君の戦い、ずっと見てたって言っただろ」
男が再び凛へ刃を伸ばす。
大地が間へ入った。
――《ANCHOR》。
刃が大地の腕をかすめ、血がにじんだ。
「大地さん!」
「平気!」
男はすぐに距離を取った。
湊は歯を食いしばった。
《REPLAY》は便利だ。だが、雨も、雑踏も、花火も、風も、使ったものは見られている。
何ができるのか、知られている。
なら、新しい記録が必要だった。
最近の動画を探す。
伝令塔。伝令兵。そして、命令。
『伏せろ!』
『止まれ!』
湊の指が止まった。
男が、また踏み込んでくる。
「大地さん!」
「任せろ!」
大地が足を固定した。
男は正面からぶつかるのを避け、横へ回ろうとした。
湊が動画を再生した。
――《REPLAY》。
『止まれ!』
外部命令記憶が、黒い空間に響いた。
男の身体が、一瞬止まった。
「……!」
相手の意思を奪い、完全に支配できるわけではない。
それでも、命令に反応して身体を止める、わずかな間は生まれた。
湊が走った。
凛と大地も同時に動き、三方向から男へ迫った。
初めて、男の顔から余裕が消えた。
「それ、ずるくない?」
刃が湊へ向いた。
「お前に言われたくない!」
湊は身体を低くした。
凛が回り込む経路を変え、男の注意を引く。
その隙に、大地が男の腕をつかんだ。
――《ANCHOR》。
固定された大地の身体から、男は腕を引き抜けなかった。
「捕まえた!」
男が刃を逆手に持ち替えた。
大地の腕へ振り下ろそうとした、その瞬間だった。
『大地さん! 刃! 右手!』
蓮の声が、三人へ飛び込んできた。
遠くの伝令塔から、《ECHO》で戦いの音を拾っていた。
大地が反応した。
男の右手首を先にひねり、刃の軌道をずらす。
だが、まだ武器を落とさせることはできなかった。
「湊!」
凛が叫んだ。
湊のカメラは、すでに男を捉えていた。
刃を振り上げた、一秒前の動きが記録されている。
――対象記憶を認識。
――人物情報の直接再現、不可。
続いて、別の表示が出た。
――運動に伴う物理現象の部分抽出、可能。
人の動きそのものを戻すことはできない。能力をコピーすることもできない。
だが、刃が空気を切った音と風圧なら。
「《REPLAY》!」
男の右側で、先ほどの音が再び生じた。
刃を振り上げた際の風圧が、同じ方向から再現される。
男の視線が、反射的にそちらへ向いた。
ほんの一瞬。
それで十分だった。
大地が手首をさらにひねった。
刃が落ちた。
凛が《ROUTE》で位置を示し、大地は男を投げる方向を定めた。
「うおおっ!」
男の身体が地面へ叩きつけられた。
黒いノートが手から離れる。
湊は飛び込んで、それを拾った。
「返せ!」
男が叫んだ。
初めて、焦りのある声だった。
湊はノートを抱え込んだ。
「嫌だ!」
男が起き上がり、手を伸ばしてくる。
凛が間に入り、大地が前へ立った。
男の足が止まった。
「それ、返して」
笑っていなかった。
「何で」
「俺のだから」
「誰の数かも分からないくせに」
一瞬、男の目に怒りが浮かんだ。
湊は気づいた。
何も感じないわけではない。
このノートを失うのは、嫌なのだ。
「これがなくなったら、何人殺したか分からなくなるから?」
男は答えなかった。
湊はノートに並ぶ、大量の線を見た。
「お前、忘れたくないんじゃないか」
男の表情が止まった。
「違う」
「何が」
「数えてるだけ」
「だったら無くてもいいだろ」
男が一歩近づいた。
「返せ」
「嫌だ」
「返せ」
声が低くなった。
さっきまで笑っていた男とは、まるで違っていた。
湊は少し怖くなった。
それでも引かなかった。
男の視線は、ノートだけに向いている。
「それしか、残ってないんだろ」
