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『MEMORIA WAR ―記憶戦争― 信長・武蔵・ジャンヌ――歴史の英雄と名もなき者たち』  作者: 130
第二章 赤き戦原

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第21話 忘れる者、忘れない者

歴史上の偉人たちと、名もなき人々が“記憶”を武器に戦う物語です。


※本作には戦闘・死亡・一部残酷な描写があります。

「君、何で覚えてるの?」


 黒いノートを持った男は、笑っていた。


 朝倉湊は答えられなかった。遠くでは砲声と銃声が響いている。青軍と緑軍の戦争は、もう再開していた。


 あと十七秒だった。


 攻撃をやめた状態を六十秒間維持できれば、戦争終了条件を満たせるはずだった。その寸前、この男が一人を殺した。


 誰だったのかは分からない。


 王冠軍の参加者だった。そこまでは覚えている。男だった気もするが、それすらもう自信がなかった。


 顔は浮かばない。声も思い出せない。名前も知らない。


 それでも、目の前の男が誰かを殺したという事実だけは、消えていなかった。


「覚えてない」


 湊が答えると、男の眉がわずかに上がった。


「何を?」


「殺された人」


「じゃあ同じじゃん」


「違う」


「何が?」


「お前が殺したことは覚えてる」


 男の笑顔が、少しだけ消えた。


 湊自身、言葉にして初めて気づいた。


 死者に関する記憶は抜け落ちる。だが、出来事の痕跡まですべて消えるわけではない。


 この男が、誰かを殺した。


 相手の名前も顔も抜け落ちている。それでも、起きたことそのものは残っている。


 黒いノートの男は、湊をじっと見つめた。


「面白いな」


「何が」


「普通はもっと綺麗に消えるんだよ」


 湊の背筋に冷たいものが走った。


「知ってるのか」


「知ってるよ」


「何で」


 男はノートを軽く振った。


「試したから」


 一瞬、湊は意味を理解できなかった。


「……試した?」


「最初は偶然」


 男は、何でもない話をするように続けた。


「揉めた奴がいたんだよ。名前は忘れたけど」


 そこで笑う。


「当然か」


 湊の拳に力が入った。


「それで?」


「死んだ」


「お前が殺したのか」


「たぶん」


「たぶん?」


「覚えてないから」


 男は、そのことに困っている様子もなかった。


「次の瞬間、何で俺が刃物持ってるのか分かんなくなった」


 開いたノートのページには、何本もの線が引かれていた。


「でも変なんだよ」


 男は一本の線を指でなぞった。


「周りも誰も怒らない」


 指を次の線へ移す。


「悲しまない」


 さらに隣へ。


「探さない」


 線をたどる指が止まった。


「最初から、そいつなんかいなかったみたいになる」


 湊の喉が乾いた。


「すごくない?」


「何がだよ」


「完全犯罪とか、そんな小さい話じゃない」


 男は笑っていた。だが、その目には何もなかった。


「罪そのものが消える」


「消えてない」


 湊が言うと、男の動きが止まった。


「俺は覚えてる」


「だから、それが不思議なんだよ」


 男が一歩近づく。湊は反射的にスマートフォンを構えた。


 それを見て、男は足を止めた。


「そのスマホ?」


「近づくな」


「君の能力、変わってるもんね」


「何で知ってる」


「見てたから」


 湊は男を見据えた。


「いつから」


 男は少し考える仕草をした。


「いつだったかな」


 本当に覚えていないらしい。


「白いCORE取った辺り?」


 湊の脳裏に、崩れた建物の影が浮かんだ。そこに立っていた、黒いノートを持つ男。


 あのときから見ていたのか。


「何人殺した」


 湊が聞くと、男はノートに目を落とした。


「さあ」


「線、何本ある」


「数える?」


「答えろ」


 男は開いたページを湊へ向けた。


 一本、二本、三本。


 一目では数えきれないほどの線が並んでいる。男は途中まで指でたどってから、数えるのをやめた。


「面倒」


「お前……」


「でも別に、何人でも一緒だろ」


 その瞬間、湊は走り出していた。


 男の顔めがけて拳を振るう。しかし、男は素早く身をかわした。


 空を切った拳につられ、湊の身体が前へ流れる。その腹へ、男の手にあった刃が走った。


「湊!」


 足元に白い光が走った。


 ――《ROUTE》。


 駆け込んできた黒瀬凛が湊をつかみ、横へ引き寄せる。刃は湊の服だけを裂いた。


「何してんの!」


「来るの遅い!」


「助けてもらって最初に言うこと!?」


 凛の後ろから、桐生大地、相馬源一郎、牧野壮真、さらに無名軍の数人が追いついてきた。


 男は集まった顔を見回した。


「増えた」


 大地が湊たちの前へ出る。


「お前が黒いノートか」


 男は手元のノートを見た。


「そう呼ばれてんの?」


 相馬は怒鳴らなかった。男を静かに見つめ、問いかけた。


「朝倉さんが、あなたを追っていました」


「それで?」


「何をしたんですか」


 男は黒いノートを軽く持ち上げた。


「さあ」


「覚えていない?」


「人はね」


 相馬の表情がわずかに変わった。


「ですが、朝倉さんは、あなたが誰かを殺したと言っている」


 男は湊へ目を向けた。


「そうらしいね」


「では」


 相馬が一歩近づいた。


「あなた自身は、何をしているつもりなんです」


 男は首を傾げた。


「減らしてる」


「誰を?」


「知らない」


「それでも殺す?」


「うん」


 相馬は数秒黙った。


「あなたは、先ほど朝倉さんに『終わったらもう殺せない』と言ったそうですね」


 男が笑う。


「言ったかも」


「つまり、被害者を忘れていても、自分が何をしているかは理解している」


 男は黙って相馬を見た。やがて、また笑った。


「先生みたい」


 相馬は答えなかった。


「本当に先生?」


「以前は」


「へえ」


 男は興味を失ったように視線を外した。


 その横顔へ、相馬が言った。


「忘れることは、言い訳にはなりません」


「言い訳?」


 男は初めて不思議そうな顔をした。


「してないよ」


 相馬の言葉が止まった。


「悪いことだと思ってないから」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 遠くでは戦争が続いている。砲撃と銃声を聞きながら、男は言った。