男が動いた。
大地が構え、凛が経路を探る。
だが、男は二人へ向かわなかった。
湊へ一直線に迫り、ノートへ手を伸ばす。
湊は避けようとした。
男の手がページをつかんだ。
紙が破れた。
何本もの線が引かれたページが、空中に舞った。
男の目が大きく開いた。
「……あ」
一枚、二枚と、紙が黒い床に触れた。
その瞬間、灰のように崩れた。
男が固まった。
自分の手を見た。
ノートは、半分に裂けていた。
「何人」
男が呟いた。
「え?」
男は手元に残ったページをめくった。
「何人だった」
一本、二本と、線を数え始める。
「何人」
もう一度、呟いた。
さっきまでは、数えるのも面倒だと言っていた。
なのに今は、必死だった。
「分からない」
声が震えた。
「何人だった」
湊は男を見つめた。
同情ではなかった。
だが、少しだけ分かった気がした。
この男も、忘却を完全に受け入れているわけではない。
だから、数だけでも残している。
その残し方が、あまりにも狂っているだけで。
「お前、忘れるのが怖いのか」
「黙れ」
初めて、男が怒鳴った。
刃はもう持っていない。
それでも、素手で湊へ飛びかかってきた。
大地が間に入り、拳を受け止めた。
「行け!」
「でも!」
「時間!」
湊は画面を見た。
残り時間、23:10。
凛が腕を引いた。
「今ここで倒す必要ない!」
「でもこいつ」
「目的!」
湊は息を詰めた。
戦争を終わらせる。
黒いノートの男を倒すことが、今の目的ではない。
「行くよ!」
凛が《ROUTE》を使った。
黒い空間の先へ、白い経路が現れる。
大地は男を押さえていた。
「大地さん!」
「先行け!」
「三人で戻るって!」
「すぐ追う!」
湊は迷った。
相馬は、三人で戻ってきてほしいと言った。
置いていくわけにはいかない。
大地の《ANCHOR》の光が強くなった。
「俺は」
男の拳を受けながら、大地が叫んだ。
「動かねえのが仕事だ!」
足が地面を捉えている。
「だから、進め!」
男の身体を押さえ込む腕に、力がこもった。
湊は歯を食いしばった。
「絶対来てください!」
「当たり前だ!」
凛と湊は走り出した。
白い経路の先へ向かう二人を、男が追おうとする。
「返せ!」
男の目は大地ではなく、湊へ向いていた。
だが、固定された大地を振りほどけない。
「行かせねえよ」
大地が笑った。
男が、ようやく大地を見た。
「君、殺したら」
口元に笑みが戻っていた。
だが、目は笑っていなかった。
「俺のこと忘れるぞ」
大地が言った。
男が止まった。
「それでもいいのか?」
男の顔が、一瞬だけゆがんだ。
その隙に、大地が頭を叩きつけた。
「ぐっ!」
「さっき見た!」
スパルタクスの真似だった。
男がよろめく。
「俺も行く!」
大地が《ANCHOR》を解き、走り出した。
男が追う。
凛は大地が通れるよう、白い経路を示した。
「こっち!」
大地がその道へ駆け込んだ。
男も続こうとしたが、凛がICカードから手を離した。
《ROUTE》の光が消えた。
男が暗闇の中に残された。
「待て!」
三人は走り続けた。
背後から声が響いた。
「朝倉湊!」
湊は一瞬、振り返った。
男の姿は、もう見えなかった。
声だけが追ってきた。
「次は」
ノイズが交じる。
「誰から消す?」
湊の足が止まりかけた。
凛が腕をつかんだ。
「行く!」
湊は前を向いた。
残り時間、21:44。
黒い空間が変化し始めた。
足元に床が現れ、左右に壁が立つ。
駅のような場所になったかと思うと、病院へ変わった。学校、住宅と、周囲の景色が次々に移り変わる。
「何これ」
大地が息を整えながら言った。
「無名軍の記憶傾向?」
「傾向ないはずじゃ」