「この世界、すごく公平だよ」


「どこが」


 凛が低い声で聞いた。


「死んだら消える」


 男は当然のことのように答えた。


「偉い奴でも。普通の奴でも。嫌われてる奴でも。大事にされてる奴でも」


 湊の頭に、スマートフォンの奥に残る、知らない少女の写真が浮かんだ。


 誰なのか分からない。それでも、何かが残っている。


「残った奴は悲しまなくていい」


 男が続けると、相馬の顔が強張った。


「悲しまなくていい?」


「忘れるから」


「それを救いだと思っているんですか」


「救いじゃない?」


「違います」


 即答だった。


 男が相馬を見た。


「悲しくないことと、失っていないことは同じではありません」


 その静かな言葉が、湊の胸に刺さった。


 三十一。三十二。


 誰かが、いた。


 自分は忘れている。だから、その人のために泣くことすらできない。


 だが、失っていないわけではない。


 男はしばらく相馬を見てから、肩をすくめた。


「難しいね」


 凛がICカードを握り直した。


「逃げるつもり?」


「捕まえる?」


「少なくとも、もう好きに殺させない」


「どうやって?」


 凛が答えずにいると、男は笑った。


「俺が誰か殺しても、その人のこと忘れるんだよ?」


 話しながら、一歩後ろへ下がる。


「誰を守ればいいかも」


 もう一歩、距離を取った。


「誰を殺されたかも」


 さらに後ずさりながら、男は言った。


「分からない」


 湊は何も言えなかった。


 その通りだった。


 この男の怖さは、単純な強さではない。


 殺された人の名前も顔も、周囲の記憶から消えてしまう。その人を失った怒りさえ、保ち続けることができない。


「でも」


 少し後ろから声がした。


 高瀬蓮が、片方だけのイヤホンを握っていた。顔は青かったが、逃げようとはしなかった。


「全部は消えてない」


 男の表情が変わった。


「何?」


「俺、誰かに押された」


 湊の心臓が跳ねた。


 誰だったのかは思い出せない。それでも、確かに誰かが蓮を助けた。


「誰だったか分からない」


 蓮のイヤホンが淡く光った。


「声も思い出せない」


 かすかなノイズが漏れる。


「でも」


 蓮は胸を押さえた。


「助けられたってことは残ってる」


 男の笑みが、初めて完全に消えた。


 ――遺想具共鳴反応を検出。


 イヤホンの光が強くなった。


 ――共鳴値上昇。


 湊はスマートフォンの画面を見た。


「蓮」


 だが、続いて表示されたのは、能力解放を告げる言葉ではなかった。


 ――初期遺想能力解放条件、未達。


 まだ、完全な能力にはなっていない。


 それでも、ノイズの中に、ほんの一瞬だけ声が交じった。


『――ろ』


 近くにいた湊にも、聞こえた気がした。


 何を言ったのかは分からない。名前でもない。意味のある言葉だったかどうかすら、確かではなかった。


 ただ、誰かの声の残響があった。


 男は蓮のイヤホンを見つめていた。


「それ」


 近づこうとした男の前へ、大地が出た。


「動くな」


 古い作業手袋が光る。


 ――《ANCHOR》。


 大地の足が地面へ固定された。男はその場で止まった。


「面白いもの持ってるね」


「近づくな」


「欲しいな」


 大地の顔が険しくなった。


 そのとき、別の方向から声が響いた。


「そこまでだ」


 振り向いた先に、数十人の王冠軍がいた。


 先頭に立つのは、灰色の外套をまとったナポレオン・ボナパルトだった。


 黒いノートの男が小さく笑う。


「皇帝まで来た」


 ナポレオンの顔に笑みはなかった。男を見据えたまま、周囲に細い金色の光を展開する。


 ――《GRANDE ARMÉE》。


 湊は目を見開いた。


 金色の線が、王冠軍の参加者一人一人へ伸びていく。ナポレオンと部隊をつなぐ、指揮共有の命令線だった。


 だが、一本だけ様子が違った。


 誰にもつながらず、途中で途切れている。


 黒いノートの男も、それに気づいた。


「何、それ」


「欠損だ」


 ナポレオンが低い声で答えた。


「欠損?」


「私は、この部隊の全員へ命令線を繋いだ」


 参加者たちへ伸びる光の中に、行き先を失った一本が揺れていた。


「今は、その一本だけが途中で途切れている」


 男の笑みが少し薄くなった。


「誰に繋がってたの?」


「分からん」


 ナポレオンは即答した。


「名はない。顔も思い出せん。どの役割を与えた者だったかも、記憶から抜け落ちている」


 湊は息を呑んだ。


 ナポレオンも、その人を覚えているわけではない。名前も顔も、記憶から消されている。


 それでも、《GRANDE ARMÉE》によって作られていた部隊の構造には、空白だけが残っていた。


「誰だったかは分からん」


 ナポレオンが剣を抜いた。


「だが」


 途切れた命令線が揺れる。


「そこに一人いたことだけは分かる」


 男は、その光をじっと見ていた。


「面白い」


「何がだ」


「覚えてないのに」


 男の口元に笑みが戻った。


「消えきってない」


 ナポレオンの目が細くなる。


「それで十分だ」


 王冠軍の参加者たちが、一斉に武器を構えた。《GRANDE ARMÉE》の金色の線が強く輝く。


 湊たちも身構えた。だが、ナポレオンの標的は無名軍ではなかった。


 剣先が、黒いノートの男へ向けられる。


「捕らえろ」


 王冠軍が左右へ展開し、男の退路を塞ぎ始めた。


 男が初めて、はっきりと後退した。


「これは無理かな」


「逃がさない!」


 凛がICカードを握った。


 ――《ROUTE》。


 彼女がすでに通った経路に白い光が走る。凛がその道を使って動き、無名軍の参加者たちも男の逃げ道へ回り込んだ。


 正面では、大地が《ANCHOR》を維持して立ちはだかっている。左右には王冠軍が広がった。


 一瞬、男を完全に囲む形になった。


「終わりだ」


 湊が言うと、男は周囲を見回した。


 そして、笑った。


「そう?」


 手にした刃を、自分の方へ向ける。


 湊の顔色が変わった。


「待て!」


 だが、男が狙ったのは自分の身体ではなかった。


 足元に倒れていた戦闘記憶体へ、刃を突き立てたのだ。


「何を――」


 戦闘記憶体の身体が崩れた。


 MEMORY DELETIONの警告は出ない。参加者ではないからだ。


「意味ないだろ!」


 湊が叫んだが、男は答えなかった。


 次の瞬間、崩れた身体から大量の赤い霧が噴き出した。


 男の姿も、その向こうにいた王冠軍も、たちまち見えなくなった。


「煙幕!」


 凛が叫ぶ。


「左!」


 ナポレオンの声とともに、《GRANDE ARMÉE》を通じて指示が共有される。王冠軍が同時に動いた。


 だが、赤い霧には戦場そのものが反応していた。


 ――戦闘記憶体への非正規干渉を確認。


 ――局所再構成を開始。


「何?」


 霧の中に赤い光が点った。


 周囲で倒れていた戦闘記憶体が、一斉に再構成され始める。一体、十体、二十体と、その数が増えていった。


「じゃあね」


 霧の向こうから、男の声がした。


「また終わりそうになったら」


「待て!」


 湊は声の方へ走った。


 しかし、赤い霧の中から銃や槍を持つ兵士たちが現れ、行く手を塞いだ。大量の戦闘記憶体が、男との間に壁を作っていた。


「撃つな!」


 相馬の声が響いた。


 ここで不用意に戦えば、戦闘はさらに広がる。


 湊は足を止めた。兵士たちの向こうに、男の姿は見えなかった。


 数秒後、霧が薄れ始めた。


  兵士たちの向こうを遠ざかる男の頭上に、白い円が一瞬見えた。


 第五軍《NAMELESS》。


 湊は息を詰めた。


 同じ軍だった。


 だが、確かめようとしたときには、男の姿はもう霧の向こうへ消えていた。


「くそ……」


 湊は拳を握り締めた。あと少しだった。


 ナポレオンが剣を下ろす。


「追わん」


 湊は振り返った。


「何で!」