凛が周囲を見た。
コンビニ、教室、工場、台所。
満員電車に病室、そして道路。
どれも、歴史には残らない場所だった。
普通の人が、普通に生きていた記憶。
「これ」
湊が呟いた。
「俺たちの戦場だ」
歴史上の大戦ではない。
王や革命、信仰や科学を掲げた場所でもない。
仕事、家族、学校、生活。
それらを守ろうとする普通の人間の記憶が、ここにはあった。
次の瞬間、大量の人影が現れた。
戦闘記憶体とは違っていた。
顔はない。
だが、普通の服を着ている。
会社員、学生、母親、老人、子供。工員や店員、看護師の姿もあった。
誰も武器を持っていなかった。
――第五軍《NAMELESS》経路。
――第二障害。
――選択記憶群を形成。
湊は嫌な予感を覚えた。
中央に三つの扉が現れ、それぞれの前に人影が並んだ。
その上に、文字が浮かぶ。
《代表個体は一つを選択してください》
「何を?」
凛が表示を読んだ。
一つ目。
《一人を救い、十人を失う》
二つ目。
《十人を救い、一人を失う》
三つ目。
《選択を放棄する》
「何だこれ」
大地が言った。
湊は三つの選択肢を見つめた。
普通に生きていた人間の命が、また数で示されている。
先ほどの男は、人を数字にしていた。
今度はシステムが、同じことを要求していた。
《選択制限時間》
60。
59。
58。
「選ばないと?」
凛の問いに、表示が答えた。
――選択未完了の場合、全対象を喪失します。
「ふざけんな」
大地が吐き捨てた。
湊も同じ気持ちだった。
一人と十人。どちらを捨てるのか。
十人を救う方が合理的なのだろう。数だけなら、一人より多い。
だが、その一人が誰なのかは分からない。
名前も顔もない。それでも、一人の人間だった。
「湊、時間」
凛の声がした。
45。
44。
湊は動けなかった。
そこへ、ノイズ交じりの通信が届いた。
『湊さん』
「蓮?」
『他の軍も、選択を迫られてます』
蓮の息は荒かった。
「何を」
『内容は違う』
蓮を通して、王冠軍の声が一瞬聞こえた。
『百を救うために十を捨てろ、か』
ナポレオンだった。
『くだらん』
信長が笑った。
『だが選ばねば全滅』
家康が続けた。
次に聞こえたのは、革命軍だった。
『誰かを鎖に繋げば、残りは進めるだと?』
スパルタクスの声に、龍馬が返す。
『ほいたら、誰を繋ぐがぜよ』
聖域軍からは、ジャンヌの声がした。
『一人を犠牲にすれば、負傷者全員を救える……』
『選べというのね』
ナイチンゲールが言った。
叡智軍では、テスラが呟いていた。
『正答の存在しない最適化問題か』
『正答はない。でも出力は要求される』
チューリングの声が続いた。
すべての軍が、それぞれの思想を試されていた。
湊は目の前の三つの扉へ視線を戻した。
「何を選ぶか」
凛が言った。
残り、31秒。
一人。十人。放棄。
「どれも嫌だ」
「でも選ばなきゃ全員失う」
大地が言った。
28秒。
湊はスマートフォンを握った。
黒いノートを思い出した。
人間を、数だけで扱うことが嫌だった。
その自分が、今、同じことをするのか。
「嫌だ」
もう一度言った。
「湊?」
「選ばない」
「全員消えるぞ!」
大地が声を上げた。
「選択を放棄する」
湊は三つ目を指した。
凛の顔が変わった。
「それ選んだら」
「分かってる」
《選択放棄》
――全対象を喪失します。
「でも、誰かを数字だけで決めたくない」
残り、18秒。
「感情だけで全員失うのか」
「違う」
湊はカメラを起動した。
「選ばないって選択をしたあと」
「何かする?」
凛が気づいた。
「する」
「何を」
大地が聞いた。
湊は笑った。
「分からない」
「おい!」
「でも」
スマートフォンを構える。