「地形も位置も分からぬ」


「でも」


「追って部隊を分散させれば、次に狙われる」


 正しい。


 分かっている。それでも、腹が立った。


「また来る」


 凛が言った。


 湊にも分かっていた。


 また終わりそうになったら。男自身が、そう言った。


 《WAR》を終わらせようとする限り、あいつは邪魔をする。


「逆に考えましょう」


 相馬が静かに言った。


「何を?」


「彼は、戦争が終わることを望んでいない」


「だから?」


「なら」


 相馬は、湊のスマートフォンに残る文字を見た。


 《戦争を終わらせよ》


「私たちがこれを終わらせること自体が、彼への一番大きな反撃になります」


 湊はしばらく黙っていた。


 やがて、頷いた。


「終わらせる」


 今度は、はっきりと言った。


「絶対に」


「ならば」


 別の声が重なった。


 ナポレオンだった。


「続けるぞ」


 湊は少し驚いて、彼を見た。


「協力するんですか」


「勘違いするな」


 ナポレオンは、青と緑の二枚の《COMMAND MEMORY》へ目を落とした。


「《WAR》は王冠軍が取る」


「無名軍も狙ってます」


「なら先に条件を満たせ」


「そうします」


 二人は一瞬、睨み合った。


 壮真が小声で言った。


「何で普通に皇帝と張り合ってんだよ」


「慣れてきたんじゃない?」


 凛が答える。


「歴史人物に?」


「変な慣れ方」


 ナポレオンは、その会話を無視した。


「停戦は失敗した」


 湊も二枚の紙を見た。


「でも、条件は分かった」


 《双方が攻撃行動を停止した状態を60秒間維持》


 戦争終了判定の対象は、当該戦闘記憶領域内の全敵対行動。


 青軍と緑軍だけではない。この領域にいる参加者の攻撃も含まれていた。


「一人でも攻撃すれば駄目」


 凛が言った。


「参加者も含めて」


「そう」


 青軍と緑軍に加えて、王冠軍、無名軍、そして黒いノートの男。


 全員の攻撃を、六十秒だけ止める必要がある。


 壮真が顔をしかめた。


「無理じゃない?」


 湊も一瞬、そう思った。


 何十人、何百人という相手がいる。敵軍も、歴史人物も、殺人者もいる。


 その全員を、六十秒間戦わせない。


「無理ではない」


 ナポレオンが言った。


「どうやって?」


 壮真の問いに、ナポレオンは戦場を見ながら答えた。


「命令には適用範囲がある」


 湊の視線が、《COMMAND MEMORY》へ動いた。


「青軍と緑軍には、停戦を命じられる。だが参加者には命じられん」


「……そうか」


 凛が気づいた。


「命令と、戦争終了判定の範囲が違う」


 青軍と緑軍を止めても、参加者が攻撃すれば失敗する。


 黒いノートの男の一撃で、すべてが崩れたのはそのためだった。


「ならば、参加者にも」


 ナポレオンの言葉を、湊が継いだ。


「戦わせなければいい」


「どうやって?」


 相馬が聞いた。


 誰も、すぐには答えられなかった。


 王冠軍、革命軍、聖域軍、叡智軍、無名軍。そして、未所属の者たち。


 《CRIMSON FRONT》にいる参加者すべての戦闘を、一つの軍だけで止めることはできない。


 そのとき、高瀬蓮のイヤホンが突然、強く光った。


「蓮?」


 呼びかけられた本人も、驚いていた。


 ――遺想具共鳴反応。


 今までより、明らかに強い光だった。


 ――複数通信記憶への同時接続を確認。


 イヤホンからノイズが漏れた。そこに、一つ、二つと声が重なる。


 すぐに数えきれなくなった。


 蓮が耳を押さえた。


「うるさ……!」


「外して!」


 真奈が駆け寄った。


「待って!」


 蓮はイヤホンを外さなかった。


 遠く離れた場所から、いくつもの声が聞こえている。


「王冠軍……」


 蓮が呟いた。


「聖域軍……」


 別の声を聞き取ろうと、顔をしかめる。


「革命軍……無名軍……」


 相馬が目を見開いた。


 蓮は息を呑んだ。


「全部」


「何が?」


「この領域にいる」


 イヤホンから、白い光が溢れた。


「軍の声が」


 湊の画面に、システムの表示が現れた。


 ――共鳴値、規定値へ接近。


 ――能力解放条件を再計算。


 まだ、解放ではない。


 それでも、近づいている。


 蓮が顔を上げた。呼吸が荒かった。


「もし」


 声を絞り出す。


「こっちからも送れたら」


 全員が動きを止めた。


「何を?」


 壮真が聞くと、蓮は戦場を見た。


「六十秒」


 相馬の表情が変わった。


 湊も理解した。


 全員を倒す必要はない。命令できなくても、伝えることならできるかもしれない。


 戦争を終わらせるために、六十秒だけ武器を下ろしてほしい。


 その呼びかけを、五つの軍すべてへ届ける。


「できる?」


 湊が聞いた。


 蓮はイヤホンを見た。


「分かりません」


 湊は少し笑った。


「それでいい」


「え?」


「俺たち、そればっかりだから」


 凛もわずかに笑った。


「多分、できるかもしれない」


「もう多分なのか、できるのか分かんねえな」


 壮真が言い、相馬の口元にもかすかな笑みが浮かんだ。


 ナポレオンだけは笑わなかった。蓮をまっすぐに見ていた。


「小僧」


 蓮の身体が固まった。


「はい!」


「本当に全軍へ届くなら」


 一呼吸置いて、ナポレオンは言った。


「戦場を動かせる」


 蓮が目を見開いた。


 歴史上、何万、何十万という兵を動かした男が、そう言っていた。


「ただし」


 ナポレオンは続けた。


「声が届くだけでは足りん」


「何が必要?」


 湊が聞くと、ナポレオンは五軍のいる赤い戦場へ目を向けた。


「従う理由だ」


 誰も答えられなかった。


 六十秒。それだけだ。


 だが、その間、敵同士に武器を下ろさせなければならない。


 湊はゆっくりとスマートフォンを見た。


 戦争を続けさせる命令。失われる記憶と名前。消えた誰か。そして、それを利用する黒いノートの男。


 この戦場には、五つの軍がいる。


「理由……」


 何を言えば、皆が六十秒間、戦うのをやめてくれるのか。


 答えは、まだなかった。


 それでも、初めて方法が見えた。


 《WAR》を終わらせるには、強い能力や英雄がいるだけでは足りない。


 敵同士が、同じ六十秒に戦わないことを選ぶ必要がある。


 湊は赤い空を見上げた。


「次で終わらせよう」


 壮真が笑った。


「でかく出たな」


「何回もやりたくない」


「それは同感」


 凛が聞いた。


「次失敗したら?」


 湊は少し考えた。


「その次」


 凛が笑った。


「やっぱ変わった」


 湊は聞き返さなかった。


 少し離れた場所で、黒いノートの男がゆっくりと歩いていた。


 赤い霧に隠れ、その姿は誰からも見えない。


 男はノートを開き、並んだ線を指でたどった。


 一本、二本、三本。


 そこで指が止まった。


「六十秒か」


 誰から聞いたのか。いつ聞いたのか。


 もう自分でも分からない。


 それでも、数字だけは覚えていた。


 男は新しいページを開いた。


 初めて、線ではなく文字を書いた。


 その下にペンを移し、少し考えてから笑った。


「次は」


 ペン先が動く。


「何秒で壊れるかな」


 男はノートを閉じた。


 その頭上で赤い霧が途切れ、一瞬だけ軍章が見えた。


 砕けた鎖でも、盾でも、王冠でも、開かれた書でもない。


 白い円。


 第五軍。


 《NAMELESS》。


 男は、無名軍だった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


『MEMORIA WAR ―記憶戦争―』は、“記憶”と“歴史”をテーマにした異能バトル長編です。


少しでも続きが気になった方は、ぜひ次話もお読みいただけるとうれしいです。

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