「システムが決めた三つから選べって言ってるだけだろ」
残り、11秒。
「なら」
湊は《選択放棄》を押した。
――選択を確認。
「湊!」
凛が叫んだ。
――全対象喪失処理を開始。
人影そのものを再現することはできない。
それは分かっていた。
だから、人ではなく、その周りを撮った。
消失処理が始まる前の空間。
光の明るさ。人影によって遮られていた光。床へ落ちている影の位置。
その場所が、今どうなっているのかを記録した。
「何してる!」
大地が叫んだ。
「消える前の場所を撮ってる!」
「場所?」
「人は戻せない!」
人影が、端から光へ変わり始めた。
「でも!」
湊は録画を止めた。
人々がまだそこにいたことで生じていた、周囲の状態。
その直前の記録を選ぶ。
――対象記憶を認識。
――人物情報の直接再現、不可。
「分かってる!」
続いて、表示が出た。
――周辺物理状態・遮光・影・占有状態の部分再現、可能。
「これ!」
戻すのは、人間そのものではない。
失われる前の、場所の状態だ。
「《REPLAY》!」
消え始めた人影の周囲に、数秒前の状態が重なった。
床へ落ちていた影が戻る。
遮られていた光が、同じように遮られる。
そこに何かが立っていたことで生じた、空間の占有状態が再現された。
顔も、身体も、人物そのものも戻ってはいない。
それでも、MEMORIAが反応した。
――ERROR.
凛が目を見開いた。
――選択結果と領域占有状態に矛盾を検出。
人影の喪失処理は進んでいた。
だが、その場所には、何かが存在していたという物理的な状態が残っている。
――選択放棄。
――全対象喪失処理中。
――喪失対象占有状態を検出。
――判定競合。
大地が笑った。
「無茶苦茶だ!」
「知ってる!」
システムの表示にノイズが走った。
やがて、新しい文字が浮かんだ。
――第五軍選択傾向。
――CLASSIFICATION FAILED.
白い円が光った。
――規定された選択肢への適合なし。
――第五軍経路条件を達成しました。
三人は動きを止めた。
「……それでいいの?」
凛が呟いた。
「無名軍だから?」
大地が聞いた。
湊は荒い息のまま答えた。
「分類されない軍だから」
三つの扉が、すべて消えた。
試験が解除されるのと同時に、消失しかけていた人影が元の位置へ再配置された。
湊が人を戻したのではなかった。
第五軍の経路条件が達成されたことで、システムが試験用の記憶群を初期状態へ戻していた。
やがて、人影も街も静かに消えた。
その先に、一つの道が開いた。
――第五軍経路突破。
残り時間、14:02。
「やった」
凛が笑った。
大地が湊の肩を叩いた。
「心臓に悪い」
スマートフォンが熱くなっていた。
RESONANCE LOADの表示が上昇している。
「俺も」
湊は息を吐いた。
「もう一回はやりたくない」
『湊さん』
蓮から通信が入った。
「何」
その声には驚きが交じっていた。
『他の軍も』
「突破した?」
『はい』
各軍の声が、一つずつ届いた。
『百も十も捨てぬ』
王冠軍のナポレオンだった。
『選択肢を作った者を従わせればよい』
信長が言った。
『それでは試験の意味が違う』
家康が返す。
どうやって突破したのか、詳しいことは分からなかった。
革命軍からは、スパルタクスの声がした。
『鎖を誰かに付けろだと?』
『なら鎖そのものを壊すぜよ』
龍馬が笑った。
聖域軍では、ジャンヌが言っていた。
『犠牲を選ばない』
『義なき選択に従う理由はない』
謙信の声が続いた。
叡智軍からも声が届いた。
『問題設定が不完全だ』
テスラに、チューリングが答える。
『なら前提を壊そう』
『面白い』
ダ・ヴィンチが笑った。
湊も思わず笑ってしまった。
やっていることは違う。
それでも、誰も素直に選んでいなかった。
「歴史人物って、言うこと聞かない人多いね」
凛が言った。
「だから歴史に残ったんじゃねえか」
大地が返した。
「それ、ちょっと納得」
湊は開いた道の先を見た。
明るかった。
三人は走り出した。
残り時間、13:31。
やがて黒い空間が終わり、扉が現れた。
湊はそこから飛び出した。
一瞬、まぶしさに目を細める。
目の前には、巨大な円形闘技場のような場所が広がっていた。
中央では赤い霧が渦を巻き、何かの形を作り続けている。
反対側の扉が開いた。
灰色の外套をまとったナポレオンが現れ、その後ろから信長と家康が続いた。
別の扉からは、スパルタクス、ハリエット、龍馬。
白い旗を掲げたジャンヌに、ナイチンゲールと上杉謙信。
さらに、テスラ、チューリング、ダ・ヴィンチが姿を現した。
全員、ほとんど同時だった。
――五軍代表。
――中央戦争記憶領域への到達を確認。
湊は息を整えた。
選抜された十五人が、初めて同じ場所に揃った。
「遅い」
ナポレオンが湊を見た。
「そっち何秒?」
「十三分十九秒残し」
湊は自分の表示を見た。
13:18。
「一秒!?」
「負けたな、皇帝」
スパルタクスが笑った。
「お前は」
「十三分二十五秒」
ナポレオンが黙った。
龍馬が笑った。
「競争ではありません!」
ジャンヌが言った。
「ならば今から競うか」
「あなたも黙ってください!」
信長への返事に、一瞬だけ空気が緩んだ。
だが、中央の赤い霧が大きくうねった。
地面が震え、全員の表情が変わった。
テスラが装置を見た。
「来る」
「何が」
湊が聞いた。
チューリングが表示を解析していた。
「統合率」
数字が変わっていく。
99.7。
99.8。
99.9。
ダ・ヴィンチは中央を見つめていた。
「人の形を取る」
赤い霧の中に、腕と脚、頭が生まれた。
だが、大きすぎた。
人間ではなかった。
いくつもの鎧が重なっている。
兜、軍服、甲冑、防毒面。王冠と鉄帽まで混ざり合い、一つの身体になっていた。
100%。
――統合完了。
音が消えた。
全員に、同時に警告が届いた。
――UNKNOWN BATTLE MEMORY.
――複数時代戦闘記憶の統合個体を確認。
――危険度評価、EX。
蓮を通して、遠くの壮真の声が聞こえた。
『……マジかよ』
巨大な存在が目を開いた。
赤い光が灯る。
――個体名称。
《BELLUM》
戦争そのものだった。
BELLUMが一歩踏み出した。
地面が割れた。
その右腕が変形する。
剣、槍、銃、砲。
何百もの武器が、一つになっていった。
ナポレオンが剣を抜いた。
スパルタクスの鎖が鳴り、ジャンヌの白い炎が立ち上る。
上杉謙信が刀を抜いた。
信長が笑い、テスラの手元を電気が走った。
大地が《ANCHOR》を使い、凛の足元には《ROUTE》の光が伸びた。
湊もスマートフォンを構えた。
五軍から選ばれた十五人が、初めて同じ敵を見ていた。
BELLUMが咆哮した。
人間一人の声ではなかった。
何千、何万という戦場の叫びが、すべて混ざっていた。
MEMORIAから、最後の通知が届いた。
――FINAL WAR PROTOCOL.
――最終障害を開始します。
湊は、目の前の巨大な戦争を見た。
逃げたい。
少しだけ、そう思った。
それでも、足は下がらなかった。
「行くぞ」
誰が言ったのかは分からない。
次の瞬間、十五人が同時に動いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。
少しでも続きが気になった方は、ぜひ次話もお読みいただけるとうれしいです。




